曇天の再会
「やみくもに書類を送るんじゃなくて、職業訓練を受けてからにしてみませんか?」
ハローワークからの帰り道。職員に言われた言葉が、スズの頭から離れない。スーツ姿で背を丸めながらふらふらと歩く。
空は、あいわらずよどんでいた。今日の天気予報は終日くもり。一面に分厚い雲が覆うものの、雨はまだ降っていない。
スズはふと、足を止める。顔を上げれば、すぐ目の前は歌舞伎町一番街のアーチ。ハローワークが近いこともあり、無自覚にここまで来てしまったようだ。
鈍色の空を横切る赤いアーチを、ぼうっと眺める。決して、くぐることはしない。
頭の中で、ハローワークの職員に言われた言葉がずっと再生されている。
おまえは社会人として勉強しなおさなきゃいけないレベルなのだと。おまえが今までしてきた仕事にはなんの価値もないのだと。
一瞬で切り捨てられた気分だった。
飲み屋一辺倒だったのだから、そう言われるのもしかたない。その一方で、自分が今までしてきたことはなんだったのかと――今までしてきたことは労働ではないのかと。
これまでの自分がなかったことにされる虚しさに、飲み込まれそうだ。
「スズさん」
穏やかな男性の声に、びくりと震えながら振り返る。
身長の高いその男を見上げれば、見知った顔だ。あいかわらず、完璧に整った美しい顔。
金色の髪が、無造作に跳ねている。ブランド物の黒スーツに身を包み、そこからのぞくネクタイと、ラベルピンのセンスが光っていた。
「……律くん」
スズの顔に、懐かしさと喜びの混ざる笑みが広がる。
「よく私だって気づいたね。あのときと全然違うのに」
キャバクラにいた頃と比べれば、髪はおろし、化粧も控えめ。そのうえ暗い店内と明るい外では印象も違うため、ますます気づきにくいはずだ。
「一度話した女の子のことは忘れないんです。スズさんのことは忘れたくても忘れられませんよ」
「ふふ、やっぱりうまいなぁ」
「俺、会いたかったんですよ、スズさん。あのあとお店に行ったら辞めたって聞いて、ショックだったんだから。こうして会えたの、すっごくうれしい」
「そういってもらえると、私もうれしいな」
律と話していると、昔(とはいえ数週間前)に戻れたようで、スズの心は軽やかになる。
「……辞めたのは、やっぱり息子さんのため?」
スズはうなずく。その笑みには、哀愁を漂わせていた。
「スズさんのことだから、そうだと思った。母は強しってやつ? やっぱり、スズさんは良いお母さんだね」
一瞬、スズの顔がかすかにひきつったのを、律は見逃さない。
「みんな、そう言ってくれたけどね。強くはないし、いいお母さんでもないよ。さっきも、少し出戻りを考えちゃったくらいだし」
再び、アーチを見上げた。そのとなりで、律が寄り添うように立つ。
「ここ最近、ずっと、自分のことが嫌になってるんだ。早く仕事見つけて、子どもを安心させてあげなきゃいけないのに、全然うまくいかなくて……」
今のスズには、夜に働いていた時のような明るさも、自信もない。律は笑みを消し、真剣な顔でスズを見下ろす。
「書類で落とされ続けて、ハローワークの職員にもいろいろ言われちゃった。私が、キャバクラで働いてた十何年、何の価値も、なかったのかな。お金を、稼いでいたことには変わりないのにな」
「みんな、表面的な部分で判断するしかないからね。でも、スズさんが息子さんを育てるためにちゃんと働いてお金を稼いできたってことは事実でしょ?」
「でも、ねぇ。それは、世間にとって当たり前のことだけど、キャバクラで働く母親は、普通じゃない」
思わず、ため息が洩れる。
「もう、全部から逃げ出したいって考えちゃうんだ。仕事のことも、子育てのことも。息子のためにお店をやめなかったら、こんなことにはなってなかったのにってやっぱり考えちゃう。それで、私こんなにも弱くてダメな人間だったんだって、混乱する」
これ以上言葉にすると、涙が出そうになる。なんとかこらえるよう息を吸い、なるべく明るい声を放った。
「こんなんじゃ、母親としても、人としても、ダメダメだなぁ」
「ダメダメじゃないよ」
うつむいたスズに、律は芯の通った声を放つ。
「スズさんはお子さんのために夜の世界でがんばって、お子さんのために辞める決断をしたんだろ? 子どものことを考えてるいいお母さんじゃん」
持っていたカバンの持ち手を握り締めるスズは、返事をしなかった。
「それに、俺、わかるよ。スズさんがどれくらいすごいか。長いあいだ同じ店で働くのも、どんなにひどいことを言われても空気を悪くしないよう振る舞うのも、簡単にできることじゃない。スズさんがお店で培ってきたものは、絶対に無駄なんかじゃないよ」
スズは唇をぐっと噛みしめる。律の優しい言葉に、涙をこぼさないよう必死に耐えていた。
「大丈夫だよ、スズさん。スズさんは、とっても強い。なにがあってもがんばっていけるよ。だって、あんな過酷な職場、十何年もやってこれたじゃん」
孤独に戦っていたスズの、胸が熱くなってくる。
「スズさんなら、どんなに大変でも、たくさん勉強して、周りの人と協力しながら新しいことに挑戦していける。絶対に、うまくいく」
スズは顔を上げ、大きく深呼吸をした。一回りも若い男性に、背中を強くたたかれながら活を入れられた気分だ。
「ありがとう、律くん」
完全に立ち直ったわけではないが、前を向くくらいの元気は湧いてくる。
「まさか、律くんに元気づけられちゃうなんてね。私、夜ではしっかり者で頼られるタイプだったのになぁ」
「人間だもん。うまくいかないときは誰だってあるし。そういうときは誰かに話すだけでもすっきりするもんでしょ」
「……そうだね」
もう一度、息をつき、律を見上げた。律は穏やかにほほ笑んでいる。
伝説扱いされるホストは伊達じゃないのだと、スズは表情を和らげた。
「ああ、そうだ、スズさん」
律は思い出すように上を見た。
「この近くにある夜職用の転職会社には行ってみた?」
「夜職用……って?」
目をぱちくりとさせて首をかしげるスズに、視線を戻す。
「知らない? 夜職の人が昼職に転職するために利用してんの。俺が知ってる人もそこ使ってたんだよね。……と、ちょっと待ってね」
ジャケットの裏からペンと名刺入れを取り出し、名刺を一枚抜き取る。裏側にして、名刺入れを台にしながらサラサラと書いていった。
「夜職やってたことオープンにするし、職場側もそれをわかってて求人出してるんだ。夜職やってた後ろめたさは減るだろうし、普通の方法より仕事見つかりやすいかもよ」
はい、と名刺を差し出す。そこに書いてあったのは、転職会社の名前だ。受け取ったスズはじっと見つめながら、名刺を落とさないようしっかりとつかんでいる。
ここまでしてくれる律の優しさに、改めて胸を打たれていた。
「ありがとう、律くん。私、もうちょっと、がんばってみるね」




