表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
285円の借用書から始まる恋とVTuber事務所  作者: Azerostudio


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/17

小さな夢、小さな機会

数日が過ぎ、バイオレットの生活は少しずつ元の日常に戻っていった――少なくとも、記憶がふと浮かぶたびに、彼女自身はそう思い込むようにしていた。


あの起業家との奇妙な出来事は、もうとっくに忘れ去られているはずだった。あの日口にした言葉も、借金を返してもらいたかっただけで、それ以上の意味はない。好奇心が顔を出しそうになるたびに、彼女は心の中でそう繰り返していた。


小説を書くこと。VTuberになること。あの必死な眼差しで語られた、実現不可能に思える未来。それらはどうしても頭の奥から消えてくれなかった。


紀ノ中之島駅近くのアコヤマートには、毎日絶えることなく客が訪れる。朝の通勤客、授業の合間に立ち寄る学生、道に迷った様子の観光客。混雑する時間帯は常に賑わい、自動ドアは閉まる間もなく再び開いていく。


「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」「またお越しください」


バイオレットは無駄のない動きで一つ一つの会計を処理していく。傍から見れば、彼女はいつもと変わらない姿だった。


彼女はヒミコに、あの起業家のアパートを訪ねたことを話していなかった。事務所に加わるかもしれないと伝えたことも、一言も口にしていなかった。


確信が持てないまま黙っているしかなかった。あの会話が本気だったのか、それとも二人とも本当には踏み出せない、ただの馬鹿げた夢想だったのか、彼女自身にも判断がつかなかった。


だから、ある週末が訪れるまで、その話は誰にも語らずにいた。


二人は共有のリビングでくつろいでいた。テレビが低く音を流している。ヒミコはソファに寝転がり、バイオレットは自室から持ってきた枕を抱えながら、その隣に体を丸めて座っていた。いつも通り、先に口を開くのはヒミコだった。


「あ、そういえばヴィオ。今日シフトないの?」


バイオレットは首を横に振った。


「そう」ヒミコがクッションの上で伸びをする。「じゃあ、あの借金の件はどうなった? 本当にあの人のところ行った?」


バイオレットは一瞬、ほんの一瞬だけ動きを止めた。しかしそれだけで、ヒミコには十分だった。話すべきかどうか、彼女自身まだ判断がついていなかった。事業が失敗に終わったらどうする。一ヶ月で消えてしまったらどうする。期待した分だけ、失望が大きくなるだけではないか。


だから彼女は何も言わなかった。


部屋の空気が気まずく沈む。長い沈黙に耐えられないヒミコは、すぐに話題を切り替えた。「そういえば、暇なときに物語書いてるって言ってたよね?」


バイオレットは軽く瞬きをした。予想していなかった話題だった。


返事を待たず、ヒミコは続けた。「私、あれ結構好きなんだよね」


沈黙が答えだった。


「本気で言ってるんだよ、ヴィオ~」


さらに沈黙が続いた。


「前からずっと気になってたの。でもいつも早く終わっちゃうよね、大体二話くらいで。良くても七話まで頑張ったのが一つか二つ」


ようやくバイオレットが口を開いた。


「ありがとう」


それだけだった。ヒミコは大げさにため息をつき、肩をすくめた。「本当に淡々としてるよね。もう少し感情出してもいいのに」


バイオレットはテレビの画面から視線を外さなかった。


「いいえ、けっこうです」


「……ほら、それだよ」


会話がまた途切れそうになった。二度目の沈黙は絶対に許さないと決めたのか、ヒミコはまったく別の話題を持ち出した。「ねえ、最近ネットで移民問題の議論、けっこう荒れてるよね」


バイオレットが一度うなずいた。「うん」


「私の父も一応移民なんだよね。元々ヨーロッパ出身で、母は京都の人」少し考えるように間を置く。


「正直、日本の生活がどんなものか分からずに来る人も多いよね。日本人と結婚して何年も暮らして、結局後悔する人もいる」もう一度間を置く。「でも、私の父はそうじゃなくてよかったけど」


バイオレットは黙って聞いていた。やがてヒミコが笑みを浮かべた。何か言いたいことを本気で伝えようとしている顔だった。


「本当に何を望んでると思う?」バイオレットが視線を上げ、その日初めてヒミコと目を合わせた。「私はいつか、またヴィオの物語を読める日が来ればいいなって思ってる」


テレビは背後で静かに流れ続けている。「いつかアニメになったり、ゲームになったりしないかな。ヴィオが書くモンスターの話がもとになって」小さく笑う。「私自身、モンスターは正直あまり好きじゃないんだけどね」


そのあと、ヒミコはソファの上をゆっくりと、まるで芝居のように慎重にじりじりと近づいてきた。


「そこで止まって」バイオレットが警告する。


ヒミコはとたんに動きを止め、無邪気な顔を装った。「え? 何のこと? あはは……」数秒後、構わず前へ飛び込み、バイオレットの体をしっかりと両腕で包み込んだ。「前からずっとハグしたかったんだよね」


バイオレットは軽く顔をしかめたが、それも意味を持たなかった。体格の差がある相手から逃げるのは不可能だった。「身長百八十三センチもあるからでしょ」隣を見ながら小さく呟く。


「私はたった百六十一だよ」


「だから。ハグにちょうどいい比率」


バイオレットはため息をついたが、本気で振り払おうとはしなかった。ヒミコは彼女にとって、本当の意味で友人と呼べる唯一の存在だった。


二人はその日の午後、窓から差し込む明るい休日の陽射しの中でテレビを見続けた。何日か振りに、バイオレットは失敗のことを少しだけ考えなくなり、代わりにわずかな可能性について考えるようになっていた。


一方、時間は別の場所でも変わらず流れていく。


アカメにとって、その日々は実際よりもずっと長く感じられた。あのゴシック調の衣装をまとったレジ係がアパートを訪れてから、すでに数週間が経っていた。もう二度と来ないと決めたのだろうか。これまでの応募者たちと同じように、考えを変えたのだろうか。その疑問はほとんど毎日、頭の奥に居座り続けていた。


しかし、最初の才能を確保することだけが悩みではなかった。借金の問題も残っていた。


アカメにとって、借金は額の大小に関係なく借金だった。二百八十五円という恥ずかしいほど小さな金額であっても、良心を放っておいてはくれなかった。


ある日の午後、ようやくワンルームの改装を終えたアカメは、静かに仕上がりを見渡した。


かつて何にでも使われていた雑然とした空間は、ようやく正しく区分けされていた。片側は簡易的なオフィスとして機能し、もう片側は、これから訪れる客や才能たちのための小さな受付スペースになっていた。


広くも豪華でもなかったが、それでも十分に「事務所らしさ」を感じさせるものになっていた。


その変化に見入っているうち、ふとあのゴシック調のレジ係のことが頭に浮かんだ。


「本当に来てくれるかな……」


そこで、彼の動きが完全に止まった。「……待てよ」


目を大きく見開き、はっと気づく。「名前も聞いてなかった」


電話番号もない。メールアドレスもない。彼は両手で顔を覆った。


「なんでそんな大事なことを忘れるんだ」


数分間、彼は動かず、次々と浮かぶ考えを一つずつ打ち消していった。


やがて、単純な答えが浮かんだ。「……コンビニだ」両手を下ろす。「働いている場所は分かってる」


直接連絡できないなら、こちらから会いに行けばいい。あまりにも当然の答えに、自分の見落としに笑いそうになった。


しかしその笑みもすぐに消えた。改装費のせいで、財布の中身はかなり心細くなっていた。おそらく、あと数ヶ月生き延びられるかどうかというところだった。


椅子に体を預け、ゆっくりと息を吐く。


「賭けだな」


もし断られれば、すでに夢を拒んできた人々の名簿にもう一つ名前が加わるだけだ。しかし受け入れてもらえれば、この事業はついに最初の本物の才能を手に入れる。小説を書ける人間。それ以外の編集、翻訳、公開作業は、時間をかけて自分一人で何とかできる。


考えられるすべての結果を比較したうえで、彼は決断を下した。


「月曜に行こう」コンビニは交代制で動いている。二人が初めて出会ったのも月曜だった。もしかすると、彼女も同じ曜日のシフトに入っているかもしれない。月曜の朝こそ、彼女を見つける最も可能性の高い機会に思えた。


翌日、アカメはいつもの白いシャツと濃色のスラックスに身を包んだ。ジャケットを着ていないその姿は、起業家というよりも、通勤途中の平凡な会社員のようだった。


太田城跡近くのアパートを出て、和歌山駅から紀ノ中之島駅へ向かう電車に乗り込む。スマートフォンの時刻は午前九時を示していた。車内も周囲の街並みも、この時間帯にしては不自然なほど静かだった。


到着すると、彼はそのままアコヤマートへ足を向けた。自動ドアが開き、ほとんど客のいない店内が視界に映る。そのとき、レジのあたりから聞き慣れた声が響いた。


「いらっしゃいませ」


アカメの足が止まった。


やはり、彼女は本当にここにいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ