第02話 寝ても床下収納は戻らない
寝れば忘れられる――多分、そのように考えたんだ、俺は。
人間には、そういう便利な機能が備わっている。
嫌な事があっても、布団に潜って目を閉じれば、少なくともその間だけは現実から逃げられる。
十年間ニートをしている俺にとって、睡眠は最強の回避スキルだった。
将来の不安、両親への罪悪感、そして、昔の失敗。
ふとした瞬間に襲ってくる「このままでいいのか」という声――そういうものは全部、寝れば一時的に薄まる。
だから俺は昨夜、台所の床下収納から青白い文字が浮かび上がるという、どう考えても人生で一番やばい出来事に遭遇したあと、震えながら自室に戻って布団を頭からかぶった。
そして、こう思った。
――寝よう。
考えてはいけない。
台所の床下に石造りの階段があったことも、そこから冷たい風が吹いてきたことも、青白い文字で【ダンジョン所有者を確認しました】と表示されたことも、全部なかったことにする。
明日起きたら、きっと普通の床下収納に戻っている。
これは夢、深夜の寝ぼけた頭が見せた幻覚だ。
そう自分に言い聞かせ、俺は無理やり目を閉じた。
だが、眠れるはずがなかった。
目を閉じるたびに、あの階段が浮かぶ。
床下収納の中にぽっかり開いた、家の構造を完全に無視した石の階段。
青白く光る苔と、湿った石の匂い、そして奥から聞こえた水音。
最後にあの文字だ。
【ダンジョン所有者を確認しました】
「……所有した覚えがないんだけど」
布団の中で小さく呟いた。
もちろん返事はない。むしろ、返事があっても困る。
布団の中で青白い文字が浮かんだら、多分俺は心臓を押さえてそのまま終わる。
結局の所、俺はほとんど眠れなかった。
気づけば窓の外が薄く明るくなっており、同時に鳥の鳴き声が聞こえる。
二階の廊下を、誰かが歩く音がした。父さんか母さんだろう。
俺は布団の中で息を潜めた。
――いつもの朝だった。
父さんが起きる。
母さんが台所へ行く。
朝食の準備をする。
俺は部屋から出ない。
ここまでは普通なんだ。
しかし、問題は母さんが床下収納を開けるかどうかだった。
もし開けたらどうなるんだろう?
母さんは石の階段を見るのか?
それとも、もしかして母さんには普通の収納に見えるのか?
いや、そもそも昨夜のあれが本当にあったのか。
俺はベッドの上でスマホを握りしめ、検索欄を開いた。
『床下収納 階段 出現』
検索結果には、リフォーム会社の広告と、床下点検業者のページが並んだ。
『家の床下 ダンジョン』
今度は、少し違う結果が出た。
それは、ダンジョン庁の公式サイト。
民間ダンジョン管理会社の広告。
探索者向け保険の比較記事。
ダンジョン経営者向けの税務相談。
それから、小説投稿サイトのタイトルがいくつか。
この世界に、ダンジョンはある。
それ自体は、別に珍しいことではない。
十数年前から、日本各地に地下迷宮のような空間が現れるようになった。
魔物が湧き、薬草や鉱石が採れ、宝箱まで生成される謎の空間。
最初は大騒ぎになったらしいが、今では国が管理制度を整え、探索者という職業もある。
ダンジョン素材を扱う会社もあれば、探索者向けの装備店もあるし、危険区域の警備、素材買い取り、魔物処理、迷宮調査、ダンジョン清掃なんて仕事まであるらしい。
そして、一部の許可を受けた企業や自治体は、ダンジョンそのものを運営している。
いわゆる、ダンジョン経営だ。
入場料を取り、探索者を受け入れ、採れた素材から手数料を得る。
危険な魔物を管理し、罠を整備し、死亡事故が起きないよう安全基準を守る。
俺はダンジョンは目で見た事はないのだが、ニュースで聞いたことはあるし、動画で見たこともある。
探索者配信者が「今日は初心者向けの民営ダンジョンに来ています」なんて言っているのも、何度か見た。
けれど、それは俺とは関係のない世界だった。
外に出られない俺が、探索者になるわけがない。
人と話せない俺が、ダンジョン関係の仕事をするわけがない。
そもそも、ダンジョンなんて国や企業が管理するもので、普通の家の床下から生えてくるものではない。
だからこそ、検索欄にさらに打ち込む。
『個人宅 床下 ダンジョン 出現』
検索結果には、都市伝説まとめサイトと、怪しい掲示板の書き込みがいくつか出てきた。
『自宅地下にダンジョンが出た場合 対処法』
それらしい公的な情報はない。
『ダンジョン所有者を確認しました』
今度は、ゲーム攻略サイトと小説投稿サイトばかりが並んだ。
「だよな……」
俺はスマホを顔の横に落とした。
ダンジョンがある、それが俺が昨日見た床下収納からだ。
しかし、実家の床下収納から階段が出てきて、俺個人が所有者扱いされるなんて話はどこにも載っていなかった。
検索で解決するなら、世の中の怪異はもう少し親切だ。
床下収納からダンジョンが出た時の対処法、なんて公式ページがあったら、それはそれで怖い。
午前八時過ぎ――階下から食器の音が聞こえた。
母さんが台所にいる。
俺はベッドからそっと降りるが、廊下に出る勇気はない。
だが、部屋のドアを少しだけ開けて、階下の音を聞くくらいならできる。
階段の下から、味噌汁の匂いが上がってきた。
父さんと母さんの会話が続いているが、内容までは分からない。
普通だ、普通すぎる。
母さんが悲鳴を上げることもない。
父さんが「何だこれは」と怒鳴ることもない。
警察を呼ぶ気配もない。
ということは、床下収納は普通に戻ったのか。
俺は少しだけ安心すると同時に、少しだけ怖くなった。
もし戻っているなら、昨夜のあれは俺の幻覚ということになる。
それはそれでかなりまずい。
「病院……いや、無理だな」
自分で言って、自分で却下する。
病院に行けるなら、十年も引きこもっていない。
結論からして、俺は両親が出かけるまで部屋で待つことにした。
父さんは仕事へ。
母さんは買い物へ。
玄関のドアが閉まる音を二回聞いてから、さらに十分待つ。
家の中が完全に静かになったのを確認して、俺はようやく部屋を出た。
階段を下りる足が重く、台所に近づくにつれて、心臓が早くなる。
ついた先は、昨日と同じ場所。
台所の隅の床下収納に視線を向ける。
見た目は普通だった。
四角い蓋に金属製の取っ手。何の変哲もない、うちの床下収納。
俺はしばらくそれを見下ろした。
「……戻ってるよな?」
返事はない――そりゃそうだ。床下収納が返事をしたら、その時点で俺の負けである。
俺は取っ手に指をかけた。昨日よりも、手が震えた。
一度見ているから怖くない、なんてことはない。
むしろ逆だった。
あの階段が本当にあったらどうする?
なかったらなかったで、俺の頭がやばい――どちらに転んでも怖い。
「確認だけ……」
昨日と同じ言葉を呟いて、俺は蓋を持ち上げ、そして、固まった。
そこには、石造りの階段があった。
昨日と同じように、いや、昨日よりもはっきりと。
暗闇へ続く古い石段。
青白く光る苔に湿った空気。
普通の保存食も、醤油も、缶詰も、何ひとつない。
――現実だった。
少なくとも、俺の目にはそう見えている。
「……嘘だろ」
声が掠れた。
その瞬間、俺の目の前に青白い文字が浮かび上がった。
【管理者権限を付与します】
「ぎゃー!やっぱり出た!」
俺は思わず後ろへ飛び退いた。
文字は空中に浮かんだまま、静かに明滅している。
昨日と同じ、ゲームのシステムメッセージみたいな無機質な文字だ。
続けて、次の文が表示される。
【このダンジョンは、あなたの所有物です】
「いらない!所有した覚えがない!」
俺は即答してみる。
だが、当然のように文字は消えない。
俺の拒否には一切反応しない。
まるで規約に同意するボタンを押す前から、勝手に契約完了している悪質なサービスみたいだった。
俺は床下収納の中に続く階段を見下ろした。
視線を向けると、昨日よりも奥が少し見える気がした。
石段は十数段ほど下ったところで緩やかに曲がっており、その先は見えない。
壁の苔が青白く光っているおかげで、完全な暗闇ではない。
けれど、それでも十分に怖い。
冷たい風が上がってきている、間違いなく湿っている。
でも、不思議と腐った匂いはしない。
「……いや、待て。落ち着け」
俺は自分に言い聞かせた。
こういう時は情報収集だ。
ゲームでも、初見の場所で一番やってはいけないのは突撃。
まず周囲を見いて、敵の配置を確認する。
チュートリアルを読み、セーブポイントを探す――現実にセーブポイントはないが。
俺はスマホのライトをつけ、階段へ向けた。
光が石壁を照らす。
壁には見たことのない模様が刻まれていた。
文字にも見えるし、ただの傷にも見える。
少なくとも、日本の家の床下にあるべきものではない。
俺は喉を鳴らした。
――戻っていなかった。
――夢でもなかった。
俺の家の床下収納は、どうやら本当にどこか知らない地下空間につながっている。
そして最悪な事に、その管理者は俺らしい。
俺は床下収納の蓋をそっと閉めた。
その隙間から、青白い文字がまだ浮かんでいる。
【このダンジョンは、あなたの所有物です】
「……だから、いらないって言ってるだろ!」
言い返しても、文字は消えない。
十年間、外の世界から逃げ続けてきた俺は、今度は、実家の地下に現れた意味不明な世界から逃げられなくなっていたのである。
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