絵と記憶
目の前の立派な幹をまとう大木を見上げながら、葵亥は腕を横に大きく広げて深呼吸した。
架橋神社の御神木である桜の木は全ての葉を落としているのだが、それでも所々に宿り木が付いていて丸裸とは言えないくらい緑の葉に覆われている。
葵亥はしばらくその場に立ったままその木を正面から観察した。
それから少し後ろに下がって木から離れた位置にあぐらをかいて座り込んだ。
そして紙を広げ、矢立てから筆を取り出し、絵を描き始めた。
しばらくすると背後から規則正しく砂利を踏み鳴らす音がだんだん大きくなるのが聞こえてきた。
振り向いてみると意外な人物が近づいて来ていた。
「なんだ、三木ヱ門か」
「なんだとはなんだ」
三木ヱ門と呼ばれた青年は葵亥の横まで来て、立ったままで葵亥の手元を覗き込んだ。
「なかなか立派な宿り木だな」
そう言って感心したように今度は本物の木の方を見上げた。
高い位置で結った長い黒髪をまっすぐ垂らしている。
「なるほど、あの鳥か」
三木ヱ門は木にやって来ている鳥を見つけて、もう一度葵亥の絵に視線を戻した。
葵亥の絵の中の木に止まる鳥と見比べている。
「この鳥は宿り木にやって来る鳥なんだ。知ってるか?」
絵を描く手をとめずに葵亥は言った。
「見たことはある。比較的珍しい鳥だが」
三木ヱ門は狩りで色々な鳥を見ているから鳥にも詳しい。
「緋連雀と言うらしい」
さっき椿嬉から教えてもらった名だ。
「ほう」
三木ヱ門はしばらく黙ってその鳥を眺めている。
元々三木ヱ門も口数の多い方ではない。
尾木の国にいた頃も葵亥と三木ヱ門は同じ場所にいてもどちらも話さない時間を過ごすことも多かった。
それでもお互いに居心地の悪さは全く感じないのだった。
相手の事はよく分かっているし、用事もないのに無理に何か話そうとしなくてもよいのでお互い気が楽だと思っていた。
「三木ヱ門。明日はお前のための宴だ。
所司代の屋敷に菊守殿や椿嬉殿も招待しておいた」
葵亥の急な言葉に三木ヱ門が眉をひそめた。
「宴?葵亥、お前まさか、京の都に来て陽気なやつになったのか?」
「は!まさか」
「俺は陽気なやつが苦手なんだ」
三木ヱ門が眉間にしわを寄せているのを見て、葵亥は思わず自然に笑みを浮かべていた。
「知ってる。だから俺たちは気が合うんだろ?」
「まあな」
「そろそろ一度屋敷に戻ろう」
葵亥は矢立てに筆をしまった。
出来上がった絵を三木ヱ門が眺めている。
「いい絵だな」
「だろう?」
調子に乗るなと言わんばかりの目を三木ヱ門が葵亥に向けたが、実際よく描けた絵なので三木ヱ門は出来栄えについてそれ以上は何も言わなかった。
「本当に絵を描くの好きなんだな」
葵亥は絵の墨が乾いたことを確認しながら丁寧に折りたたんでいく。
「まあな。それに絵は記憶の証明でもある。
全て本当にあったことだということを忘れないために描いているんだ」
「この景色を忘れないように描き留めておくといことか?
それは頭で覚えておくだけではだめなのか?」
「俺にとって京の都で過ごした時間は多分大切なものになると思う。
尾木の国に帰ったらきっと夢だったんじゃないかと思うにちがいないんだよ」
「お前、結構感傷に浸る質だからな。
でも何でもかんでも絵に残すことはできないだろ。
絵は断片的な情報にしかならないと思うが」
葵亥は丁寧に畳んでしまいかけていた絵をもう一度広げて三木ヱ門によく見えるように持って言った。
「絵は描かれている物事以上の情報を持つんだよ。
いつか尾木の国に戻ったあとでこの架橋神社の御神木の絵を眺めた時、あぁこんな木があったなと懐かしく思うだろう。
しかしそれだけじゃない。
そこから、この絵を描いているときに三木ヱ門がやって来たことを思い出す。
酉貴兄、導仁殿、菊守殿や椿嬉殿とこの木を見上げた時のことを思い出すかもしれない。
この架橋神社で落葉を集めて焼芋をしたことや、色々なことが次々とまぶたの裏に蘇ってくるだろう。
このたった一枚の絵を見ただけで。
俺は絵の持っているこの不思議な力が好きなんだ」
「…なるほどな。わかる気がする」
三木ヱ門の言葉に葵亥は満足気に微笑んで、再び絵を静かに畳んでしまった。
「さて、屋敷で久しぶりに弓対決でもしようか。
腕がなまってないといいが…」
「おい」
葵亥が立ち上がって架橋神社の鳥居の方へ向かおうとすると三木ヱ門が葵亥の腕をがしりと掴んだので、葵亥は思わず砂利に足をすくわれるところだった。
「急にどうした?」
葵亥が三木ヱ門の顔を見ると、三木ヱ門は恐ろしい物でも見るかのように葵亥の顔を凝視していた。
「お前の着物から香の匂いがするぞ。一体どうした?
もしかして京の都に来てモテようとでもしているのか?」
「ああ、いや、友人からもらった香袋の香りだ」
葵亥は懐から椿嬉にもらった香袋を出して見せた。
「お前に、友人?」
あっけにとられたような顔を見せている三木ヱ門に葵亥は言い返そうとしたが、とっさに口から出てきたのは小さな声と、反論とは言えない言葉だけだった。
「お前なぁ…」
それ以上言うことが見つからず、葵亥は三木ヱ門に掴まれた手を振り払い鳥居の方へさっさと歩いて行った。
少し遅れて三木ヱ門が後を追ってくる足音が聞こえてきた。
足音に交じってぶつぶつと「友人…」という声が聞こえてきた気がしたが、これを葵亥は無視することにした。




