第七話「春の足音と、玄関の影」
馬車は、黒かった。
紋章は見たことがない。でも——質がいい。馬も御者も、整っている。
金のある組織の馬車だ。
148年分の記憶が、静かに告げた。
これは取り立てじゃない。査定だ。
応接室に、男が座っていた。
四十代。細身で、髪を丁寧に撫でつけている。笑顔が柔らかい。目だけが、笑っていない。
「レイン男爵、お久しぶりでございます。ドーゼル商会、回収担当のドーゼルと申します」
父が頷いた。顔が強張っている。
「本日は——状況の確認に参りました。脅しに来たわけではございません」
ドーゼルが、ゆっくりと茶を一口飲んだ。
「ご安心ください。私は回収に来ただけです。——可能性があるかどうかを、見極めに」
俺はグレイスに抱かれて、廊下にいた。
扉の隙間から、応接室が見えた。
セルが隣に立っていた。
腕を組んで、ドーゼルを見ていた。
「……商会の直属か」
小声で言った。
「取り立て屋じゃない。査定役だ」
俺は頷いた。
セルが眉を寄せた。
「厄介だ。暴力なら追い返せる。でもこいつは——数字で動く」
俺も、同じ判断をしていた。
ドーゼルの声が、廊下まで聞こえた。
「率直に伺います。春までの返済、見込みはございますか」
父が沈黙した。
「……努力している」
「努力、ですか」ドーゼルの声に、薄い笑いが混じった。「具体的には?」
また、沈黙。
父には、今は何もない。
農地の改革は始まったばかりだ。ノートはまだ使えない。担保になるものが、今は何もない。
セルが動こうとした。
俺はセルの袖を引いた。
板を出した。
ま・だ
「なんで」
き・い・て・か・ら・う・ご・け
セルが舌打ちした。
でも——止まった。
ドーゼルが立ち上がる気配がした。
「わかりました。本日は状況確認だけで結構です。ただ——」
一拍、置いた。
「次にお伺いする時は、何か”見えるもの”をご用意いただけると助かります。数字でも、物でも、見込みでも」
父が頷く音がした。
「あと一点だけ」
ドーゼルの声が、少しだけ変わった。
「領地で農地改革をされているとか。黄金芋、でしたか」
父が驚いた気配があった。
「……知っているのか」
「商会ですので」ドーゼルが笑った。「情報は仕事です。——面白い試みだと思いました。この地域では誰も作っていない」
少し間があった。
「もう一つ。先代様の研究資料が残っているという話も、耳に入っております」
廊下が、静かになった。
俺は動かなかった。
グレイスの腕が、わずかに固まった。
「売る気がおありなら、うちで引き取ります。相応の値で」
立ち上がりながら、もう一言だけ添えた。
「結果が出なければ、次は別のご提案になりますが」
笑顔のまま、言った。
ドーゼルが帰った。
玄関が閉まった。
廊下に、父とセルと俺が残った。
父が、壁に手をついた。
疲れた背中だった。
セルが俺を見た。
「研究資料のことを、知ってた」
俺は頷いた。
「どこから漏れた」
セルが小声で呟いた。
「使用人か……」
グレイスが、一瞬だけ視線を落とした。
俺は板を並べた。
し・ら・な・い・が・よ・み・こ・み・ず・み
「読み込み済み?」
頷いた。
「……お前、いつから」
俺は笑った。
セルがため息をついた。
「次に来た時に”見えるもの”が必要だ」
俺は頷いた。
「農地は間に合わない。ノートは——売らないんだろ」
俺は頷いた。
「じゃあどうする」
俺は少し考えた。
板を並べた。
の・ー・と・は・う・る・の・で・は・な・く・み・せ・る
セルが眉を寄せた。
「売るんじゃなく、見せる?」
頷いた。
「……価値を証明して、交渉材料にする、か」
俺は「あ」の板を出した。
セルが腕を組んだ。
「頭おかしいな、お前」
俺は笑った。
「——わかった。次の手を考えよう」
夜。
俺は天井を見上げた。
ドーゼルは敵じゃない。でも味方でもない。
「潰すか、育てるか」を見に来た男だ。
農地、ノート、借金——全部が今、同じ天秤の上にある。
でも——悪くない。
天秤に乗っているということは、まだ可能性がある。
148年間、俺は天秤にすら乗れなかった。
今は——乗っている。
それで十分だ、今日は。
第七話 了




