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第九話「長雨と、二つの選択」

 雨が、三日続いた。

 梅雨でもない時期の長雨だった。

 グロムが朝一番に報告に来た。顔が険しかった。

「水路が溢れかけてる。このまま続くと試験区画が水浸しになる」

 俺はグレイスの膝の上で、板を並べた。

 ど・の・く・ら・い・も・つ

「あと一日降り続けたら、厳しい。二日なら——ほぼ終わりだ」

 俺は天を仰いだ。

 148年分の記憶の中に、水害対策の知識はある。土嚢を積む。排水溝を掘る。でも——人手と時間がいる。

 今のレイン家に、余剰の人手はほとんどない。


 セルが来た。

 地図を持っていた。領地の水路の図だ。どこで調べてきたのか。

「対処できる。排水を東側に流せば区画は守れる。人手は——俺が近隣に頼む」

 俺は頷いた。

 でも、板を出した。

 の・ー・と・が・お・く・れ・る

 セルが眉を寄せた。

「ノートの解読が遅れる? 今それを言うか」

 俺は続けた。

 ど・ー・ぜ・る・が・ま・た・く・る

「……ドーゼルが来る前に、ノートの価値を証明したい、ってことか」

 頷いた。

 セルが地図を机に叩きつけた。

 静かな音だった。でも——怒っていた。

「今は畑が優先だろ。ノートは後でいい。担保は農地だ。農地が死んだら全部終わる」

 俺は少し考えた。

 セルは正しい。

 でも——片方だけじゃ足りない。

 俺は板を並べた。

 り・ょ・う・ほ・う・や・る

「両方? 人手が足りない」

 俺は続けた。

 お・れ・と・せ・る・で・わ・け・る

 セルが黙った。

「俺が畑をやる間、お前がノートをやれ、ってことか」

 頷いた。

「お前は動けないだろ。まだ八ヶ月だ」

 俺は板を出した。

 う・ご・か・な・く・て・も・で・き・る

 セルが俺を見た。

 長い間、見た。

「……どうやって」


 その日の午後。

 グレイスが書斎に入った。

 ノートを取り出した。

 俺が膝の上で、ページをゆっくりめくった。

 前半は読める。先代ガウスの研究記録。記憶の魔法の理論。

 後半は——相変わらず読めない。

 でも今日は違う目的で開いた。

 俺が探しているのは——理論じゃない。

 先代が書いた、この研究の「価値の根拠」だ。

 ドーゼルに「見せる」ためには、何が価値になるかを特定する必要がある。

 俺はページを繰った。

 三十ページ目。

 一行だけ、普通の文字で書かれていた。


——王立魔法院が二十年前に断念した研究の、理論的解答がここにある。


 俺は動きを止めた。

 王立魔法院。

 この国の魔法研究の最高機関だ。

 148年分の記憶の中に、王立魔法院の名前は何度も出てきた。予算規模、研究テーマ、政治との関係——全部知っている。

 そこが断念した研究。

 先代は——それを解いていた。

 グレイスが俺の顔を覗き込んだ。

「アル様? 何か見つかりましたか」

 俺は板を並べた。

 お・お・き・い

「大きい、ですか」

 頷いた。

 もう一枚。

 お・も・っ・た・よ・り・お・お・き・い


 夕方。

 セルが戻ってきた。

 泥だらけだった。

「排水は完了した。試験区画は守れた——代わりに西側は諦めた」

 泥だらけの手が、少し震えていた。

「西の小作人には——頭を下げてくる」

 俺は「あ」の板を出した。

 セルが俺の前に座った。

「ノートの方は」

 俺は板を並べた。

 お・う・り・つ・ま・ほ・う・い・ん・が・す・て・た・け・ん・き・ゅ・う

 セルの目が、変わった。

「……王立魔法院が?」

 頷いた。

「それを先代が解いていたのか」

 頷いた。

 セルが黙った。

 長い間、黙った。

「……売る気になるな」

 俺は首を振った。

「わかってる。売らない。でも——」

 セルが立ち上がった。

「これ、ドーゼルに見せたら、借金どころじゃなくなるかもしれない」

 俺は頷いた。

 セルが窓の外を見た。

 雨が、上がり始めていた。

「農地は守った。ノートの価値も見えた」

 セルが俺を見た。

「お前の言う通り、両方やって——両方進んだ」

 俺は笑った。

 セルが、珍しく柔らかい顔をした。

「……認める。お前の判断が正しかった」


 夜。

 雨は完全に上がっていた。

 窓から星が見えた。

 試験区画は——守られた。

 ノートの価値は——想定より大きかった。

 でも、まだ終わっていない。

 王立魔法院が断念した研究。それが何を意味するのか、俺にはまだ全部は見えていない。

 価値が大きいということは——危険も大きいかもしれない。

 先代はなぜ、この研究を床下に隠したのか。

 なぜノートに罠を仕掛けたのか。

 答えはまだ、後半の暗号の中にある。

 俺は星を見上げた。

 一等賞への道は——思っていたより、深いところまで続いている。

 でも今日、セルと二人で——両方進めた。

 それで十分だ、今日は。


第九話 了

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