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律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第三夜 静寂と沈黙の雨
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ドアを開けて


 スーツ姿のスズは、一念発起してビルの階段をのぼっていた。安物のパンプスで一歩一歩踏みしめていく。


 緊張と不安を胸に抱きながら、目的のフロアに到着した。すぐ目の前にあるドアには、律に教えてもらった転職会社の名前が書いてある。


 深呼吸をしてドアを開けた。


「おまえ昼職なめてんのか!」


 飛んできた怒号に、思わず顔をそむけた。委縮しながら、おそるおそる中に入る。受付横にある通路の奥から、男女の言い争うような声が聞こえてきた。


「だってぇ!」


「だってじゃない! 昼職は時間にシビアなんだぞ! 昼の仕事したいんだったら時間はちゃんと守れよ!」


 スズが気おされていると、受付に出てきた女性が声をかけてきた。


「こんにちは、予約されてる方ですか? こちらへどうぞ~」


 対応してくれたのは、スーツ姿の若い女性だ。にこやかでしっかりとしたその印象に、胸をなでおろす。


 ここで怖気づいていたら昼職はできない、と自分に言い聞かせ、女性についていった。


 個室に案内されるとさっそく、アドバイザーによるカウンセリングが始まる。テーブルをはさむようにして座り、ハローワークと同じように希望職種を聞かれ、それ以外に求める条件を話し合った。


「ああ! 『織り姫』ですか! SNSで有名な子何人かいません?」


「そう、ですね」


「お客さんいつも多いですよね。そこで十年以上も働かれてたなんてすごいですよ!」


 唯一違うのは、キャバ嬢として働いていたときのことを細かく聞き出されたことだ。どこのキャバクラで働いていたかにとどまらず、どういう接客が得意だったか、どのような指名客が多かったかまで答えていく。


 アドバイザーはスズの全身を見ながら書類に記入していった。


「ネイルや明るい髪色を続けたい……わけじゃなさそうですね」


「そうですね。もともと夜をやってたときも派手なほうではありませんでしたし」


 スズの髪は暗めの茶色。ネイルも、薄いピンクを塗るくらい。若い女性がするようなデザイン性の高いものに手を出すことはなかった。


「現状で事務希望だと、やはりスキルが問題になってくるんですよね。……広報とか営業は考えてますか?」


「休日と給料がしっかり確保できるなら」


「残業もないほうがいいんですよね?」


「はい、できれば。今まで、息子に寂しい思いをさせてしまったので、夜は一緒にいてあげたくて」


「お子さんいらっしゃるんですね。おいくつですか?」


「六年生です」


「六年生……。となると、学校から急に呼び出されることはもうほとんどない、ですかね?」


「そう、ですね。でもシングルなので、もしかしたら子どものことで早退することがある、かも」


 アドバイザーの表情が少し曇ったのを、スズは見逃さなかった。


「う~ん、なるほど……」


 書き込んだ書類を見るアドバイザーに、眉尻を下げる。


「すみません。やっぱりこれじゃ、厳しいですよね。えり好みする立場にはないって、わかってるんですけど」


「いえいえ、確かに求人の幅は狭まってくるかもしれませんけど、ご希望に沿うものを私たちで精一杯お探しいたしますので。ただ、希望職種によっては、少し余裕をもって、必要なスキルを学んでからのほうがいいかもしれないですね……」


「やっぱり、そうですよね」


 肩を落とすスズに、アドバイザーは笑顔で続ける。


「そもそも、水商売をしていた方で業務ソフトに精通しているほうが(まれ)なんですよ。昼職の常識や礼儀をいちから勉強しなおす方も多いですし」


「それくらい、夜の仕事とは全然違うってことですもんね。私も、やっぱりいちから学びなおすべきなんでしょうか」


 不安げに目を伏せるスズに、アドバイザーは首をひねる。カウンセリングで書き記した内容を確認した。


「いえ、少なくとも、昼職に必要最低限の礼儀はすでに持ち合わせていらっしゃると思います」


 神妙な顔で、声を落として続ける。


「約束の日時より少し早めにいらっしゃってますし、ドタキャンもないでしょ? 水商売の方々、特に若い人はそれすらもできていないことがあるので……」


 そういえば……とスズは来た時のことを思い出す。


 別の個室で女性が叱られていたのも、遅刻が理由のようだった。社会人として守るべき、基本のキだ。それすらもできないようでは、働くこと自体難しい。


「務めていたキャバクラでも、急に飛んだりする子いませんでした? 遅刻しても悪びれない子とか。そのせいでお客さん怒らせて切れちゃったとか」


「あ~……」


「夜の仕事だとそういう人って少なくないじゃないですか」


 肯定も否定もできず、苦笑する。


 正直、夜の店ではよくある話だ。とはいえ、昼であろうと夜であろうとそれが非常識であることに変わりはない。キャバ嬢に限らずホストであっても、そのような礼儀知らずは自然と消えていくものだ。


「そんな中で、急に飛ぶこともなく同じ店で働き続けてらっしゃったんですよね? 務めている間遅刻もなかった、でしょ?」


「はい。……でもそれは、店がしっかりしてて居心地がよかったっていうのもあって」


「店との相性もあったのかもしれませんけど、やっぱりご自身がしっかりしていらっしゃったからですよ。そういうところが信用につながるのは、昼も夜も変わりません。だからこそ、同じ店で、お客さんも途切れることなく、働けたんだと思いますよ。店にとっても心強い存在だったんじゃないですか?」


 急に辞めることになってしまったキャバクラ「織り姫」。それでも最後の出勤日、店員も女の子も客もみな、笑顔で送り出してくれた。


 その最後こそ、努力と結果を長年積み重ねて得た、スズの評価だ。


「少し話しただけでわかります。なにごとも責任感を持って、真面目に取り組める方だってこと。コミュニケーション能力や気配りにも長けてるでしょうし」


「そう、でしょうか……」


 アドバイザーはにっこりと笑ってうなずく。メモした書類に視線を落とし、穏やかに続けた。


「業種によってはすぐにでもお勧めしたい求人がたくさんあるくらいですよ。オフィスワークを中心に希望されてますけど、ほんとうは、接客、お好きなんじゃないですか?」


 すぐには、返せなかった。スズの視線は、再び下がっていく。


「好きか嫌いかで言えば、好き、なんでしょうね」


 だからこそ、長年やりきれたところはあるだろう。


「でも、基本的に接客って、給料低いじゃないですか。……飲食業なんて、特に。将来性もないし」


「将来性、ですか?」


「昇給とかキャリアとか見込めないじゃないですか。もう少し若ければまだ、なんとかなったかもしれませんけど」


 アドバイザーは真剣な顔つきに変わり、口元にこぶしをあてる。何やら思い出すように上を見つめた。


「あの……体力に自信、あります?」


「え? まあ、はい。あるほう、かな」


 酒の強さが体力の強さになるかはわからないが、少なくとも夜の仕事で倒れたことはない。


「以前、目にした求人でよさそうだなと思うものがあるんです。もしよろしければ、ご希望の求人と一緒に、まとめて紹介させていただいてもいいですか?」


「……はい。お願いします」


 腰を上げ、部屋を後にするアドバイザーを目で追うスズ。


 このときはまだ、見せられたところで接客はない――と思っていた。





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