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第四話「あ・い・う・え・お」

問題は、口だった。

 舌が回らない。唇が言うことを聞かない。「あ」と言おうとすると「ぅあ」になる。「い」は「ぅい」になる。148年分の語彙が頭の中にあるのに、出口が壊れている。

 赤ん坊の体とは、かくも不便なものか。

 俺は毎日、口の筋肉を鍛えた。誰もいない時間に、ひたすら口を動かした。あ、い、う、え、お。あ、い、う、え、お。

 グレイスには「よく口を動かすお子様ですね」と言われた。

 そうじゃない。トレーニングだ。


 転機は、生後五ヶ月の終わりに来た。

 グレイスが部屋の掃除をしていた時、棚の奥から古い箱を取り出した。

 木製の、平たい箱。蓋を開けると、色とりどりの板が並んでいた。それぞれの板に、文字が彫ってある。

 あ、い、う、え、お——。

 五十音のおもちゃだった。

「まあ、懐かしい。エルド様が赤ちゃんの頃に使っていたものですね」

 グレイスは箱ごと俺のそばに置いて、掃除を続けた。

 俺は、その箱を見つめた。

 見つめた。

 見つめた。

 ——これだ。


 作戦開始。

 まず現状確認。俺の手は小さい。板は大人の手のひらサイズだ。持ち上げるのは難しい。でも押すことはできる。床に並べれば、指で示すこともできる。

 問題は、グレイスに「これは遊びじゃない」と伝えることだ。

 赤ん坊がおもちゃを触っても、普通は「かわいい」で終わる。

 まず、信頼を積み上げる必要がある。

 俺は計画を立てた。


 その日の夜。

 グレイスが寝かしつけのために椅子に座った。

 俺は五十音の箱を引き寄せて、板を一枚取り出した。

「あら、お気に召しましたか」

 グレイスが微笑む。

 俺は「あ」の板を、グレイスに向けて差し出した。

「あ、ですね」

 グレイスが復唱する。

 俺は次に「り」を出した。「が」を出した。「と」を出した。

 四枚の板を、床に並べた。

 あ・り・が・と。

「…………」

 グレイスが、固まった。

 五秒。十秒。

「ア、アル様……?」

 俺は、にこっと笑った。

 グレイスの目が、みるみる潤んだ。

「も、もしかして……お礼を、言ってくださっているんですか。先日の、胸のことで」

 俺は「あ」の板を一枚、もう一度差し出した。

 グレイスは口を押さえて、しばらく動けなかった。


 翌日から、俺は毎日少しずつグレイスと話した。

 板を並べる。グレイスが読む。グレイスが確認する。俺が笑うか首を振るかで答える。

 最初はグレイスも「気のせいかもしれない」という顔をしていた。

 でも三日目には確信に変わった。

 この子は、わかっている。

 五日目、グレイスは母に報告しようとした。

 俺は「ま・だ」の板を出した。

 グレイスが息を呑んだ。

「……まだ、ですか」

 俺は笑った。

 グレイスは長い間俺を見てから、静かに頷いた。

「……わかりました。アル様がよいとおっしゃるまで、私だけの秘密にいたします」


 次の日の昼過ぎ。

 使用人が廊下で話しているのが聞こえた。

「最近、物騒ですね。隣の領地で夜盗が出たって」

「こちらも用心しないと。人が減りましたから」

 声が遠ざかった。

 俺は天井を見上げた。

 夜盗。

 148年分の記憶の中に、夜盗の手口は山ほどある。没落貴族の屋敷は狙われやすい。使用人が少なく、警備が手薄で、金目のものだけを素早く奪える。

 今夜は——静かすぎる予感がした。


 夕方。

 俺は作戦の本題に入った。

 板を、一枚ずつ、丁寧に並べた。

 し・ょ・さ・い

 グレイスが読む。

 ゆ・か・し・た

 グレイスの手が止まった。

 み・て・ほ・し・い

 部屋が、静かになった。

 グレイスはしばらく、並んだ板を見つめていた。

 書斎。床下。見てほしい。

 俺はグレイスの目を見た。

 嘘じゃないと、目で言った。

「……書斎の、床下」

 グレイスの顔が、青くなった。

「先代様が……」

 声が震えていた。

 俺は静かに、「あ」の板を一枚出した。


 その夜。

 グレイスは誰にも言わず、一人で書斎へ向かった。

 しばらくして、廊下に足音が戻ってきた。

 扉が開いた。

 グレイスの手に、古びた革表紙のノートがあった。

 震える手でノートを抱えて、グレイスは俺のそばに座った。

「アル様。これは……いったい、何なのですか」

 俺は板を並べた。

 さ・き・だ・い・の・け・ん・き・ゅ・う

 グレイスが息を呑んだ。

 俺はもう一枚。

 い・つ・か・よ・め・る

 グレイスが小さく笑った。

「……そうですね。アル様ならきっと」


 深夜。

 音がした。

 窓じゃない。裏口の方だ。

 グレイスは眠っている。

 俺だけが、目を開けていた。

 足音が三つ。廊下を移動している。慎重だが、慣れていない。プロの夜盗じゃない。借金絡みの、圧力をかけに来た連中だ。

 俺は動けない。

 五ヶ月の体では——廊下に出ることすらできない。

 逃げる場所もない。

 俺は部屋を見回した。

 棚の上に、人形が並んでいた。

 グレイスが飾った、布製の小さな人形たちだ。

 俺は目を閉じた。

 ——人形使いの記憶。再現できるか。


 足音が、扉の前で止まった。

 扉が、ゆっくりと開いた。

 男が三人、入ってきた。

 俺はベッドで眠っていた。

 動かなかった。

 ただ——右手の指が、ほんの少しだけ、動いた。


 最初の男が、足元を見た。

 棚の上の人形が、関節の角度をわずかに変えていた。

 視線が、そちらに引きずられた。

 一瞬だけ。

 でもその一瞬で——足が、止まった。


 二番目の男が前に出た。

 その瞬間、別の人形の腕が、ほんの数ミリ、持ち上がった。

 男の視界の端で、何かが動いた。

 反射的に体が傾いた。

 自分でも気づかないくらい、わずかに。

 でもそのわずかが——重心を、殺した。

 膝が、折れた。


 三番目の男が声を上げようとした。

 喉に、何かが触れた気がした。

 糸のような、細い何かが。

 一瞬だけ光って、消えた。

 ——息が、途切れた。


 三人が、ほぼ同時に、崩れた。

 静かだった。

 まるで眠るように。

 ——遅れて、床に触れる音だけがした。


 俺は指を、止めた。

 人形たちを、元の位置に戻した。

 棚の上。グレイスが飾った通りの場所に。

 それから目を閉じた。

 朝まで、そのままでいた。


 朝。

 屋敷が騒がしくなった。

「侵入者です! 三人、裏廊下で倒れています!」

 使用人の声が響いた。父が飛び出してきた。グレイスが俺を抱いて廊下に出た。

 セルが、真っ先に現場に向かった。


 セルは、しばらく現場を見ていた。

 三人の男。外傷なし。戦闘の形跡なし。武器は抜かれていない。

 床を見た。引っ掻いた跡もない。争った形跡が、何もない。

 不自然な倒れ方だった。

 まるで——急に力が抜けたように。

 セルは顔を上げた。

 廊下の向こう、グレイスに抱かれた俺がいた。

 普通の赤ん坊の顔をしていた。眠そうな顔をしていた。

 セルは視線を戻した。

 現場をもう一度、端から端まで見た。

 それから——俺の部屋の方向を、一度だけ見た。

「……見えないな」

 小さく、呟いた。

 セルは棚の人形に、指をかけた。

 わずかに、動かした。

「偶然にしては、出来すぎてる」

 その位置を——目で覚えた。


 夜。

 俺は窓の外を見た。

 星が出ていた。

 今夜のことを、誰も知らない。

 それでいい。今はまだ、隠す。

 言葉を手に入れたのに——使わない夜もある。

 あ・い・う・え・お。

 それでも、今はまだ沈黙を選ぶ。

 ——見つかるな。

 ——一等賞は、まだ先だ。


第四話 了

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