正式なタレント
バイオレットは鞄からスマートフォンを取り出した。カフェに差し込む午後遅くの光が、その端にきらりと反射する。画面へ一瞬目を落としたあと、彼女は代わりに窓のほうへ視線を向け、通りを走り抜けていく配達用の自転車を眺めた。
一日はすでに夕方へと移り変わり、外の空は柔らかな黄色みを帯び始め、通りの向かいに並ぶ建物の上端に、金色の筋がかすかにかかっていた。
バイオレットは小さくうなずいた。
「話を聞いてくださって、それに支えてくださって、ありがとうございます」
彼女は一瞬目を閉じた。カフェのざわめきが、周囲で背景音へと沈んでいく。友人の言葉、ヒミコの言葉が、頭の中に蘇ってきた。あの会話以来ずっと探し続けていたものに、今ようやく答えが出た。
バイオレットは再び目を開き、いつも通りの平坦な表情でアカメを見た。それでも今回は、その眼差しの奥に、以前より確かなものが宿っていた。
「頼りにしています、赤和女さん」
アカメはしばらく黙り込んだあと、かすかな笑みを浮かべた。
「こちらこそ。一緒に頑張っていきましょう」
彼は座ったまま軽く頭を下げて答えた。椅子がかすかに軋んだ。
少しして、アカメが再び口を開いた。
「近いうちに、また会えますか。あなたの小説を、できるだけ早く事務所のアカウントで公開したいと思っています。それと、ユナのYouTubeとX、そのアカウントもあなたに引き継ぎたいんです」
バイオレットはすぐにうなずいた。
「もちろんです」
二人は荷物を鞄の中へ戻し始めた。原稿とノートは、慣れた手つきで滑らかに収まっていく。だが、バイオレットが鞄を閉じようとしたところで、アカメが再び声をかけた。
「あ、そうだ、姫星さん」
バイオレットが顔を上げる。
「今から、僕のアパートに寄る時間はありますか。自分で作ったトラッキングアプリで、キャラクターモデルを試せますよ。リグはもう、自分のAIで組み終えています」
バイオレットはしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと首を横に振った。彼女は立ち上がり、丁寧にお辞儀をしてから体を起こし、癖で袖のしわを軽く伸ばした。
「ありがとうございます。でも、そろそろ夜のシフトが始まりますので」
アカメは小さく微笑むだけだった。
「そうですか」
彼はゆっくりとうなずいた。
「それでは、フィオーリさんによろしくお伝えください」
バイオレットも小さくうなずき返し、扉のほうへ体を向けた。カフェの入り口の上にある小さなベルが柔らかく鳴り、彼女が外へ出ると、扉は通りの喧騒に押されるように静かに閉まった。ほどなくして、彼女の姿は和歌山駅へ向かう人波の中へと消えていった。通勤客や買い物袋を提げた人々に紛れ、和歌山の夕方らしい、いつもの慌ただしさの中へ溶け込んでいく。
彼女が去ったあとも、アカメはしばらくテーブルに残り、長く息を吐いた。残っていたロールケーキを食べ終え、冷めきったお茶を飲み干す。まもなく店員がやってきて、空になった皿とカップを片付け、他の客の注文を載せたトレイを抱えたまま次のテーブルへと移っていった。
カフェは相変わらず賑わっていた。エスプレッソマシンがシューッと音を立て、いくつもの会話が重なり合い、店員たちが注文を手にテーブルの間を行き交っていた。それでも、アカメの視線はなぜか何度も、向かいの空いた席へと戻っていった。ほんの数分前まで、バイオレットが座っていた席だった。
彼はテーブルの上に頭を伏せ、両腕を広げるように投げ出し、視線を窓の外のどこかへ向けた。
「疲れた……CEOとしてスタートアップを回すって、こういう感覚か」
彼はテーブルの上で腕を組み、その上に頭を預けた。片目を閉じたまま、これまで経験してきたことすべてが頭の中を巡っていく。
「創業者になることが、これほど大変だとは思っていなかった」
これまでずっと、自分のスタートアップを動かすというのがどんな感覚なのか、頭の中で思い描いてきただけだった。頭の中にあったアイデアを、実際の形にするということ。現実は、それよりもずっと消耗するものだった。タレントのこと、終わりのない準備、運営費、スケジュール、そして実際に利益が出るまで、どうやって全体を回し続けるか。そのすべてを考えなければならなかった。
ようやく今になって、なぜこれほど多くの創業者が、育つ機会すら得られないうちに諦めてしまうのか、その理由が理解できた。
それでも、今日は少し違って感じられた。
これまでのあらゆる失敗と苦労の中で、初めて誰かが本気で自分を信じ、自分が築こうとしているスタートアップの一員になってくれた。
姫星さんをその日のうちに配信させたり、小説を公開させたりすることまではできなかった。それでも、彼女をタレントとして確保することには失敗しなかった。
「今度は、離れていかない」
彼は向かいの空いた席をもう一度見つめた。
「少なくとも……ようやくスタートアップが、前へ動き始めた」
しばらくの間、アカメは頭を空っぽにしたまま、同じ席を見つめ続けていた。バイオレットが去ったあとも、奇妙な感覚が漂っていた。何が自分をあの席へ何度も引き戻すのか、はっきりとは言葉にできなかった。
やがて彼は椅子に座り直し、仕事用の鞄を手に取って立ち上がり、カフェを出る準備を整えた。
その日はバイオレットにご馳走した分で財布の中身を使い切っていたので、アカメはバスに乗らず、アパートまで歩いて帰ることにした。
途中で、彼は長いため息をついた。
「はぁ……あの場でアパートに誘っておけば、すぐに取りかかれたのに」
午後の光の下を歩きながら、彼は黙り込んだ。西の空には太陽が低く沈みかけ、じわじわと橙色を濃くしていく。舗道の上に、自分の影が長く伸びていた。
彼は自分の迂闊さに小さく愚痴をこぼした。もっと早く思いついていれば、すでにスタートアップのために全部を動かし始められていたはずだった。
もしあのときバイオレットを部屋に誘っていたら、自分で組んだトラッキングソフトでリグを組んだキャラクターを試させ、ユナのYouTubeとXのアカウントを渡し、小説の公開まで、その日の午後だけで一通り終わらせられていたかもしれない。すべてが動き出せば、次の段階へ進み、これまで準備してきたことの結果を待つだけになったはずだった。
「くそ……なんで彼女が席を立つ直前まで気づかなかったんだ」
彼はため息をつき、首を横に振った。
「自分を責めるな、アカメ。これでも十分な前進だ」
アカメは小さく微笑んだ。
「少なくとも、姫星さんは正式にスーパーバス所属のタレントになったんだから」
彼は数歩進んでからまた立ち止まり、自転車が通り過ぎるのを待ってから道を渡った。
「それでも、どうしてまだ満たされない気持ちがあるんだろう」
彼はしばらく考えた。
「これが、成功への道の途中で感じる焦り、というやつなんだろうな」
和歌山駅近くのカフェからアパートまでの道のりは、ずっと夕日の方角へ向かって続いていた。シャッターの下りた店の前を通り過ぎ、時折、反対方向へ歩く通行人とすれ違う。アカメは何度も、目の前の道路に広がる橙色の光に目をやった。
そうして、カフェでの会話へと思考が戻っていったとき、バイオレットの笑みが再び頭の中に浮かんだ。
アカメの足が止まった。
あの笑みは、いつもの平坦な表情とはどこか違っていた。初めて、彼女の中の別の一面を本当の意味で目にした気がした。近づきがたい表情と、その印象をさらに強めるゴシックな服装の奥に、思っていたよりもずっと柔らかく見える笑みを、バイオレットは見せていた。
気づかないうちに、アカメも少しだけ微笑んでいた。
それから、ゆっくりと顔が赤くなっていった。
我に返り、自分の頬を軽くこすった。
「……なんで今、彼女の笑顔のことなんて考えているんだ」
彼はしばらく黙り込んだ。会話の内容へ意識を戻そうとしたが、代わりにバイオレットの笑みばかりが浮かんでくる。
「さあ、どうしてだろうな……」
顔がさらに赤くなった。
アカメは慌てて首を横に振った。
「大事なのは、スタートアップがようやく動き始めたってことだ」
彼は帰宅後にやるべきことへ意識を戻し、道の最後の区間が見えてくるにつれて、歩調を少しだけ速めた。彼にとって、タレントを確保し、VTuber事業を軌道に乗せることは、何よりも優先すべきことだった。
アパートに着くと、アカメはポケットの中で鍵を鳴らしながら、玄関のほうへ歩いていった。
そこで、彼の足が止まった。
扉の脇に、見覚えのある人物が立っていた。
その人物が現れるたびに、アカメの首の後ろの毛が逆立った。
彼は奥歯を噛みしめた。
先ほどまでバイオレットの笑みを思い出して顔に残っていた赤みは消え去り、代わりに緊張が広がっていった。
「……また、か」




