踏みにじられた尊厳 2
どさくさにまぎれて挿入しようとしてきたことに気づき、すぐに腰を上げた。
「え~? 料金、さっきの倍は払うよ?」
「ダメです! ルール違反ですよ!」
「んー……。きみさぁ、萎えるようなことばっか言わないでくれない?」
ため息混じりに、先ほどよりも低いトーンで男は言い放つ。
「どうせそのなりじゃ大した金額稼げてないんでしょ? 通常料金の二倍は払うって言ってんじゃん。今回やらせてくれたらまた次も指名するからさぁ」
腰をつかまれ、その場から逃げ出すこともできない。ユイの顔に焦りが浮かんでくる。
男の嘲笑が、耳についた。
「どうせその顔じゃほかの店でも雇ってくんないでしょ。ただでさえハンデあって普通の仕事だってままならないのにさ。そうでしょ? そういうところでほかの子と違うところ見せないと」
怖い。すぐにでもここから逃げて帰りたい。
「ほかの子たちだってやってるよ。みんな言わないだけでさ~。スタッフだって、わかってて通したんだと思うよ?」
『こんなんみんなやってるよ~、言わないだけで。スタッフたちも知ってるもん』
頭の中で、リアの声が再生された。同時に、先ほどスタッフから言われた言葉も思い出す。
『NGにしてる子多いけど、金払いはいい客だから。困らせないようにね。ただでさえ、人気ないんだし』
「スタッフ呼んでも、迷惑がられるだけだって。ユイさんのことめんどくさいって思われて終わりだよ」
『もっと工夫しろ』『お客様を満足させろ』『困らせないように』とは、そういうことなのだ。
スタッフを呼んでも助けてくれないどころか、こんなことも対処できないやつだと思われるだけ。
ここで逃げれば、二度と客を回してくれなくなるかもしれない。必死に我慢して頑張ってきたことが、ここでパーになるかもしれないのだ。
クレームはもう、出したくない。これ以上、肩身が狭い思いをするのも嫌。お金だって、まだまだ必要だ。
どうせ、誰も、守ってくれないのなら。
「……わかりました。倍の金額を、約束してくれるなら」
――ユイは、屈服するしかなかった。過ちを犯すしかなかったのだ。
タイマーのアラームが鳴る。
満足げに笑う男から追加の報酬を受け取った。金を手にしたユイの顔に、笑みはない。
†
送迎車から降りたユイは、小雨を一身に受けながら、「Aquarius」へ向かう。店に入れば、スタッフも慣れた手つきで席に案内した。
この日、律の出迎えはない。
天気が悪い上に平日のはずなのに、前回訪れたときと同様大忙しだ。レオがヘルプについて、いつもどおり、水を入れたグラスを用意する。
小雨に濡れているユイは、いつも以上に影のある顔でうつむいていた。眼はうつろで、口を開こうとしない。グラスに手を付けることもなかった。
そのあまりにも鬱屈とした空気に、レオは声をかけることもうかつにできない。
「これ、シャンパン?」
ユイはテーブルの端に手を伸ばし、メニューブックをつかんだ。
「え? あ、はい」
開いてみれば、そこには頼めるシャンパンの種類がずらりと並んでいる。リアが言っていたアルマンドやエンジェルシリーズも書いてあった。
「だめ……」
今のユイにはまったく手が出せない値段だ。今日稼いだ額がすぐに消えてしまう。
しかし今後、同じようなことをしていつもの倍以上稼げるのなら――。
ユイの視線が、別のシャンパンのシリーズへと向かう。一桁万円のシャンパンなら、なんとか出せそうだ。
ヘルプのレオに顔を向けたと同時に、律の声が放たれた。
「あれ? 何してんの、ユイさん」
律に気づいたレオが、さっと立ち上がり、律と交代する。ユイの隣に腰を下ろす律は、メニューを取り上げた。
「どうせレオがすすめたんでしょ? ほんと勝手なことして~」
テーブルにメニューを放る律に、ユイは首を振る。
「ううん。今日は、いつもよりお金、もらえたから、ちょっと見てみようかなって。でも、やっぱりこういうところで頼むと高いんだね。びっくりしちゃった」
律はいつものようにきれいな笑みを浮かべていたが、返す声はいつもより真剣だ。
「稼いだお金は、お子さんのために使ってあげて。お子さんのために、がんばって稼いでるんでしょ?」
そのとおりだと我に返る一方で、律に突き放された気分になる。
「……そう、だね」
精一杯の笑みを浮かべるその裏で、自己嫌悪。罪悪感とむなしさが、頭の中でごちゃごちゃになっている。
「どうしたの、ユイさん。……なにか、あった?」
優しい律の声が、ますますユイの後悔を駆り立てた。
ようやく、思い知る。自分は、律にも話せないようことをしでかしたのだということを。
プロ意識の高い律は、決して汚れたユイを許してはくれない。
「ごめんね。ずっと、戻ってこれなくて。つらいことがあるならアプリでも……いや、直接話したいことがあるからこうやって来てくれるんだよね」
我慢しようとしていた涙が、零れ落ちる。感情を抑えられなくなるほどには、限界だった。涙をぬぐうユイの姿を、律は神妙な顔で見すえる。その背中に手を添えながら、ブランドのロゴが入るハンカチを差し出した。
ユイは受け取らず、首を振る。それでも律は、優しく涙を拭きとっていく。
「大丈夫だよ、ユイさん。今日はもう、最後まで一緒にいるからね」
律の優しさが痛くて、ユイの心はますます苦しくなっていく。
結局、最後の最後まで、なにがあったのか話すことはできなかった。どうしても話せなかった。
こんな自分でも、律に失望されたくない。水しか飲まない陳腐な客だと自覚しているからこそ、底辺のごみを見るような目で見られると思うと耐えられなかった。




