第六話「三男の農業革命、始動」
生後八ヶ月が経った。
俺はようやく、座れるようになった。
視界が広がる。手が両方使える。五十音の板を並べるスピードが上がった。
グレイスは毎朝俺を窓辺に座らせて、外の景色を見せてくれる。
領地が見えた。
広い、のに——寂しい土地だった。
畑はある。でも作物が貧相だ。土が痩せている。水路が古い。働いている人間の数が、明らかに少ない。
148年分の記憶が、静かに答えを出した。
この土地、変えられる。
俺はグレイスに、板で伝えた。
ぐ・ろ・む・に・あ・い・た・い
グレイスが少し考えた。
「グロムじいさんに、ですか」
頷いた。
「……わかりました。グロムじいさんは先代様の時代からこの領地の土を見てきた方です。六十年以上、この土地と生きてきた。ただ——少し頑固で、一度『無理だ』と言ったら聞かない方で」
俺は笑った。
頑固で構わない。現場を知っている人間の方が信用できる。
グロムじいさんは、小屋の前で鍬を磨いていた。
背が曲がって、手が節くれだって、顔の皺が地図みたいだった。
グレイスが連れてきた俺を見て、顔をしかめた。
「……なんだ、赤ん坊か」
俺はグレイスに板を渡した。
グレイスが読む。
「この土、水さえ引ければ黄金芋が育つと思っているそうです」
グロムが鼻を鳴らした。
「育たん」
即答だった。
「黄金芋はこの辺の土には合わん。儂が三十年前に試した。全滅した」
俺は次の板を渡した。
「三十年前と今では水路の場所が違うと言っています」
「関係ない。土の質が問題だ」
俺はまた板を渡した。
「土の質は変えられると」
グロムが顔を上げた。
「変えられる? どうやって」
「腐葉土を混ぜる。三ヶ月かける。それから種を植える」
グロムが鼻を鳴らした。
「三ヶ月。借金の期限は春だろ。間に合わん」
「試験区画だけでいい。全部じゃない」
グロムが黙った。
長い間、俺を見た。
「……どこでそれを覚えた」
「知らない人に教わった」
グロムがため息をついた。
「赤ん坊が言う言葉じゃないな」
俺は笑った。
グロムは笑わなかった。でも——鍬を置いた。
「一区画だけだ。失敗したら諦めろ。儂は信じとるわけじゃない。念のため付き合うだけだ」
帰り道。
セルが待っていた。
腕を組んで、俺を見下ろした。
「グロムじいさんに会いに行ったのか」
俺は頷いた。
「黄金芋の話、聞いた」
また頷いた。
セルが眉を寄せた。
「リスクが高すぎる」
俺は板を出した。
「理由を言え」
「未知の作物だ。この地域では誰も作っていない。失敗したら種代も無駄になる。今は借金の返済が優先だろ」
俺は板を並べた。
だ・か・ら・や・る
「だから?」
俺は続けた。
だ・れ・も・や・っ・て・な・い・か・ら・
た・か・く・う・れ・る
セルが黙った。
少し考えた。
「……最初の収穫は高値がつく、か」
俺は頷いた。
「春に間に合わなければ意味がない」
俺は板を並べた。
か・ね・は・べ・つ・の・て・で・か・せ・ぐ
「別の手?」
「……ノートか。売るのか」
俺は首を振った。
「売らない? じゃあ——使う、か」
俺は答えなかった。
答えなかったが——首も振らなかった。
「……厄介だな」
セルが小さく呟いた。
「わかった。農地はやれ。でも——俺も計画に入れろ」
俺は「あ」の板を出した。
試験区画の作業が始まった。
腐葉土を混ぜる。水路の詰まりを清掃する。グロムが渋々手を貸した。
三日目、問題が出た。
水路の一箇所が、詰まりより深い場所で崩れていた。
修繕には材料と人手がいる。今のレイン家にある余剰は、ほとんどない。
グロムが俺を見た。
「言っただろ。この土地は一筋縄じゃいかん」
俺は黙って、板を並べた。
つ・ぎ・は・ど・こ・が・く・ず・れ・や・す・い
「……まだやるのか」
俺は頷いた。
グロムが長い間俺を見た。
それから——また鍬を手に取った。
「東の水路は比較的マシだ。そっちから手をつけろ」
夜。
俺は窓の外を見た。
試験区画はまだ、ただの土だ。
黄金芋の種はまだ植えていない。水路はまだ直っていない。借金の期限は近づいている。
何も、まだ形になっていない。
でも——動き始めた。
グロムが鍬を持った。それでいい。
セルが計画に入った。それでいい。
一等賞への道は、思っていたより土が固い。
でも固い土は——変えられる。
三ヶ月かければ。
その時、グレイスが部屋に入ってきた。
顔が、少し青かった。
「アル様。屋敷の門の前に、見慣れない紋章の馬車が止まっています」
俺は窓の外を見た。
春の足音が、思ったより早く近づいていた。
第六話 了




