表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/95

22 元令嬢の初恋の成れの果て3

ヴェルドに連れられて、エルは無心に歩いた。ヴェルドはアランの部屋の前に着くと、扉をノックしようとした。エルは咄嗟に、待ってください、と言った。ヴェルドは、じろりとエルを見た。


「…なんだ」

「…もしも殿下が、この話を飲まなかったらどうするんですか」

「そんなことはあり得ない」

「答えになっていません。飲まなかったら、ネルにあの件を教えるという話はなくなるんですか?」

「…」


ヴェルドはエルを見た後、小さく息をついた。


「…お前が俺と結婚さえすれば教える」

「…殿下が国王にならなくても?」


エルはじっとヴェルドを見た。ヴェルドはうっとおしそうにエルを一瞥したあと、扉のほうに視線を移して、ああ、と返事をした。


「お前が俺の手元にいれば、今回のチャンスを逃したとしてもまた、次の機会に役に立つだろうから」


ヴェルドはそう言うと、扉をノックした。エルは、呆然とヴェルドを見上げた。


もしも本当に、アランがヴェルドの話に乗ったとしたら。

妻を持つアランが来るのを、ヴェルドの家でひたすら待ち続ける日々を送るのだろうか。アランの妻はどう思う?アランの未来の子供はどう思う?いつかアランの気持ちが妻に戻っていったとしたら、エルに残されるのは、自分に関心のないヴェルドの妻という、無意味な肩書だけだ。それを想像しただけで、エルは恐怖で胸が詰まった。この選択が本当に、今の自分に選べる一番の正解だというのだろうか。


中にいるアランからの返事を聞くと、ヴェルドは扉を開けた。

部屋には、作業机に書類を広げて、椅子に座って何かを書くアランの姿があった。忙しそうに何やら仕事をしているようである。アランはこちらに背中を向けたまま、すまないヴェルド、と話した。


「君との約束の時間までに、前に話した件について見直したかったんだが、会議やら謁見やらが立て続けにあって…」

「いや、今日はその話じゃないんだ」


ヴェルドがそう返すと、アランは手を止めて、それじゃあなんだ?と座ったまま振り返った。すると、アランはヴェルドの後ろに立つエルに気がついて、目を丸くした。


「…なんで彼女が?」


アランはそう驚いた様子で呟いた後、眉をひそめてヴェルドを見た。アランは立ち上がると、ヴェルドのそばに来た。そして腕を組むとため息をついた。


「…ヴェルド、頼むから、俺に何かをさせたいときに彼女を使うのはやめてくれないか。これ以上彼女を巻き込むな。君の要望を今から聞くから、彼女は帰してくれ」


アランはそう言うと、エルの方を見た。そして、申し訳なさそうに眉を落とすと、口元だけ微笑を浮かべた。


「すまなかった。もう戻ってくれ」


アランはそう、エルに優しい声で言った。エルは、そんなアランを呆然と見上げる。彼の綺麗な青色の瞳を見つめていたら、懐かしい気持ちが蘇る。

あの日、あの港町で久しぶりに会った時と見違えるようだった。まだエルが貴族だった頃に好きだった彼と、もうほとんど変わらないように見える。


ーーあの王子が好きだったからこんなとこまで来たんだろ


ネルに言われた言葉が頭に響く。平民として生き直したために、越えられない身分の差がありすぎるから、だから見ないふりをしていただけだったのかもしれない。本当はずっと、心の底では彼のことが今も好きで、でももう叶うはずがなかったから、だからせめて彼が別の人と幸せになる未来を願うことに決めていただけだったのかもしれない。

それが今、こんな形であれ結ばれることができるのだとしたら。それは自分にとって素敵な未来になるのだろうか。思い望んでいた形ではなかったとしても、それでも。


「(……本当に、そうなのかな……)」


エルは、何もわからなくて、考える力も起きなくて、肩を力なく落としたまま立ち尽くす。ネルからもヴェルドの話に乗れと言われて、もうどうしたらいいのかがわからなくなってしまった。


「(…いつまでたっても、私は空っぽだ…。生まれ変わったような気になっていただけの、虚しい幽霊……)」


呆然と立ち尽くすエルの隣にヴェルドは立った。そして、いいや、とアランに向かって口を開いた。


「彼女にはいてもらう必要がある」


ヴェルドの言葉に、アランは怪訝そうに眉をひそめた。ヴェルドは口元を緩めると、エルの方を見た。


「この度、俺は彼女と結婚することになった」


ヴェルドの言葉に、アランは一瞬言葉を失った。動揺した様子で2人を見た後、暫くの間黙った。長い沈黙のあと、アランはやっと、そうか、と言ってぎこちなく笑った。


「…以前から、君たちはどこか親しげだったからな。いつの間にか、そういう関係になっていたんだな」

「冗談はやめろ。こんな女、俺の趣味じゃない」


ヴェルドは不機嫌そうに眉をひそめた。そんなヴェルドに、アランは表情を硬くした。


「…なら、どういうつもりだ」

「俺はこの女と結婚するが、夫婦として生活する気はない。こいつに指一本触れる気はないし、そんなのは想像するだけでおぞましい」


ヴェルドはエルを冷たい目で一瞥したあと、またアランの方を見た。アランは眉をひそめると、ヴェルドに対して少しずつ怒りの顔を見せた。


「……君は、俺に何が言いたいんだ」


アランの質問に、ヴェルドは口元を緩めた。


「俺の妻を、君の好きにさせてやる。君が俺の選ぶ令嬢と結婚して、次の国王になるのなら」


ヴェルドの言葉に、アランは少しの間の後額に手を当てて黙り込んだ。そして、重いため息をついた。

アランの様子を眺めながら、ヴェルドは、どうなんだ、と返事をせかした。


「どうするんだ、受けるのか?」

「…受けるわけがないだろ。いい加減にしてくれ。こんな話に彼女を巻き込むな」


アランは少し声を荒げてヴェルドに言い放った。エルは、アランが話を受けなかったことに心底安心した。しかしヴェルドは、落ち着いた様子で、アランを見据えたままだった。


「君がこの話を受けようが断ろうが、俺はこの女と結婚する。この女は一生俺の屋敷に一人でいる。自由はなくとも今の貧乏生活より随分マシになるだろう。そこに君が来るのか来ないのか、その違いだけだ」


ヴェルドは冷静にそう言った。アランは少し目を丸くした後、呆れたようにため息をついた。


「…馬鹿げている、そんな話…」

「ちなみに、こいつからの了承は得ている」


ヴェルドの答えに、アランは言葉を詰まらせた。そして、エルの方をアランは恐る恐る見た。エルは目を伏せたまま、どこか虚ろな様子で立ち尽くしていた。アランは、エルの様子を確認すると、またヴェルドの方を見て睨んだ。


「彼女にどんな脅しをした。たとえ君でも許せないことがある」

「脅しではない、報酬を与える約束をした。こいつにとって必要な物だ」

「……」


ヴェルドの回答に、アランは返事に詰まった。アランは、黙り込むエルの方を見た。


「…それは、俺からは与えられないものか?」


アランはエルに尋ねた。エルは俯いて黙ったままだった。ヴェルドはエルの方は見ずに、そうだ、と返した。


「俺しか与えられないものだ」

「……」


アランは口を閉じて黙った。そんなアランにヴェルドは近付くと、その顔を悲しそうな苦しそうな、そしてどこか憎そうな表情で見つめた。


「素直になれよ。いつまでもエル・ダニエルを忘れる気はないんだろ?そんな女はもうこの世にいない、がしかし、瓜二つの女ならいる」


ヴェルドはそうゆっくりアランに話しかけた。


「こんな身分の女、王子の君は正攻法では手に入れることができない。無理矢理ものにしたらまた角が立つぞ、エル・ダニエルがそうだったようにな」


ヴェルドにそう言われた後、アランはエルを見たまま黙り込んだ。エルはアランの方をみることはできず、ただ唇を噛みしめて立ち尽くした。

ヴェルドはアランの方を見て落ち着いた声で話を続けた。


「でも、俺の妻になったこいつなら、他の誰にも気づかれず、文句も言われずに手元に置いておける。エル・ダニエルでは叶わなかったことだが、瓜二つのこの女で叶うんだ。強がらなくていい、素直に俺の言う事に従えばいいだけだ」


まるで悪魔のような顔で、ヴェルドはアランに囁いた。アランはエルの方を見つめた後、目を固く閉じて俯いた。

重い沈黙がこの部屋に流れ続ける間、エルは自分の鼓動の音が聞こえてきた。

アランは長い間の後、重い息を吐いた。


「…わかった、君の言うとおりにしよう」


エルは、アランの答えにはっとして顔を上げた。胸の底から沸き上がる絶望に、エルは自分の本心を知る。 


「(……あの日々が、過去の輝きが眩しすぎるから……)」


エルは、幼かったあの頃の、アランと2人でいられた幸せな過去を思い出す。あの日々が自分の中で美しすぎるから、神々しすぎるから、だから打算だらけの帰結に耐えられないのだ。

あの思い出を、自分の手で汚す結末に耐えきれない。誰かに馬鹿にされても、笑われても、あの日々を汚すことは、自分の死に等しいとすらエルは思った。この世界における正しいことなんて何一つとしてわからないくせに、こんなものを正解とすることを、エルは心から拒絶した。


ヴェルドはアランの瞳を見つめて、心底嬉しそうに口角を上げた。


「君ならば必ずそう言うと、俺はわかっていた」


ヴェルドはそう言うと、喜びに震える手で口元を覆った。やった、やった…、とヴェルドは肩を震わせて喜んだ。

エルは、俯いて唇をかみしめた。これで、ネルにとってのこの事件の解決になる。それだけがエルの中でわずかな救いだった。

アランは喜びをかみしめるヴェルドを見つめて、口を開いた。


「…君の言う通りの相手と結婚して、国王になる。だから頼む、彼女には約束した報酬を払ったうえで、彼女と君との結婚は白紙にしてほしい」


アランはそう、ヴェルドに懇願した。アランの言葉にエルは、はっと息を呑んだ。

ヴェルドは緩む口元をかためて、はっとした顔でアランの方を見た。


「…どういうつもりだ」

「俺は彼女を、こんなことで縛りたくない」

「……」


ヴェルドはアランの方を見て何かを言いたげに口を開いた。しかしヴェルドは一度口を閉じるとため息をつき、わかった、と言った。アランはそんなヴェルドから視線をそらして、窓の外を見た。


「…頼むヴェルド、短い時間でいい、彼女と話がしたい」


アランはそうヴェルドに言った。ヴェルドは、…構わない、と言うと、部屋から出ていった。


エルは、静かになったこの部屋で、アランの方を見られずに目を伏せた。

アランは、エルを自由にするためにヴェルドの言う相手と結婚して国王になる道を選んだ。そのことが、自分がここに来た目的と全く真逆で、エルは頭が真っ白になる。


「わたし…、私、ヴェルド様と結婚します…!」


咄嗟にエルは自分の手を固く握りしめてそう言った。


「私、結婚したいんです…!ここへ来たのも、お給料がいいからだったし、ヴェルド様と結婚すれば裕福になれるし、家族にも楽をさせてあげられる。何も困ることなんてない。だからアラン殿下は、私のことを気にする必要がないんです。そもそも私は彼と結婚さえすれば報酬をもらえる約束をしているんです。あんな話には乗らないで、殿下はどうか王位になんかつかないで、このままいてください…!」


エルはそう懇願した。口から出た嘘を固めて、なんとかアランを説得したくて必死になった。動機が激しくなり、エルは呼吸が少しずつ荒くなる。


あなたのことが好きだから、だから幸せになってほしいだけなんだと、そんな簡単な本心すら、今のエルには言えなかった。

こんな単純な想いすら伝えられない今を改めて噛みしめて、エルは、一体自分はどこから間違えていたのだろうかと頭を痛くさせた。彼に望まない王位につかせるとか、彼の愛人としてなら一緒にいられるとか、そんなことがしたい訳じゃなかった。ただただ昔みたいに笑ってほしくて、願わくば顔を見合わせて、他愛もない話で2人で笑っていたかった。そんなことも簡単には望めない世界なのだろうか。


アランは、肩で息をするエルを見つめたあと、ゆっくりエルの前に歩いてきた。エルははっとして顔を上げた。目に映るのは、かつて見つめていたアランの優しい顔だった。


「…エルが死んで、俺は抜け殻のようになっていた。見えるものも聞こえてくるものも全てを遮断して、ほとんど死んでいるようなものだった。でも君が、あの日あの海を見せてくれたから、この世界にもまだ美しいものがあったんだと気づくことができた。視界が広がって、塞いでいた音が聞こえてきて、そうしたらいつの間にか、何もない俺のなかに君だけがいた」


エルは呆然とアランを見上げた。美しいその瞳を見つめながら、喉の奥が痛いほど震えて詰まった。アランはエルを見つめて微笑んだ。


「どうか君には、この世界でいつまでも自由に両手を振って歩いていてほしい。笑ったり泣いたり、いろんな顔をしていてほしい。それだけを俺の、心の支えにするから」


アランの話を聞きながら、いつの間にかエルは両目からぼたぼたと涙をこぼしていた。両手であふれる涙を拭うけれど、止め処無く涙が目から溢れてきた。


「…もう君は、この城には居ないほうがいい。ここにいたらまた、君の望まない形で利用をされる」


アランはそう、優しくエルに諭した。

エルはとうとう両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。何かを言おうと思っても、喉が詰まって言葉が出てこない。


すると、アランがエルの両手首を優しくつかんだ。アランはエルの顔を覆う手を頬の上にずらすと、その手の上に自分の手を重ねた。そして、両手を小さな力で押した。そのため、エルの頬は少しだけつぶれる。エルは目をまるくしてアランを見上げる。アランはエルの目をしばらくじっと見つめたあと、優しく目を細めた。


「……どうか、元気で」


アランはそう言うと、ゆっくりエルから手を離した。エルはまた目の奥からどんどん熱い涙があふれるのを感じた。両手で涙を拭いて、エルは震える喉で呼吸を繰り返した。


「私は……」


やっと言葉を発せたのに、エルは、自分がアランに伝えられる言葉を探せなかった。好きだとも、何も言えない。自分があんまりにも無力で、エルは嫌気が差すほどだった。


「………ありがとうございました、……さようなら」


エルはやっとの思いでそう告げると、アランに背中を向けて部屋から出た。

部屋の外にはヴェルドが立って待っていた。涙で顔をぐちゃぐちゃにしたエルを見ると、満足そうに口角を上げた。


「感動の別れはできたか?」

「……」


いつものように嫌味を言うヴェルドからエルは目を逸らして、さっさとこの場を去ろうとした。そんなエルの背中に、おい、とヴェルドが話しかけた。


「お前が望むなら結婚してやってもいい。お前を手元においておくのも十分価値がある」


エルはヴェルドのほうを振り返り、少し黙って彼を見つめた。そして、力なく目線を落とした。


「…いいえ、私はここから出ていきます。…もうこんなところに、いたくないから……」


エルはそう言うと、走って去った。息が切れて苦しくなっても、足を止めたくなかった。ただだた走って、何も考えたくなかった。






エルがこの城から出ていくことをメイド長に伝えた数日後、アランとシェリーが結婚するという話が使用人仲間の中で流れた。これで次の国王はアランに決まりだと騒ぎ立てる周りの声が聞こえてきたけれど、エルにとってはもうなんでもよくて、ただあと数日後に城から出られる日を、待ち遠しく思っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ