ⅩⅧ 紺青の女神
竜王サルコテアが討たれたのと同時刻、キャンサー帝国の城塞都市よりも南に広がる海洋はアトランティス海と呼ばれていた。
海は何者かの意志が宿ったかのように荒れ狂う。大波が躍動するように寄せては、飛沫を上げ、返したかと思えばより大きな波となって返ってくる。絵具をかき混ぜたかのような群青色、灰色の空はどんよりと重たく、今にも雨が滴り落ちそうであった。
その中を船団が進む。木製のガレオン船は船体とその真っ白な帆に幾つもの魔法陣が記し、或いは刻まれていた。四大精霊魔法の内の「風」と「水」は、船を操る船乗りにとっては最早必須の物となっていた。
「風」と「水」の魔法を使える者は誰であれ重用し、船に乗せた。そうしてパイシースは「海王国」となった。人間と人魚が結ばれた事で栄えた、と伝承では語られている。それがどこまで真実かは分からないが、「海」について彼ら程知り尽くしている者はいないだろう。
荒れ狂う船上の上に少女は立つ。穏やかな海原のようにゆったりとしたシアンの長い髪、太陽を受けた砂浜のような白色の肌、腰からはイルカを思わせるような尻尾が伸びていた。
他の船乗りと同じく、動きやすく耐久性の高いウールの真っ白なジャケット、ケープを重ねて着込み、下は膝上までの丈の短いズボンに寒さ対策のニーソックス、滑りやすい甲板でも走り回れるようにブーツを履いていた。
シーア・ウンディーネ、人魚を祖母に持ち、その類まれなる魔法と弓の才そして彼女にまつわる「噂」を買われ、パイシースが誇るガレオン船「虎鮫」への乗船を許されている。その名をシーアは気に入ってない。
――いつか白イルカ号に改名しよう!
そんな可愛い野望を持っている。今回の仕事はキャンサー帝国まで物資を届けるジェミニ評議界共和国の船の護衛。船員の誰かが「今回は楽勝だな」と言ったせいか、海は荒れ狂い、魔物まで現れる始末だ。それも今までに見た事がない程の大物の。
シーアは甲板上に描かれた魔法陣に立ち、目を閉じてその「大物」の気配を探る。荒れ狂う波の下、真っ暗な海の中にたゆたう影。その影の中で輝く二つの眼がこちらを捉えたのを感じて、シーアは息を呑む。すぐ隣に立っていた長身痩躯の男はたったそれだけの事ですぐさま指示を飛ばした。
「総員、縄で身体を縛れ! 船主衝角用意、シーア、フォルトゥーナ、奴の正体は分かったかな?」
「タイガーシャーク」の船長、ネルソン・ニミッツ。 真っ黒な髪――シーアは昆布みたいな髪型だと思ってる――穏やかな海みたいな雰囲気の男で、金の刺繍との施された三角帽子、他の船員よりも質のいいウール製の真っ黒なジャケットとケープ、その下に臙脂色のシャツを着込んでいる。
どれ程の困難を前にしても崩れない温厚な性格、粘り強く状況を見定める冷静沈着にどんな状況からも帰ってくる事から部下からは厚い信頼を得ていた。
「はい! この気配は――わっ!
「うーん、フォルトゥーナ的にはねー」
シーアが敵の正体について伝えている途中で、後ろから妖精に抱き着かれる。自由自在に飛び跳ねる癖の強い群青色の髪は後頭部で一つに纏められており、その肌は太陽のように明るく、背中には水色の翅を持っていた。
船員達とは違い、背中の開いたドレスのようなローブとタイツ、足は靴もはいておらず、布から指と踵がはみ出ていた。
フォルトゥーナ―ー幸運の運び手と呼ばれる妖精なのだが、純真無垢過ぎると言うか、とにかく言い伝えとか風習とか迷信じみた話を聞いたままに信じていて、それを口実にシーアをことあるごとに振り回し続けてきた。
彼女の後ろ髪を毎朝結っているのもシーアの仕事なのだが、それも「幸運の女神には前髪しかないんだよー」というよく意味の分からない言い伝えのせいだった。
「この嵐は、竜の仕業だと思うなー! ドラゴンがくしゃみをすると嵐が起きるんだよ! それでねー、ドラゴンは渦の中心にいると思う!」
「わ、私が感じた気配も……同じです」
くしゃみをしたかはさておき、シーアが感じた気配……長い身体、鋼鉄をも凌ぐ鱗と髭は十中八九ドラゴンのものだろう。彼女のいい加減な発言に信憑性を与えているようでもやっとなってしまうが、今はそんなことよりも、目の前の脅威をどうにかしないといけない。
自分達だけなら逃げるという選択肢もあるが、今回はジェミニの商船も守る必要がある。
暗澹とした雲の中で小型の翼竜、アンピプテラが急降下してくるのが「見えた」。シーアはすかさず長弓を取り、弦を引く。凄まじい反発で戻ろうとするその限界まで引き、放つ。
空を引き裂くような音と共に、矢が宙を貫き、アンピプテラの身体に吸い込まれる。遅れて船上に張られた魔法陣が迎撃を開始する。誰もが空に視線を向ける中、ネルソン船長は海を見ていた。シーアも新たな気配を感じて叫ぶ。
「水中からも来ます! 小型のドラゴンがたくさん!」
「ゴーレム投下! 底部魔法陣発動!」
船の両舷に縛られていたゴーレムの縄が切られ、海中へと投下されていく。ジェミニ評議界共和国から輸入した物で、下半身が魚のようになっている水中戦に特化した個体だそうだ。
「あんなものに頼らなくてもシーアが行けばすぐ片付くのになー!」
「こら、フォルトゥーナ!! 滅多なこと言わないの!」
フォルトゥーナが暇そうにぷかぷかと浮かびながらそんなことを言ってシーアを怒らせた。
荒い波、渦巻く水面の下で幾つものゴーレムがトライデントでドラゴンを貫き、巨大な背中の甲羅の左右から伸びた楕円状の盾と鋏のように展開された刃が首を挟んで真っ二つにする。
船の底部に起動した魔法陣が風の鏃と化して、船自体を狙いに来たドラゴンを穿つ。
その様子がシーアには「見えた」
正確に言えば、現実に見えるのとも違う。勘とでも言うべきだろうか。そこにいるのを「感じる」事がシーアにはできた。そして、その曖昧な感覚を確かな物にしてくれるのが妖精フォルトゥーナ――二つ名を『幸運の導き手』
そしてシーアはその『幸運を掴む者』――決して好機を逃さない。
その『目』がより大きなドラゴンを捉える。恐らくこの大物こそが小型のドラゴン達の“総大将”と言ったところか。それを伝えようとした瞬間のことだ。
海が割れた。左右に大水が開く。身を乗り出して覗こうとしてシーアは息を呑む。底が見えない奈落が見えただけだった。海の底から轟く声に一層海が荒れる。奈落に船が引きずり込まれていく。
「取り舵一杯、最大船速! 奴はそこにいる!」
ネルソンの号令に、船員達が慄き、凍り付いたように固まっている。いつまでたっても遂行されない命令。ネルソンは黙ったまま、割れた海を見つめ続けている。シーアがあたふたと周りの船員に声を掛けようとしたときだった。
「俺達に逃げ場はねぇ!! 死ぬ気で突っ込むしか生き残る道はねぇんだ!!」
傍にいた巨漢でもじゃもじゃ髭の船乗り――その巨体にふさわしい勇猛果敢さを持つ――ドレイクが一喝した。彼は海賊出身の出で、元はパイシースに仇為す者だったのだが、彼の艦隊はネルソンとシーアが乗る『タイガーシャーク』一隻に敗北して捕らえられた。
巧みな戦術、いかなる時にも温厚かつ冷静なネルソン船長、そして縦横無尽に動きまわり、時として大胆に立ち回る『タイガーシャーク』に惚れこみ、彼はネルソンの下についた。
「耳がキーンってなるー!」
フォルトゥーナが傍で耳を塞いでいる。この妖精は変わらずマイペースだ。たとえ海の底に沈んでも同じ調子なのではないか。だが、海の藻屑となってまでそれを確かめるつもりはない。
「私達が道を開きます!」
シーアが弓を引くと、魔力の風が巻き起こり、髪が舞い上がる。フォルトーナがその頭上に舞い上がり、空の上で、その腕を柔らかく伸ばして「風」に語り掛ける。
「幸運は一本道! 振り返らずに前へ!」
フォルトゥーナが躍ると、大風が舞い、魔法陣の描かれた帆が受け止める。
「全艦、回頭及び魔法陣展開、タイガーシャークは衝角起動だ」
凄まじい船速となった『タイガーシャーク』を先頭に、艦隊が一斉に回頭し、海の割れ目へと向かう。タイガーシャークの船首の覆いが左右に分かれ、中から巨大な衝角が突き出る。
「目標! 海中に潜伏中のドラゴン」
きっと海を割った者はこの自殺行為とも言える突撃に虚を突かれた事だろう。ドラゴンの瞳がこちらを捉えて目を見開くのが見えた。その巨体を捩り、こちらに向けて口を開く。
「今!」
限界まで引かれた弦が放たれて、空気を震わせる。風の道に導かれたそれは、奈落に吸い込まれて海竜の瞳を貫いた。潰れる目玉とその痛みにドラゴンが激しく暴れる。
凄まじい衝撃と波が船に叩きつけられる。それでも尚もネルソン船長は動じず、「進路そのまま」と命じる。他の船が両舷に備えられていた魔法陣を起動し、四大精霊魔法の一つ、炎の魔法が放たれ、業火が竜を焼く。だが、他の船はそこまでが限界だった。帆が折れ、甲板にまで流れ込んでくる波に押し流され落伍していく。
爆炎に紛れ、他の船員達には竜の姿が見えない。だが、シーアには「見えた」
「取り舵10度、そのまま――もっと速く!」
「総員、衝撃に備えよ!」
甲板に必死にしがみついていた魔法使い達が風魔法を帆に送る。周囲の船を置き去りにする程の速度で煙と波を突き抜け、奈落に向けて落ちていく感覚があった。
唐突な衝撃がタイガーシャークの船体を襲った。投げ出れそうになった船員は、フォルトゥーナが放った風で甲板まで押し戻された。
「わ、わぁ!?」
小柄故に踏ん張ることもできず、敢え無く奈落に投げ出されそうになっていたシーアだったが、その脚をドレイク副船長に捕まえて貰い、九死に一生を得ていた。
――し、死ぬかと思った! 下が海だったら泳いで戻ってこれただろうけどー……。
「大丈夫か? 幸運娘」
「うぅ……その呼び方とてもダサい」
心外な呼び方に涙するシーアだったが、その目の先には未だ生きている竜がいる。真っ赤な血と海の水が混ざり合って奈落に注ぎ込まれ、鉄の臭いが潮風に乗り寄ってくる。
タイガーシャークの衝角に喉を貫かれたドラゴンだったが、その開いた口をこちらに向けていた。咆哮一つで嵐を巻き起こすそれをまともに受ければ、如何に頑丈なタイガーシャークでも粉々に砕くだろう。
「ここは私の居場所……壊さないで!!」
腰の矢筒から抜いたのはサファイアの輝きを放つ魔光鉱石を鏃とした特殊な矢だ。狙いを付ける必要すらない。フォルトゥーナが用意した風の通り道、その真ん中へと矢を放った。
風を、波を裂いて、ドラゴンの口の中に突き刺さったそれは、水球となり膨張していく。ドラゴンが放とうといていた咆哮を押し返し、やがて突き刺さっていた衝角が引き抜かれる。
傷口から噴き出た大量の血が潮となり、波となって甲板に叩き付けられて海に戻された。真っ赤な線を引きながらドラゴンは海中へと没していく。
その影が海に呑み込まれていき、その姿が『見えなく』なっていく。それに合わせて波は収まり、黒い雲は霧散し、風も穏やかさを取り戻していく。まるで死闘などなかったかのように、ただただ流れるだけの海が戻った。
ぷらぷらとドレイクに脚を掴まれたまま、シーアは溜息を吐いた。終始、生きた心地がしなかった。あのドラゴンはどうにも「老いた」個体のように思えた。その力は本物だ。巨大な嵐でじっくりと攻める戦法は普通の船団であれば、それだけで全滅させることができただろう。
だが、「ネルソン艦隊」は普通ではない。大胆不敵を通り越し、自殺行為とも言えるような選択を取って尚且つ、致命的な一撃を加える。その作戦の要となったシーアが一番普通ではないかもしれないが、本人にはまるで自覚が無い様子でぼやいた。
「はぁあああ……、もう当分はドラゴン見たくなーい……」




