第三話「赤ん坊は、家を救う算段をしていた」
生後三ヶ月が経った。
首が据わった。視界が安定した。
進捗報告:赤ん坊、順調に赤ん坊をやっている。
ただし中身は148年分の経験と、数百人分の記憶を持つ元アンデッドだ。
外から見れば、よく笑うおとなしい赤ん坊。
内側では、毎日レイン家の経営状況を分析していた。
グレイスの記憶は、宝だった。
三十年分のレイン家の歴史が、そのまま入っている。
先代男爵、レイン・ガウス。
温厚で学者肌の人物だった。領地経営より魔法研究が好きで、財産の大半を研究に注ぎ込んだ。研究の内容は——「記憶の魔法」。
俺は、その事実を知った瞬間、天井を見上げたまま三分間動けなかった。
記憶の魔法。
俺の能力と、同じ方向を向いている。
グレイスの記憶の中に、一つだけ気になる情報があった。
先代が死ぬ直前、書斎の床下に何かを隠した。グレイスはその場を偶然目撃していたが、内容は知らない。主人の秘密として、誰にも言わずに三十年間抱えていた。
研究ノートだ。きっとそうだ。
これは使える。
問題は、今だ。
レイン家の財政は深刻だった。
使用人の数はピーク時の三分の一。父が借りた金の返済期限が、来年の春に迫っている。
そして昨日——俺は聞いた。
夜。扉の隙間から声が漏れてきた。
「男爵、そろそろ誠意を見せていただかないと」
低い声。愛想はあるが、目が笑っていない声だ。
「わかっている。春までには必ず」
「春、ですか。もう三度目の春ですよ」
父の声が、わずかに震えた。
俺は静かに息を吐いた。
来年の春。猶予は半年もない。
作戦を立てた。
三本柱だ。
一つ目——書斎の床下にある先代のノートを回収する。魔法研究の成果なら、魔法師協会や貴族の好事家が高値で買う可能性がある。
二つ目——領地の農地を改善する。小作人が逃げているのは、土地が痩せているからだ。148年分の記憶の中に、農業知識がある。土壌改良、作物の選定、水路の整備——全部使える。
三つ目——父に俺を見させる。
そのために、まずグレイスを動かす。
翌朝。
グレイスが俺を抱いて窓辺に連れてきた。
毎朝の日課だった。俺が太陽を見たがると、グレイスは知っている。
グレイスの腕の中で外を眺めながら、俺はグレイスの袖を、ぎゅっと掴んだ。
「あら、アル様?」
俺は彼女の胸のあたりを叩いた。
先日の心臓の件——「あなたは信頼できる」という意味で叩いた。
グレイスが俺の目を見た。
俺は、笑った。
全力で、笑った。
グレイスの目尻に皺が寄った。
「……アル様、笑えるようになられたんですね」
廊下を通りかかった母が、足を止めた。
扉の向こうで、何かが動く気配がした。
俺はもう一度、笑った。
今度は、廊下の向こうに向けて。
その日の夕方。
父が、初めて俺の部屋に来た。
仕事の帰りだろう、外套を着たままだった。疲れた顔で、でも何かに引き寄せられるように扉を開けて——俺を見た。
二秒じゃなかった。
ちゃんと、見た。
俺は父の目を、真っ直ぐに見返した。
148年分の、落ち着いた目で。
父が、小さく息を呑んだ。
「……変な子だな」
それだけ言って、出て行った。
でも——確かに、見た。
俺は天井を見上げた。
三本柱の作戦は、まだ始まったばかりだ。
ノートの回収。農地の改善。父を動かすこと。
最初に超えるべきはセルだと思っていた。
でも——順番が変わるかもしれない。
この家で一番に「必要な存在」になれば、自然とセルも父も、こちらを向く。
一等賞への道は長い。
でも今日、確かに一歩動いた。
それで十分だ——今日は。
ただ一つ、誤算があるとすれば。
——セルは、すでに動いていた。
第三話 了




