小さな夢、小さな機会
数日が過ぎ、バイオレットの生活は少しずつ元の日常に戻っていった――少なくとも、記憶がふと浮かぶたびに、彼女自身はそう思い込むようにしていた。
あの起業家との奇妙な出来事は、もうとっくに忘れ去られているはずだった。あの日口にした言葉も、借金を返してもらいたかっただけで、それ以上の意味はない。好奇心が顔を出しそうになるたびに、彼女は心の中でそう繰り返していた。
小説を書くこと。VTuberになること。あの必死な眼差しで語られた、実現不可能に思える未来。それらはどうしても頭の奥から消えてくれなかった。
紀ノ中之島駅近くのアコヤマートには、毎日絶えることなく客が訪れる。朝の通勤客、授業の合間に立ち寄る学生、道に迷った様子の観光客。混雑する時間帯は常に賑わい、自動ドアは閉まる間もなく再び開いていく。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「またお越しください」
バイオレットは無駄のない動きで一つ一つの会計を処理していく。傍から見れば、彼女はいつもと変わらない姿だった。
彼女はヒミコに、あの起業家のアパートを訪ねたことを話していなかった。事務所に加わるかもしれないと伝えたことも、一言も口にしていなかった。
確信が持てないまま黙っているしかなかった。あの会話が本気だったのか、それとも二人とも本当には踏み出せない、ただの馬鹿げた夢想だったのか、彼女自身にも判断がつかなかった。
だから、ある週末が訪れるまで、その話は誰にも語らずにいた。
二人は共有のリビングでくつろいでいた。テレビが低く音を流している。ヒミコはソファに寝転がり、バイオレットは自室から持ってきた枕を抱えながら、その隣に体を丸めて座っていた。いつも通り、先に口を開くのはヒミコだった。
「あ、そういえばヴィオ。今日シフトないの?」
バイオレットは首を横に振った。
「そう」ヒミコがクッションの上で伸びをする。「じゃあ、あの借金の件はどうなった? 本当にあの人のところ行った?」
バイオレットは一瞬、ほんの一瞬だけ動きを止めた。しかしそれだけで、ヒミコには十分だった。話すべきかどうか、彼女自身まだ判断がついていなかった。事業が失敗に終わったらどうする。一ヶ月で消えてしまったらどうする。期待した分だけ、失望が大きくなるだけではないか。
だから彼女は何も言わなかった。
部屋の空気が気まずく沈む。長い沈黙に耐えられないヒミコは、すぐに話題を切り替えた。「そういえば、暇なときに物語書いてるって言ってたよね?」
バイオレットは軽く瞬きをした。予想していなかった話題だった。
返事を待たず、ヒミコは続けた。「私、あれ結構好きなんだよね」
沈黙が答えだった。
「本気で言ってるんだよ、ヴィオ~」
さらに沈黙が続いた。
「前からずっと気になってたの。でもいつも早く終わっちゃうよね、大体二話くらいで。良くても七話まで頑張ったのが一つか二つ」
ようやくバイオレットが口を開いた。
「ありがとう」
それだけだった。ヒミコは大げさにため息をつき、肩をすくめた。「本当に淡々としてるよね。もう少し感情出してもいいのに」
バイオレットはテレビの画面から視線を外さなかった。
「いいえ、けっこうです」
「……ほら、それだよ」
会話がまた途切れそうになった。二度目の沈黙は絶対に許さないと決めたのか、ヒミコはまったく別の話題を持ち出した。「ねえ、最近ネットで移民問題の議論、けっこう荒れてるよね」
バイオレットが一度うなずいた。「うん」
「私の父も一応移民なんだよね。元々ヨーロッパ出身で、母は京都の人」少し考えるように間を置く。
「正直、日本の生活がどんなものか分からずに来る人も多いよね。日本人と結婚して何年も暮らして、結局後悔する人もいる」もう一度間を置く。「でも、私の父はそうじゃなくてよかったけど」
バイオレットは黙って聞いていた。やがてヒミコが笑みを浮かべた。何か言いたいことを本気で伝えようとしている顔だった。
「本当に何を望んでると思う?」バイオレットが視線を上げ、その日初めてヒミコと目を合わせた。「私はいつか、またヴィオの物語を読める日が来ればいいなって思ってる」
テレビは背後で静かに流れ続けている。「いつかアニメになったり、ゲームになったりしないかな。ヴィオが書くモンスターの話がもとになって」小さく笑う。「私自身、モンスターは正直あまり好きじゃないんだけどね」
そのあと、ヒミコはソファの上をゆっくりと、まるで芝居のように慎重にじりじりと近づいてきた。
「そこで止まって」バイオレットが警告する。
ヒミコはとたんに動きを止め、無邪気な顔を装った。「え? 何のこと? あはは……」数秒後、構わず前へ飛び込み、バイオレットの体をしっかりと両腕で包み込んだ。「前からずっとハグしたかったんだよね」
バイオレットは軽く顔をしかめたが、それも意味を持たなかった。体格の差がある相手から逃げるのは不可能だった。「身長百八十三センチもあるからでしょ」隣を見ながら小さく呟く。
「私はたった百六十一だよ」
「だから。ハグにちょうどいい比率」
バイオレットはため息をついたが、本気で振り払おうとはしなかった。ヒミコは彼女にとって、本当の意味で友人と呼べる唯一の存在だった。
二人はその日の午後、窓から差し込む明るい休日の陽射しの中でテレビを見続けた。何日か振りに、バイオレットは失敗のことを少しだけ考えなくなり、代わりにわずかな可能性について考えるようになっていた。
一方、時間は別の場所でも変わらず流れていく。
アカメにとって、その日々は実際よりもずっと長く感じられた。あのゴシック調の衣装をまとったレジ係がアパートを訪れてから、すでに数週間が経っていた。もう二度と来ないと決めたのだろうか。これまでの応募者たちと同じように、考えを変えたのだろうか。その疑問はほとんど毎日、頭の奥に居座り続けていた。
しかし、最初の才能を確保することだけが悩みではなかった。借金の問題も残っていた。
アカメにとって、借金は額の大小に関係なく借金だった。二百八十五円という恥ずかしいほど小さな金額であっても、良心を放っておいてはくれなかった。
ある日の午後、ようやくワンルームの改装を終えたアカメは、静かに仕上がりを見渡した。
かつて何にでも使われていた雑然とした空間は、ようやく正しく区分けされていた。片側は簡易的なオフィスとして機能し、もう片側は、これから訪れる客や才能たちのための小さな受付スペースになっていた。
広くも豪華でもなかったが、それでも十分に「事務所らしさ」を感じさせるものになっていた。
その変化に見入っているうち、ふとあのゴシック調のレジ係のことが頭に浮かんだ。
「本当に来てくれるかな……」
そこで、彼の動きが完全に止まった。「……待てよ」
目を大きく見開き、はっと気づく。「名前も聞いてなかった」
電話番号もない。メールアドレスもない。彼は両手で顔を覆った。
「なんでそんな大事なことを忘れるんだ」
数分間、彼は動かず、次々と浮かぶ考えを一つずつ打ち消していった。
やがて、単純な答えが浮かんだ。「……コンビニだ」両手を下ろす。「働いている場所は分かってる」
直接連絡できないなら、こちらから会いに行けばいい。あまりにも当然の答えに、自分の見落としに笑いそうになった。
しかしその笑みもすぐに消えた。改装費のせいで、財布の中身はかなり心細くなっていた。おそらく、あと数ヶ月生き延びられるかどうかというところだった。
椅子に体を預け、ゆっくりと息を吐く。
「賭けだな」
もし断られれば、すでに夢を拒んできた人々の名簿にもう一つ名前が加わるだけだ。しかし受け入れてもらえれば、この事業はついに最初の本物の才能を手に入れる。小説を書ける人間。それ以外の編集、翻訳、公開作業は、時間をかけて自分一人で何とかできる。
考えられるすべての結果を比較したうえで、彼は決断を下した。
「月曜に行こう」コンビニは交代制で動いている。二人が初めて出会ったのも月曜だった。もしかすると、彼女も同じ曜日のシフトに入っているかもしれない。月曜の朝こそ、彼女を見つける最も可能性の高い機会に思えた。
翌日、アカメはいつもの白いシャツと濃色のスラックスに身を包んだ。ジャケットを着ていないその姿は、起業家というよりも、通勤途中の平凡な会社員のようだった。
太田城跡近くのアパートを出て、和歌山駅から紀ノ中之島駅へ向かう電車に乗り込む。スマートフォンの時刻は午前九時を示していた。車内も周囲の街並みも、この時間帯にしては不自然なほど静かだった。
到着すると、彼はそのままアコヤマートへ足を向けた。自動ドアが開き、ほとんど客のいない店内が視界に映る。そのとき、レジのあたりから聞き慣れた声が響いた。
「いらっしゃいませ」
アカメの足が止まった。
やはり、彼女は本当にここにいた。




