時和演芸場
京の都の北東にある時和演芸場で、葵亥は菊守と椿嬉と一緒に並びで座った。
演芸場は葵亥が思っていたよりも広く、ほかの客に紛れて目立たずに済みそうだったが、葵亥達は念のため後ろの方に席を取った。
隣に座る菊守を見やり、葵亥は十夜が思っていた以上にできる男だと思った。
今隣りにいる菊守は、ちゃんと周りの目を惹かないように、化粧でくすんだ顔をしていた。
整った顔は上手い具合に乱れた髪に隠されている。
葵亥の隣りにいる人物があの美青年だとは誰も気が付かないだろう。
「十夜殿に頼んで正解でしたね」
葵亥が言うと、椿嬉が隣でくすくすと笑った。
「ね?そうでしょう?初め葵亥様は気が進まなかったみたいでしたけど」
椿嬉の口の端をあげてにやにやとしているのを見て、葵亥は今更ながら椿嬉にしてやられたと気が付いた。
「椿嬉殿は十夜殿と花月殿が兄妹だと知っていたんですよね?」
「葵亥様は知らなかったんですか?」
「知りませんよ、教えてもらってませんから」
葵亥は大人気なく拗ねるように言った。
「ふふふ。でも葵亥様、急に安心しすぎですよ」
「仕方ないじゃないですか、十夜殿が相手では勝ち目が有りませんでしたから。
とは言え戦況は全然良くありませんけど」
「そうですね」
椿嬉の清々しいほどあっさりした返事に、さすがの葵亥も恨めしい顔で椿嬉を見つめた。
「そうですね、はひどいですね。
そんな事ないですよ、とかはないんですか?」
「葵亥様の補佐役として甘やかすのは良くないと判断しました」
「なるほど、頼もしい補佐役です」
今度は葵亥と椿嬉のやりとりを横で聞いていた菊守がくすくすと笑っている。
菊守と言えば、先程梅立商店で十夜に久しぶりだと言われていたのを思い出した。
「そういえば菊守殿。十夜殿とは知り合いだったのですか?」
「あ、はい。十夜殿、というか、梅立商店の方々には以前から宮廷に来てもらっていますから」
「なるほどそれで…ということは、十夜殿も菊守殿や導仁殿の正体を知っているということですね?」
「そういう事です。
ただ花月殿が十夜殿のお身内だということは知りませんでしたよ。
おや、ちょっと待ってください。
ということは、まだ葵亥殿は恋敵が登場する段階までは来ていなかったということですよね。
もしかすると、その前の段階がまだ完了していないのかもしれません。
うむ…なるほど、分かりました。
まずはもう少し仲良くなって、恋仲になれるかもしれないという一方的な勘違いをする段階を踏まなくてはいけませんね!」
「そ、そうですか」
葵亥が菊守の謎の考察を聞いている間に気が付けば客席は満席となっていた。
それから三人の噺家が一人ずつ順番に出てきて落語を披露したのだが、一人目より二人目、二人目より三人目が格上の噺家らしかった。
「大変面白かったですね」
最後の演目が終わり噺家が舞台からいなくなると、とても満足した顔の菊守が言った。
「ええ。お二人とも、また是非来ましょうね!」
椿嬉が席を立ちながら、葵亥と菊守に言った。
葵亥も変装する手間さえなければいつでも来られるのにと思ったくらいだった。
落語は講談とはまた違って面白いと思ったし、またこうやって友人と並んで座って楽しめるというのは大変良いと思った。
「すみません、そこのお侍さん方」
背後から声がしたので振り返ると、そこには見知らぬ若い武士が立っていた。
男は健康そうながっしりとした体形で、身なりからすれば今の葵亥たち下級武士よりは少し上くらいの印象だ。
男の顔にはこれといって感情のようなものは見て取れないが、かといって敵意も感じない。
「我々のことですか?」菊守が答えると、男は頷いた。
「私はこの国を守るために活動している組織、真朝隊の者です」
「真朝隊…」葵亥は思わずその名を呟いた。
「我々真朝隊はこの国が正しくあるべき姿を守る為に作られたのです。
悪を諌め誤りを正し、正義を守るのです。
今この国はまさに誤りを正さねばならない時なのです。
そしてそのためには我々と志を同じくする仲間が必要なのです。
貴方がたはそのような話に興味はありますか」
男は周りの人々には聞こえないよう静かな声ではあるがしっかりとした口調で、葵亥と菊守に向かって一気にそう告げた。
「大変興味深い話ですね。詳しくお聞かせください」
葵亥も真面目な顔で、静かな声色で男の話に合わせた。
男は葵亥たちに一歩近づき少し身を乗り出して、先ほどよりも声を落として言った。
「おや。あなた様は私の話にご興味がお有りということですね。
大抵の御方は馬鹿なことを言うなと聞く耳持たず帰ってしまわれます」
「私は武士としてこの国をいちばん大切に考えていますから」
葵亥の返事を聞いて男はまた一歩葵亥たちに近づき、さらに声を抑えて言った。
「ならば次の新月の夜、万願寺でお待ちしています。
詳しいことはそこでお話します。そこで辞めるも引き留めは致しませんからご安心下さい。
ただしこのことは他言無用でお願いします」
「承知しました」
男が去っていくと、いつの間にか少し離れた壁際で待っていた椿嬉がこちらにやって来た。
「どうでした?」
「新月の夜、万願寺に来いという事でした」
葵亥は周りに聞こえないよう静かな声で椿嬉にそう伝えた。
「葵亥様だとは気付かれなかったようですね。
ひとまずは、変装して来た甲斐があって良かったですね」
「はい。ではまた着替えに梅立商店へ行きましょうか。
この着物、万願寺へ行く際にも必要なので、買い取らせていただかなければいけません。
ところで椿嬉殿?」
「なんでしょう?」
「万願寺とはどこなのですか?」
葵亥の質問が意外だったのか椿嬉が笑い出した。
「知ったかぶりしていたのですか。いいですね、葵亥様のそういう所」
「…からかわないでください」
「万願寺は京の都の北東の低い山の少し登ったところにあります」
笑っている椿嬉の代わりに菊守が答えた。
「新月の夜に行きたいところではないですね」
葵亥の言葉に菊守は頷いた。
「はい、そうでしょうね。
ところでその万願寺ですけど、私がついて行ってはだめですよね」
「もちろん駄目ですよ」
葵亥が即答したので菊守は寂しそうに微笑んで、それ以上何も言わなかった。
「菊守様。明日は亀の吐水口のある神社に行きますから、真朝隊のことはおとなしく葵亥様にお任せして諦めましょう」
椿嬉の言葉に菊守の目に輝きが戻った。
「そうですね!
とにかく今は梅立商店へ行って着替えましょう!
それから葉香園に行ってお茶でも飲みながら明日の事について話しませんか?」
足取りの軽い菊守に続いて、葵亥と椿嬉は梅立商店へ向かった。




