第二話「三男には、名前もいらないらしい」
生まれて三日が経った。
俺はベッドの中で天井を眺めながら、静かに現状を整理していた。
赤ん坊だ。完全に赤ん坊だ。
手足が思い通りに動かない。首が据わっていない。腹が減ると泣くしかない。
148年間、自分の意思だけで生きてきた俺が、今や母親の胸に顔を埋めないと生きていけない生き物になっている。
これが人間か。
正直、想像より大変だ。
レイン男爵家について、俺はすでに把握していた。
148年分の記憶の中に、貴族社会の知識は山ほどある。没落貴族がどういう末路を辿るか、三男がどう扱われるか、全部知っている。
屋敷は古い。調度品は古い。使用人の数が少ない。
そして俺は生まれて三日、父の顔をまだ見ていない。
なるほど。大体わかった。
命名式は、生後七日目に行われた。
レイン家の広間。薄暗くて、埃っぽい。
長男のレイン・エルドは十二歳。背が高く、整った顔をしている。俺を一瞥して、すぐに視線を外した。
興味なし。
次男のレイン・セルは九歳。ぽっちゃりしていて、目だけが妙に鋭い。俺をじっと見ていた。
値踏みするような目だった。
そして父、レイン男爵。
四十代。かつては精悍だったろう顔が、今は疲弊と虚栄心だけで維持されている。目の奥が死んでいる。
父が俺をちらりと見た。
ちらり、だった。
「……アルでいい」
それだけだった。
エルドは「エルドリック」という名の由来を三分かけて説明された。セルは「セルヴァン」という名に込めた意味を朗々と語られた。
俺は「アル」だった。
由来なし。意味なし。所要時間、二秒。
式が終わる頃、使用人の一人が小声で隣に囁いた。
「三男はどうせ修道院送りでしょう。名前なんてなんでもいいのよ」
聞こえていた。
筒抜けだった。
俺は天井を見上げた。
まあ、いい。
名前なんて記号だ。148年間、名前すらなかった俺には十分すぎる。
ただ——アル、か。
悪くない。短くて、呼びやすい。
気に入った。
それに——修道院送りになる前に、結果を出せばいい。
それだけの話だ。
命名式が終わり、乳母のグレイスが俺を抱いて廊下を歩いていた。
五十代。丸顔で、目尻に深い皺がある。よく笑う顔だ。
俺はグレイスを観察した。
148年で積み上げた観察眼が、静かに告げる。
この人は、この家で一番まともだ。
そして——呼吸が浅い。
三歩ごとに、わずかに乱れている。歩幅が普段より小さい。左手が、無意識に胸のあたりに触れている。
昨日から兆候はあった。でも今日は明らかに悪化している。
俺は記憶を辿った。
——心臓の不整。血流の滞り。三日前に死んだ神官と同じ兆候だ。
あの神官は、気づいた時には手遅れだった。
俺はグレイスの袖を掴んだ。
放っておけなかった。
「あら、アル様?」
グレイスが俺の顔を覗き込む。
俺は彼女の胸のあたりを、意図を持って叩いた。
グレイスが一瞬固まり、自分の胸に手を当てた。
「……あら」
何かに気づいたような顔をした。
「奥様、少し休ませていただいてもよろしいでしょうか。なんだか、胸のあたりが気になってきて」
その夜、医者が来た。
グレイスは軽い心臓の不調と診断された。早期発見だったため、薬で対処できるとのことだった。
俺はベッドの中で、天井を見上げた。
うまくいった。
——使える。全部だ。148年、無駄じゃない。
ふと、父の顔を思い出した。
俺を二秒で名付けた、あの目。
長男には期待。次男には警戒。三男には——無関心。
使用人の言葉も思い出した。
「三男はどうせ修道院送り」
なるほど。
順番がある。
まずこの家で一番になる。父に、二秒じゃなくてちゃんと見てもらう。
そのために最初に超えるべき相手は——次男、セルだ。
あの値踏みの目。あの警戒心。
賢い奴だ。だからこそ、超えた時の意味がある。
148年隠れ続けた俺が、初めて「見つけてほしい」と思った夜だった。
——この家で、一等賞を取る。
それが、今世の最初の目標だ。
第二話 了




