十夜と花月
大きな暖簾に『梅立商店』と一文字ずつ書かれたとても立派な店に葵亥たちはやってきた。
表は店で、店の奥に屋敷が続いているようだ。
店の外でちょうど十夜が客らしき男と話終わるところだった。
「葵亥様!お久しぶりです。
菊守様、ご無沙汰しております。
椿嬉さんもお元気そうで何よりです」
菊守が十夜と何故顔見知りなのか分からないが、葵亥はそれどころではなかった。
花月が十夜の腕に遠慮なく抱きついたからだ。
「十夜!」
「お前にはこの間会ったばかりだろう。
母さん!父さん!花月が来てますよ!」
花月の事をお前呼ばわりするとは何事かと葵亥は思ったが、それは心の中に押し留めておいた。
店の奥から梅立商店の主人と奥さんが出て来た。
「あら、葵亥様に菊守様!お久しぶりです。
花月!おかえり!」
「母さん、父さん、ただいま。
今日は葵亥様のご用事のお手伝いをして差し上げてほしいのだけど」
葵亥は花月の言葉を聞き間違えたのかと思った。
母さん?父さん?
葵亥が一人で混乱していると疑問は菊守が言葉にしてくれた。
「すみません。お二人が花月殿のご両親なのですか?」
「はい、そうです。
花月、ちゃんとお話していなかったの?」
「えーっと、話してなかったかしら?
葵亥様、菊守様。こちらは私の父と母です。
あとついでに十夜は私の兄です」
「ついでとは何だ」十夜が花月の額を指で弾いた。
花月が少し赤くなった額を手で抑えて、十夜に文句を言うのをしばらくの間見物してから、椿嬉が話し始めた。
「十夜さん。それより本題ですけど、私たち三人で落語を聞きに行きたいのですが、葵亥様と菊守様を変装させるのを手伝ってもらえないでしょうか」
「そういうことならお安い御用です。
実はたまにそういうことを頼まれてやっているのです。
全て私にお任せください」
十夜はそう言うとすぐに店の奥から男を一人呼びつけ手際よく何か指示した。
「葵亥様と菊守様は一度屋敷の方へどうぞ。
すぐにお着替えの準備しましょう」
十夜に従い葵亥と菊守は梅立商店の奥の屋敷へ案内されて入って行った。
「実は以前、十夜殿と花月殿が一緒に歩いているのを見て、恋人だと思っていたのですが。まさか兄妹だったとは」
十夜が着替えの着物を用意する間に、葵亥はずっと自分が勘違いしていたことを白状した。
「ははは。花月に恋人でもいれば良いのですけど。
あいつには困ったもので、お屋敷の買い出しで荷物がある時にはよく私を使うのですよ。
そういえば、以前葵亥様に手伝っていただいたという話を聞きました。
花月の事を気にかけていただきありがとうございます」
「いえ、ちょうどお見かけしたのに声もかけずに素通りなどできませんから…」
葵亥が話すのを菊守が面白がるように見ている気がして、なんとも居心地が悪い。
葵亥がそれから何も言わずにいると菊守が口を開いた。
「しかし梅立商店の娘ともなると縁談も多いでしょうね。
本当なら恋人にも困らないほどではないのですか?」
菊守が葵亥の方へ意味ありげな目線を送ってくる。
少し前まで花月と十夜が恋人ではなく兄妹と分かって安心していたのに、菊守のせいでまた胸がざわついてきた。
「何度か縁談はあったのですが、あいつもなかなか頑固で全て断ってしまいまして。
それから修行と称して宮内殿の屋敷で働くと勝手に言い出して家を出たのですよ」
いつも五姫婆で通っているので忘れがちだが、十夜が宮内殿と呼ぶのが五姫婆こと宮内五姫の事だ。
「花月殿は自己意志の強い方なのですね。意外です」
菊守の言葉に、葵亥も全く同意見だった。
縁談を全て断ったり、勝手に家を出るなど、花月のふんわりとした見た目からは想像できなかった。
「自己意志が強いと言うか、わがままと言うか…。
とは言え、私たちも花月には甘いところがありまして。
すみません、妹の話なんて別にお二人には興味のない話でしょう。
さて、こちらに変装にちょうど良い着物をご用意しました。
お二人は真朝隊について探りに行かれるのですよね。
少し粗末な着物ですが、これを着て、帯刀していても違和感のないよう下級武士のふりをするのが良いと思います。
後で髪を荒く結い直して、化粧をしましょう」
「大変助かります。何から何までありがとうございます」
着物を受け取りながら、葵亥は寄席に行くのが純粋に楽しみになってきていた。




