26 平民は戻れない日々の幻を見る2
エルはアランとマイクとともに国王の謁見室に向かった。部屋には、国王の椅子に座るラインハルトと、そのそばにエドワードとロゼ、そして、ラインハルトと向かい合うようにして、ミシェルが立っていた。
「(…あ…)」
懐かしい後ろ姿にエルは胸を詰まらせる。ラインハルトが、アランも来たのか、と声をかけると、それに反応して、ミシェルがこちらを振り向いた。エルは、ミシェルを前から見て、どこか違和感がした。
「アランお兄様」
ミシェルは嬉しそうに口元をほころばせると、おしとやかにお辞儀をした。アランは微笑むと、ミシェルのそばに向かった。
エルは、マイクとともにその場に留まったまま、ミシェルの姿を少しだけ表情を歪めて見つめる。
彼女の体は、最後に会った日から明らかに痩せ細っていた。それなのに、お腹だけが大きく膨らんでいた。
「(身籠られている…)」
エルはそう察するけれど、ここまで全身が痩せて不健康そうな体はあまりに異常で、しかしそれを感じさせないミシェルの穏やかな笑顔にエルは更に不可解な気持ちになる。
「あら、あなたもいたのね」
アランと話していたミシェルは、ドアの傍にいたエルに気がつくと少しだけ目を丸くして、そして微笑んだ。エルはミシェルと目が合うと、深々と頭を下げた。
「…それで、二晩だけここにいられるんだな」
ラインハルトがミシェルに確認するように尋ねた。ミシェルは、はい、と頷いた。
「もうすぐこの子が生まれる予定ですから、殿下に無理を言ってここへこさせていただいたんです。国王になられたお兄様にも、…お父様にもご挨拶がしたかったから…」
ミシェルはお腹を撫でながら、そう目を伏せていった。ラインハルトは、身重なのに無理をさせたな、とミシェルをねぎらった。ミシェルは、そうだ、とラインハルトのほうを見た。
「ここにいる間、エリィに私の世話を頼みたいです。ここにいたときに知っている者の中で、もう頼める者は他にいないから」
ミシェルはエルのほうを見て、頼めるかしら、と尋ねた。するとアランが、いや…、と止めた。
「彼女は今、あまり体調が…」
アランの言葉に、ミシェルの顔が不安そうに曇る。エルはそんなミシェルの顔が見ていられず、大丈夫です、と声を出した。
「私に頼んでいただけて嬉しいです。お世話させてください」
エルはそう頭を下げた。ミシェルはそんなエルを見て嬉しそうに口元をほころばせる。
しかし、エドワードは怪訝そうな顔をした。
「あいつは大丈夫なのか?あれからおかしくなったと聞いていたが」
そう言うエドワードをロゼが、殿下、と少し戒めるように言った。
「おかしくなってません、混乱しているだけです。…ミシェル様といたら、エリィの悲しい気持ちが紛れるかもしれないじゃないですか」
「ミシェルは彼の国の妃だぞ?あいつの心のリハビリ要員なんかじゃない」
「あんなに彼女にお世話になったのにそんな言い草!」
「それとこれとは話が別だ」
「まあまあまあ、ミシェルの希望なら叶えてやろうじゃないか。二晩しかいられないんだ。楽しい思いをしていってほしいからな」
ラインハルトが、エドワードとロゼの口論を止めた。エドワードは咳払いをしながら眼鏡を直して黙った。ロゼはエドワードをちらりと見つめながら、小さくため息をついた。
ラインハルトはミシェルの方を見て、優しく目を細めた。
「長旅で疲れただろう。今日はゆっくり休むといい」
ラインハルトの言葉に、御心遣いいたみいります、とミシェルはお辞儀をした。マイクが、では、と声を出した。
「ミシェル様のお部屋へご案内いたします。さあエリィさんも一緒に」
マイクにそう呼ばれて、エルはミシェルと共にこの部屋から出た。
エルは、ミシェルとマイクと共にミシェルが結婚前に使っていた部屋に来た。ミシェルの部屋には、ミシェルの旅の荷物が運ばれてきていた。ミシェルはソファーに座ると、疲れたのか小さく息をついた。エルは、ミシェルの傍に来て、ミシェル様、と声をかけた。
「紅茶をお持ちいたします」
「ありがとう」
微笑むミシェルに、エルは胸の底から安堵した。すると、駄目です駄目です、とマイクが割って入ってきた。
「紅茶はお腹のお子に悪いというのは常識ですよ!エリィさんご存知ないのですか?!紅茶ではなく、ハーブティーをご用意ください!」
「そっ、そそ、そうなんですか…?!」
エルは動揺して狼狽えた。するとミシェルはくすくすと笑った。
「あら、彼の国では少しは飲んでいたわよ?飲み過ぎなければいいって」
「駄目です駄目です!万が一のことがあっては、この国と彼の国の友好に関わります!」
エリィさんでは心配ですから、私がご用意してきます!とマイクは部屋から出ていった。その姿に、ミシェルはくすくすと笑う。
「なんだか、相変わらずよねマイクって。見てたら懐かしくなっちゃった」
ミシェルはそう口元に手を当てて笑った。エルはそんなミシェルを見つめて、つられるように笑った。ミシェルはそんなエルを見上げて、じっと見つめた。
「…何かあったの?」
「え?」
「さっきラインハルトお兄様のお部屋で…。それに怪我も…」
「…」
エルは目を泳がせて、そして目を伏せた。
「…色々事情があって、実はもう仕事を辞めていて、お城から実家に帰ろうとしていたんです」
「まあ、そうだったの?」
ごめんなさい、無理を言ってしまって、とミシェルが申し訳なさそうに眉をひそめた。エルは、いえ、と頭を横に何度も振った。
「私ずっと、ミシェル様のことが心配で…。体調がずっとよろしくなかったと伺っておりましたから…。お顔を一度でも見られたらって、ずっと望んでいました。だから本当に嬉しかったんです」
エルはそう言って小さく微笑む。体調が悪くてここへ来られないと言っていたのは、妊娠していたからだとわかって少し安心したものの、しかし、妊婦のイメージとはかけ離れるほど痩せ細った彼女の姿に、手放しに安堵していいのかエルは戸惑う。
ミシェルはじっとエルの目を見つめて、そして、そう、それからよかった、と微笑んだ。
「…ということは、お仕事を辞めているのなら、寝泊まりするところがないということ?」
ミシェルが口元に手を当てて首を傾げた。エルは、どう答えていいのかわからずに曖昧に笑った。するとミシェルは、なら、と言った。
「私のお部屋に泊まったらいいのよ。そうしましょう」
ミシェルは、決まりね、と笑う。エルは、姫の部屋に泊まってもいいのか困惑したけれど、つい最近まで王子の書斎で寝泊まりしていたためか、そうしてもらえるならありがたい、という思考にいたり、お世話になります、と頭を下げた。
その日の夜は、国王と王子たち、ロゼ、そしてミシェルが揃って夕飯を食べた。エルはミシェルの世話係として皆が食事する部屋に控えていた。エルは、兄や義姉と和やかに食事をするミシェルをじっと見つめていた。
「どうかしましたか」
アランの付き添いとして、エルと同じように後ろに控えていたマイクがエルに小声で話しかけた。エルは、いえ…、と呟いた。
「ミシェル様が、食欲があるようでよかったって、思って…」
「え?」
「ああ、いえ…最後にお会いした時よりも随分痩せていらしたから、何か調子が悪かったのかなって…」
エルの言葉に、マイクは信じられない、という顔をした。
「あなた本当に何にも知らないんですね。妊娠した女性は、具合が悪くなって水すらとれなくなる方もいらっしゃるんです」
マイクの言葉に、そうなんですか…、とエルは呟く。マイクはそんなエルをちらりと見た後、さっきよりも更に小声で話しかけた。
「あなたは、いつまでここにいらっしゃるつもりですか?」
「えっ…、えっと…、ミシェル様のお世話が終わったら…」
エルの言葉に、マイクは安堵したような顔をする。
「ああよかった。いつまでも殿下のお部屋にあなたを匿うわけにはいきませんから。これ以上あなたに居座られて、変な噂が流れたら困ります。殿下が結婚もしないで平民と…なんて、殿下の名誉に関わります」
マイクはそう冷たく言い放つ。エルは気まずそうに目を伏せる。マイクは向こうで皆と食事をするアランを眺めた。
「…私はあきらめません。殿下にその気がなくても、殿下にはきちんとご結婚していただきたいんです」
「…国王はもう決まりましたが…」
「そういう話ではありません。…人生は、一人で生きていくにはあんまりにも長すぎます。私だっていつまでも殿下のおそばにいられるわけじゃないんですから」
マイクは不安そうに目を伏せる。エルはそんなマイクを見つめる。
「(…この人も、この人なりにアラン殿下のことを思っている…)」
エルはマイクから目を逸らして目を伏せた。それがアランにとって正しいかどうかはさておいて、彼も間違いなくアランのことを思っている。
マイクはどこか虚ろな目でアランを見つめた。
「…あの日、生家へ帰るエル様を引き止める殿下を、私がたしなめなければ…」
マイクはそう呟いた。エルは声を漏らしてマイクを見つめて、えっ、と声を漏らした。マイクは唇を噛んだあと、小さく息をついた。そして、エルの方を真っ直ぐに見つめた。
「私は、殿下に幸せになっていただかなくてはならないのです。絶対に」
身内だけの晩餐会を終えて、エルはミシェルと共に部屋へ戻った。
ミシェルはお風呂に入り、寝間着に着替えた。当然のようにエルがミシェルの着替えを手伝おうとしたら、彼の国では一人でしていると断られた。
エルはミシェルの後にお風呂に入り、そして、ミシェルの寝間着を借りて着替えた。
エルが寝る準備を終えると、ミシェルはベッドに横になっていた。ミシェルはエルに気がつくと、こっち、と呼んだ。
「なんでしょうか」
「あなたはこっちよ」
ミシェルは、ベッドに2つ置いてあった枕のうちの1つをエルに渡した。エルは、えっ、と声を漏らした。
「あの…」
「ここで一緒に寝ましょう」
ミシェルはそうにこりと微笑んだ。エルは、動揺しながら、い、いいんでしょうか…、と呟く。ミシェルは、いいの、と言った後、そうだ、とゆっくり立ち上がった。
「今日は本を読みたかったの」
「本を?」
「ええ。向こうでは読ませてもらえないから」
ミシェルはそう言いながら自身の書斎に向かった。エルは一瞬固まった後、ミシェルの後に続いた。
ミシェルは本棚に並べてある本を眺める。
「女はね、本を読んじゃいけないんだって」
ミシェルはそうなんでもないように言いながら、今から読む本を探した。エルは、彼女が向こうでどんな暮らしをしているのかが垣間見えて胸が痛む。一瞬見えた向こうでの彼女の暮らしと、やせ細ってしまった彼女の身体がリンクしそうになって、エルは慌てて軽く頭を振る。
「(こんな一片から、過大妄想よ。飛躍しすぎている)」
「こんなにあると悩むわね」
ミシェルはそう、楽しそうに呟く。エルは、そんなミシェルに幼かった頃の彼女が見えて、咄嗟に、これはどうでしょう、と背表紙を指差した。ミシェルは、え?と言いながらエルの指差す本を手に取った。そして、ぱっと笑顔になった。
「ああこれ!懐かしい…」
「懐かしい…ですか?」
「ええ。…むかし、エルお姉様とよく一緒に読んだのよ」
ミシェルはそう、懐かしそうに目を細める。エルはそんな彼女を見つめて、過去を思い出して胸が痛む。
ミシェルは本の表紙を見つめて、うん、と頷いた。
「まずはこれにしましょう」
「まずは?」
「この後も、その後も読むわ。夜は長いから」
ミシェルはそういってくすくす笑うと、ソファーに向かった。エルは、だ、大丈夫ですか…?と心配そうに彼女に近づいた。
「長旅の後なのに…。夜更かしせずにお休みになられたほうが」
「ふふ、そうね。そこそこにしておくわ」
ミシェルはそう言うと、本を読み始めた。エルはそんなミシェルを見つめる。ミシェルは本から目線を上げると、あなたも座って、と言った。エルは少し戸惑ったあと、ミシェルの隣に座った。
ミシェルは本を読み進めながら、くすくすと笑った。
「ここ、ここのセリフ、昔もおかしくて笑ったわ」
ミシェルに話しかけられて、エルはミシェルの指差す部分に目を落とした。そして、あっ、と口元をほころばせながら声を漏らした。
「私も、このシーンよく覚えてます」
「可笑しいわよね、どうしてこんなことをするのかしら」
「動揺しすぎて咄嗟に…ですかね」
「それにしたって可笑しいわ」
ここ、ここもよ、とミシェルはページをめくる。エルは、どこですか、と言いながら本に目を落とす。ミシェルと本を読み進めながら、いつの間にか2人は肩を寄せ合って、そして、同じところで声を上げて笑っていた。
しばらくミシェルと一緒に夢中になって本を読んでいたら、エルはふいに自分がお腹をすかせていることに気がついた。
「(そういえば、ここ数日ほとんど何も食べてなかった…)」
エルはそんな事を考えた時に、ふと、今日、少女からもらったクッキーのことを思い出した。ポケットから紙袋を取り出して、エルはその中を見た。ミシェルがそれに気がついて不思議そうに、なあにそれ、と尋ねた。
「戴冠式のお祭りで、そこの街で配っていたのを頂いたんです。…なんだかお腹が空いちゃって…。よろしかったらミシェル様もいかがですか?」
そう尋ねながら、彼女が街で配っていたものなんか口にしないか、と思ってなんとなく気まずくなった。しかしミシェルは嬉しそうに、いいの?と表情を明るくした。
エルはそんなミシェルに嬉しくなりながら、紙袋から1枚クッキーを取り出して彼女に差し出した。そして、自分も1枚手に取り、そして一口食べた。素朴で優しい味のする、特別美味しいクッキーだった。
「…なんだか、懐かしい味」
ミシェルは咀嚼し終わった後、そう目を細めた。エルは、懐かしい?と首を傾げた。ミシェルは、ええ、と頷いた。
「よくエルお姉様が、こんなクッキーを焼いてくれたのよ」
ミシェルはそう言って、食べかけのクッキーを見つめた。エルは、そんなミシェルの横顔を見つめる。ミシェルは最後の一口を口にいれると、うん、美味しい、と少しだけ涙のにじむ声で言った。エルはそんなミシェルを見ていて胸が苦しくなって、慌てて目を逸らして残りのクッキーを頬張った。
「さて、もう寝ましょうか。明日は朝から祝賀パーティーみたいだから」
ミシェルはそう言うとゆっくり立ち上がった。エルは、はい、と返事をして、ミシェルの後に続いてベッドに向かった。




