鈴の音に迎えられて
渡された希望職種の求人に混ざっていたのは、飲食店での接客業。一番ないと思っていたのだが、目を通せばいい条件がそろっていた。
求人どおりなら、朝早く来て、夕方には帰ることができる。学歴も経歴も問わない。飲食では珍しく、二十万近くの昇給も期待できる。
なにより、全くの畑違いではないし特性を生かせるだろう、というアドバイザーの後押しが強かった。
スーツ姿のスズは、歓楽街のすみにあるビルの、階段を下りていく。その先の扉を開ければ、ドアについた鈴が鳴り響いた。
「いらっしゃいませー」
そこは、地下にある二十四時間営業の老舗喫茶店だった。レトロな空気が漂う、温かみのある内装だ。
客席はほぼ埋まっている。見たところ、夜職の人間もちらほらいるようだ。
コーヒーやタバコの苦い匂いが漂う中、ナポリタンの濃いケチャップの香りが食欲をガツンと引き起こす。
話し声でざわめく中、動き回る店員は静かに接客していた。そのうちの一人がスズに気づいて近寄ってくる。席を案内される前に、口を開いた。
「すみません。面接の予約をしていた者です。店長は今どちらに?」
†
ロッカーが並ぶせまいバックヤードに案内されたスズは、すでに不安で押しつぶされそうになっていた。これだけいい条件がそろっているのだ。そのぶん求められることも多いはず。
ノックの音が響き、黒ぶちメガネをかけた白髪まじりの中年男性が入ってくる。
「すまないね、こんな狭い場所で」
「いえ」
「ちょうど、客席が全部埋まってて」
男性に続き、首にスカーフを巻いた女性が入ってきた。目尻にしわを作りながらニコニコと笑っている。
スズは、喫茶店の店長である男性のほうに履歴書を渡した。
「面接とは言っても、堅苦しいものじゃないから。気を楽にして」
店長とスズが向き合うように立ったまま面接が始まる。女性が壁側に置かれたパイプ椅子に座り、二人を見上げていた。
男性によれば、複数の飲食店を夫婦で経営しているらしい。
「うちはほんとにいろんな人が来る場所でね。昼間でもガラの悪い人が来たりするんだ。大丈夫かい」
「はい。どのようなお客さまでも、店員として対応するまでです」
店長が前置きした通り、形式ばった質問をされることはない。それどころか、最初から採用することを決めているかのように話を進めていく。
「きみには、午前から夕方までの一部営業を受け持ってほしいんだ。最初は仕事を覚えてもらうために雑用から。給料もそれほど多くはない。最初は、このくらい」
店長は持っていた電卓を操作して数字を見せてきた。そこに出されているのは、ホールスタッフの一般的な給与額。
「でもゆくゆくは責任者の立場にと考えているし、その際は昇給も考えている。……いろいろ差し引くものはあるけど、額面ではこれくらい」
電卓を打ち直し、再びスズに見せる。その数字は、二十万近く跳ね上がっていた。
「店長になったら経営や運営が中心にはなるだろうけど、当然接客もしてもらう。最初のほうは僕や妻が……バイトの子たちも頼っていい。彼女たちのほうが詳しいことも、あるだろうから」
「……はい」
「できれば一週間以内には雑用や接客の仕事を覚えてほしいと思ってる。それから、じょじょに一部営業時の店長として、学んでいってほしい。どうだろう。やってくれるかな?」
「一週間、ですか。期待に応えられるよう、誠心誠意務めてまいります」
とはいいつつ、不安はぬぐえない。キャバクラと喫茶店ではやることが全く違う。
条件も良く、すでに面接も合格ムードだが、スズの気持ちが追い付いてこない。ほんとうに自分がうまくやれるのかという疑念が、胸の奥底でくすぶり続けている。
その心情を見抜いたかのように、店長がため息をついた。
「……そうか。うん。まあ、あまり気負いしなくていい。ただちょっと、こちらも、余裕がなくてね」
目をぎゅっとつぶった店長はメガネを額にあげ、履歴書を近づけてじっくりと見すえる。
「プライベートなことを聞いて悪いが、ご結婚は?」
「していません。でも、息子が一人います」
パイプ椅子に座る夫人が、笑みを深めてうんうんとうなずいた。対して店長は渋い表情を浮かべる。
「シングルか。旦那さんや、実家の協力は?」
「あ、いえ。もう、小学六年生になりますので。求人に書かれていたとおりの時間帯でしたら、支障はないかと」
「そうか。じゃあ、大丈夫そうだな」
「あ、でも、学校の行事等で休みをいただくことはあるかもしれませんが」
「そこは正直、スタッフ全員のシフトによる。いずれはきみが店長として、うまくやりくりしていってほしい」
店長の言葉に、スズは眉尻を下げて顔を伏せる。パイプ椅子に座る夫人が、口を開いた。
「そんなこと言われても困るわよねぇ。まだ仕事がどんなかもわかんないのに」
「あ、えっと……」
店長は文句を言いたげな目で夫人をじっと見つめる。夫人は気にせずあっけらかんと笑ってみせた。
「ごめんなさいねぇ。不安にさせちゃって」
「あ、いえ……」
「気になることがあるならなんでも聞いてちょうだい」
穏やかな夫人に、スズはためらいながら口を開く。
「ああ、じゃあ、経営や運営に関してですが、まとめて学ぶ時間を取るとなると必然的に残業することになりますよね? その場合はどれくらいの時間に……」
残業の有無をはっきりさせたいから聞いたのだが、女性は頬に手を当て、申し訳なさげに答えた。
「一時間も二時間も拘束するつもりはないんだけど、やっぱり都合が悪い?」
「えっと、そういうわけじゃないんですけど」
「基本的には休憩中とか、仕事の合間に、って考えてるんだけど。日によっては、どうしても仕事終わりになるときもあるでしょうね。でも残業代はつけるし、帰ってお子さんを見る時間はあると思うの。少なくとも、夜の仕事よりは」
パイプ椅子から立ち上がる女性は、支えようと手を出す店長を断る。重く引きずるような足取りでスズに近づき、手を取った。
「今までさんざん求人出してきて。なかなかいい人に巡り合えなかったんだけどね。あなたが働いてくれるのだとしたらうれしいわ」
スズは、女性が真っ黒な薄手の手袋をしていることに気づく。しかしこの場ではなにも言わなかった。
「確かに覚えることもたくさんあるし、難しいこともあると思うけど、働きながら身につくことも多いと思うの。なにかあれば私も教えてあげられるから、前向きに考えてくれないかな。できれば、すぐにでも、働いてほしいくらいなの」
にこにこしながら弾んだ口調で話す女性は、まるで無邪気な少女のようだった。
飲食業とはいえゼロからのスタート。いずれ経営も担当するなら、これまで以上に努力しなければならない。のほほんと接客するだけではダメなのだ。
それでも、新たなスキルを事前に学んでおく必要はない。店長たちは採用に前向きで、給与も十分に払ってもらえる。
スズにとって、これ以上条件のいい仕事もなかった。決意を固め、頭を下げる。
「ありがとうございます。あの、ぜひ、よろしくお願いいたします」
「よかった~。私のことは翠さんって呼んでね」
面接は合格。必要なものや手続き、初出勤の日を決めて、この日は帰宅する。
スズが店を出ていくまで、夫婦は厨房の奥から見送った。店長が履歴書を見下ろし、口を開く。
「大丈夫なのか。体調のこと、説明しておかなくて」
「大丈夫よ。そんなこといちいち説明しなくても、あの子は頑張ってくれると思うから」
翠は穏やかに笑って、自身の目元を指さしてみせた。
「知ってるでしょ。私、人を見る能力は長けてるの。あなたより」




