動き出す夢
ヒミコはバイオレットの腕に自分の腕を絡めると、そのまま店の奥へと引っ張っていった。レジから引き離すその動きには、長年の友情だけが持ちうる慣れた手際があった。カップ麺の棚や、蛍光灯の下でかすかに唸る缶飲料の列を通り過ぎながら。
二人は声を潜めて話し始めた。アカメの耳に届かないよう気をつけながら、頭を寄せ合う。誰にも聞かれたくない話をするとき、いつもそうするように。ヒミコがいつも巧みに引き出すあの柔らかさとは裏腹に、バイオレットの表情は慎重に守られたままだった。
「ねえ、ヴィオ。これって、また小説書くいいきっかけになるんじゃない? もしかしたら集英社の新人賞とか、コミックルームの何かだって狙えるかもよ」
バイオレットはしばらく黙っていたが、やがて答えた。声はほとんど囁きに近く、視線はヒミコの目ではなく、タイル張りの床のあたりに向けられていた。
「興味ない」
ヒミコはゆっくりと息を吐いた。思っていたより重い音になった。いつもの明るい表情がわずかに翳り、昔からよく知る苛立ちが肩の上に静かに降り積もっていく。
こういう拒絶は初めてではなかった。学生時代から数え切れないほど同じような断り文句を聞かされてきた。いつも同じ、話を完全に終わらせたいときにバイオレットが使う、あの静かな断固たる調子で。今でもヒミコには分からずにいた。なぜバイオレットが書くことをすっかりやめてしまったのか。和歌山の小さな地方ホラー短編以外、何一つ最初の下書きを超えて生き延びたことがないのか。
「ヴィオ。今回だけは私のためだと思ってやってよ。ちゃんとした形であなたの物語を読みたいの。本になったら自分で買って応援するから」
バイオレットは黙ったままだった。
やがてヒミコは、これまでバイオレットが避け続けてきた話題を持ち出すことにした。口調は先ほどより柔らかく、慎重になっていた。まだ完全には塞がっていない傷に触れようとする人のように。
「親に禁止されてたのは知ってる。でも、ホラーモンスターの短編コンテストがあるたび、あなた地方大会で毎回優勝してたじゃない」
それでもバイオレットは何も言わなかった。腕を軽く胸の前で組み、肩をわずかに内側へすくめる。まるで、会話の向かう方向から自分自身を守ろうとするかのように。
ヒミコにとって、その沈黙自体がもう十分な答えだった。
しばらくして、ようやくバイオレットが口を開いた。
「分かった……ごめん。赤和女さんとはもう会ったことがあるって言ってなかったね。それに、正直今日ここで会うとも思ってなかった」
ヒミコはとっさにバイオレットの肩から腕を外し、目を大きく見開いた。意図せず声が何段階も跳ね上がる。
「もう赤和女さんと会ってたの? どこで? まさか二人の間に何か特別な関係があるとか言わないよね? なんで教えてくれなかったの、ヴィオ」
彼女はバイオレットに顔を近づけ、悪戯っぽくにやりと笑った。長年の親友だからこそ許される、からかい混じりの輝きを目に浮かべながら。
バイオレットは鋭い視線で応じたが、その平坦な表情はほとんど変わらなかった。
それでもヒミコには分かった。友人が本気で苛立っているということが。
ほどなくして、アカメが小さく笑い声を漏らし、二人のちょっとした言い合いに区切りをつけた。その笑いが、静かな通路にわずかに漂っていた緊張を少し和らげた。
「あはは……これは誤解です。僕たちはアパートで一度会っただけで、バイオレットさんはただ、借金を清算しながら以前お伝えしたオファーについて話し合いたいと思っていただけなので」
ヒミコがさらに何か言う前に、バイオレットは彼女を追い払おうとした。
「ヒミコ、家に帰らないなら、システムから友達割引消すから」
ヒミコは不満げに頬を膨らませた。バイオレットに主導権を握られたときいつもそうするように、大げさに頬を膨らませる。
「はいはい……分かりました」
それでも彼女はバイオレットに近づき、両手を肩に置いた。
「家に戻ったら、さっき言った通り、ちゃんと話聞くからね」
そう言い残すと、彼女はアコヤマートの出口へ向かい、バイオレットに手を振りながら二人をその場に残して去っていった。自動ドアが最後にもう一度静かに鳴り、涼しくなり始めた午後の空気の中へ彼女を送り出す。
バイオレットは小さくうなずき返すだけで、再びレジの持ち場へ戻り、アカメの隣に立った。表情はすでに、いつもの落ち着いた静けさへと戻りかけていた。
自動ドアがゆっくりと閉まり、ヒミコの背後で店内の温かい蛍光灯の光と、外のありふれた午後の光景を隔てていった。
彼女は両手をポケットに滑り込ませ、静かに息を吐いた。先ほどまでの明るさは、少しずつ物思わしげな表情へと薄れていった。アコヤマートから数歩も離れないうちに、彼女はスマートフォンを取り出し、親指をしばらく宙で迷わせたあと、すっかり暗記している番号を呼び出した。
「もしもし、今ちょっといい?」
静かな通り沿いには、細長い店構えの並びと、ときどき停められた自転車が見える。見慣れた地元だからこその、ごくありふれた景色が続いていた。
電話の向こうから男の声が返ってきた。
「もちろん。また何かやらかしてクビになったのか?」
ヒミコは首を横に振った。
「今回は違う。ただ成績が悪かっただけ」
彼女はもう一人の友人と話しながら、小さく笑った。
「どうした? 珍しく嬉しそうな声じゃないか」
ヒミコは前髪の一房を無意識にくるくると弄びながら、鼻歌のような声を漏らした。
「ああ……うん。ヴィオがまた書き始めるの。中学からの友達がさ、また小説書くんだよ、今度はVTuber事務所のもとで」
彼女は電話越しの声に耳を傾けた。
「本当か? 姫星さん――昔の学校の近くで花屋やってたあの人の娘だろ? 冗談抜きで、あの変なモンスターだらけの話、早く読みたいよ。あのネッシーの与太話みたいなやつ。俺がラヴクラフト好きなの知ってるだろ?」
ヒミコは頷いた。
「うん、忘れてないよ」
彼女は少し間を置いてから続けた。
「ねえ、ヴィオって本当に運がいいと思う。ようやくまた一歩、前に進めそうな気がするんだ」
ヒミコは晴れ渡った午後の空を見上げ、薄い雲がのんびりと流れていくのを眺めた。まるで世界に何一つ悪いことなど起こりえないかのように。
顔に浮かんでいた笑みが、わずかに翳った。
「全部うまくいったら、あの子、本当にVTuberになるかもしれない」
ヒミコは薄く微笑んだ。
「面白いのはね……それ、私がずっとなりたかった仕事なんだよね」
男はしばらく黙って耳を傾けたあと、励ますように言葉をかけた。
「そんなことないだろ。名前がヒミコだからって不運なわけじゃない。いつか、お前にぴったりのコンテンツを持った事務所が現れるさ」
彼女はため息をつき、小さく笑った。
「あはは……問題は、自分の武器が何になるのか未だに分からないってことなんだよね。ゲーム実況、ポッドキャスト、トーク番組、もうどれもやり尽くされてるし」
男はすぐに話題を変えた。
「そういえば、また電話対応の仕事が空いてるぞ。今度は岩出のボディケア店だ」
ヒミコは頷いた。
「本当にありがとう。いつも助けてもらってばっかりだね」
男が答えた。
「気にするな。もともと俺の仕事は求人の橋渡し役なんだから。これでちゃんと給料もらってるんだしな」
ヒミコは歩みを止め、会話の温かさが少しずつ薄れ、より静かで私的な何かへと変わっていくのを感じた。
スマートフォンをポケットにしまい、再び歩き出す。午後の陽射しの下、その足取りは急ぐことなく続いた。
とりあえず今は、一人でシェアハウスまで歩いて帰らなければならなかった。人気のない通りは、いつもの明るさの奥に静かに沈んだ小さな痛みを、少しも埋めてはくれなかった。




