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律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第三夜 静寂と沈黙の雨
98/103

声が響く場所 1


「今日から入ります。よろしくお願いしまーす」


 スズの初出勤、あの独特の高い声が厨房に響き渡る。ぎょっとする店員もいる中、バックヤードの手前に立っていた翠が、「すてきな声よね」とほほ笑んだ。


 ホールスタッフのほとんどが、学生やフリーターだ。翠に見守られる形で、まずはアルバイトたちと一緒にホールの仕事を覚えていく。


 やはり年齢が年齢ということもあり、覚えが悪い部分も多かった。


「あ、あれ? すみません、藤崎さん! これどうやるんでしたっけ!」


 慣れないレジ操作に何度もつまずき、くじけそうになる。アルバイトリ―ダーの女性を呼び、あきれられながら教わっていった。


 初日はただひたすらに注文を取り、料理を運ぶので精いっぱい。意外にも注文はきちんと取れ、席の番号もすぐに覚えていた。手書きで席番号とメニューを書くスタイルが合っていたようだ。


 オーナーである店長が出勤したことで、ようやく退勤の時間を迎える。満身創痍(まんしんそうい)であいさつをするスズの姿に、店長がそばにいた翠へ尋ねた。


「おいおい、ほんとに大丈夫か」


「大丈夫よ。初日だから、疲れただけよね」


 その優しい声に、スズは疲弊(ひへい)をにじませながらも笑みを浮かべる。


「はい。明日もまた、よろしくお願いします」




          †




 初日を終えた次の日の朝。全身が筋肉痛でバッキバキ。いかに自分がこれまで動いてなかったかを悟る。


 もちろん、この程度で簡単に投げ出すつもりはない。出勤し、ホール仕事に徹して帰り、翌日にまた出勤。


 年下のアルバイトたちに教えてもらいながら、手探りで雑用や接客を覚えていく。裏に控えている翠も、スズの成長に向き合ってくれていた。期待してくれているのなら、応えなければならない。


 失敗もあるが、今のところは毎日続いている。


 仕事に慣れてきたと判断されたのか、一週間もたたないうちに翠から経営の内容を教わるようになった。


 まだ早いんじゃないかと言う店長をよそに、売り上げ状況や仕入れ先とのやりとりまで、みっちりと叩き込まれていく。メモ帳が何枚あっても書き留められないほどだ。


 ホールの仕事と同時並行で頭に詰め込み、くたくたになって帰っていく。それでもホールに立つ間は、笑みを浮かべて疲れを見せないよう徹底していた。


「ほうれん草のグラタン、ハンバーグドリア、どちらもドリンクセットでコーヒーですね。お間違いないでしょうか」


 客の少ない時間帯。スズの高い声は店の隅にまで響き渡る。注文を取るスズを見ていた若いカップル客が、吹き出した。


「お間違いないでしょうかぁ、だって」


「すげー声」


 それは、厨房で待機している調理スタッフたちも同じ。意地の悪い笑みを浮かべていた。


「やばくない? ここまで聞こえるんだけど」


「周波数たっか」


「小学生かっつうの。もういい年してあの声はないだろ」


「ホールまで聞こえてるよ~。よろしくね」


 厨房に入ったスズはニコニコしながら、カウンター側のクリッパーに注文票を吊り下げる。スタッフたちは気まずそうに調理を始めた。


 スタッフのみながみな、スズを歓迎しているわけではない。それでも自分の仕事を覚えながら、やるべきことに集中する。うじうじと悩んでいる暇はなかった。


「いらっしゃいませ~。……ご注文ですね? 少々お待ちください」


 いつしか、その高い声は、客席のざわめきに映えたBGMの一つになっていた。常連にもその存在が浸透していく。


「今日もちょこまか動いてんな」


「ちっちゃくてかわいいのよ~」


「あんた小学生か? がんばれよ~」


 優秀とまではいかなかったが、持ち前の明るさとコミュニケーション能力で、喫茶店の雰囲気にゆっくりとなじんでいった。


「今日もお疲れさま」


 退勤の時間を迎えてバックヤードに入ると、穏やかにほほ笑む翠がパイプ椅子に座っている。


「やっぱり、私の目に狂いはなかったわ。その調子でこれからも頑張りましょうね」


「はい!」

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