深緑の光
梅立商店から葉香園までは少し距離があり、葵亥達は歩いているうちに体は暖まったが、代わりに手先が冷えてしまった。
葉香園が見えてきたところで椿嬉が手のひらに息を吹きかけて温めながら言った。
「あら?何かしら?葉香園の店先に何かいるわ」
葵亥と菊守も葉香園の方を目を凝らして見た。
葵亥は椿嬉が店先に見つけたものを視界に捉えて、そういえばと思い出した。
「ああ、あれは猫ですよ。
野良猫だったのを葉香園で面倒をみているそうです」
「猫!」
椿嬉が走って近づいて行ったが、店先で寝転んでいる猫は全く逃げようとしなかった。
椿嬉がしゃがんで猫の顔を覗き込んでいると、店の中から四葉が出てきた。
「やっぱり椿嬉の声だったのね」
「この子触っても良いの?」
「ええ。人慣れしているし、良いわよ」
椿嬉が猫の体を撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。
「葵亥様、菊守様、直ぐにお茶を用意しますから中へどうぞ。
椿嬉もその子と中へ入って来なさいよ」
椿嬉が嬉しそうに猫を抱き上げて、葵亥と菊守に続いて店内に入ってきた。
椿嬉が猫を抱いて席に着くと、その隣に菊守が座り、葵亥は菊守の向かい側に座った。
葉香園の店内には数人客がいた。
葵亥の座っている席から右斜め前の卓に、見たことのある若い厳つい男が座っている。
男は綺麗な深緑の色の根付を付けていて、葵亥の席からはその根付が揺れるたびにきらきらと緑色の光が見える。
椿嬉が膝の上に猫を乗せて、今では隣の菊守もその猫を触っていた。
「かわいらしい猫ですね。それにとても大人しいですね」
菊守が言うと、猫は返事をするかのように頭をあげて小さくミャァと鳴いた。
四葉がお茶と練りきりの菓子を持ってくると、葵亥は猫で遊ぶ椿嬉と菊守を眺めながら黙って菓子を口にした。
二人とも猫に夢中になっているようだ。
「四葉殿が言うには貰い手が見つかるまでここに置くつもりのようです」
「あら、まだすぐには見つからないでほしいわ」
椿嬉は膝の上で丸くなっている猫を見てくすくすと笑い出した。
「今日聞いた落語に猫の皿という噺がありましたよね」
「高価な皿を猫の餌皿にしていた噺ですよね。
あれはなかなか面白かったです」菊守が言った。
「猫の貰い手がなかなか見つからなかったらあの噺のような手を使うかもしれないわね」
「なあに?どんな話なの?」
ちょうど椿嬉の背後を通りがかった四葉が、盆を片手にこちらにやって来た。
「まだ教えられないわ。しばらくは猫ちゃんにはここにいてもらいたいもの。
それよりこの子名前はないの?」
「まだ決まっていないのよ」
「前髪って名前はどう?」
全体的に白い毛の猫だが、頭に前髪のように黒い毛が生えているのを椿嬉が指さして言った。
「椿嬉。それはさすがに…ださすぎるわ」
四葉の正直な感想に葵亥も菊守も吹き出した。
「名前はゆっくり決めるわ。もちろん前髪以外で」
四葉が冗談めかしてそう言って仕事に戻って行くと、椿嬉が菊守の方を見て言った。
「それで、明日のことですけど」
菊守の瞳が一気に光り輝いた。
「ええ、そうでした!明日行く神社はどこにあるのですか?」
「京の都の西の端の方にある松迦羅社という神社です。
私が案内しますから、とりあえず架橋神社に集まりましょう」
「分かりました」
菊守は笑顔で答えた。
「帰りにお団子屋さんに寄るのですよね?やはり馬は必要ないですか?」
「だから私、馬乗れませんってば」
このやりとりは二回目だが、椿嬉も笑顔で答えているのを見て、葵亥も自身の気が付かないうちに笑顔になっていた。
それからいつか本当に菊守に馬を出させてやろうと考えていた。
「今日の寄席といい、明日の神社といい、菊守様はお一人でふらふらしていてもいいのですか?
いくら葵亥様が一緒にいらっしゃるとはいえ護衛の方とか付けなくていいのですか?」
椿嬉の質問には葵亥も最もだと思った。
すると菊守のいつもの優雅な笑みにさっと影が差した。
「護衛ならいます」
そう言って菊守が左手をさっと挙げると、それを合図に葵亥の右斜め前の席の深緑の根付の男が素早くこちらへやって来た。
「何か御用でしょうか、菊守様」
「葵亥殿と椿嬉殿が護衛がいないことを心配してくださるのですよ。
こちらは飛鳥殿です。とても頼りになる護衛なんです。
私の護衛は市井のいたるところにいますからご心配には及びません」
飛鳥と呼ばれた護衛は深いお辞儀をして静かに席に戻って行った。
葵亥は椿嬉と目を合わせて、椿嬉も驚いていることを確認した。
「いつも護衛が付いていることに気が付かなかったでしょう?
いつ言おうかとわくわくしていたのですよ」
菊守がとても満足げな顔で茶菓子を頬張っているのを見ながら、葵亥はぼそりと呟いた。
「意外に食えない御人ですね」
「同意です」椿嬉も茶菓子に手を伸ばしながら頷いた。




