人の噂
外はまだまだ目の覚めるほどの寒さだが、竹刀を握る葵亥の額には汗が滲んでいた。
今しがた馬加師範との模擬試合を、西倭道場の門下生たちに見せたところだった。
西倭道場のきしむ床を歩いて隅の方で水を飲みながら休憩していると、開け放たれた道場の戸の外が何やら騒がしいことに気がついた。
少しするとその戸から梅立十夜が困惑した様子で入って来たので、葵亥は声をかけた。
「外が騒がしいですが、何か問題でもあったのですか?」
「いえ、問題というほどではないのですが、見学希望者が十名ほどいらっしゃっていて…」
「それはすごいですね。
中に入って見学してもらえば良いのでは?」
「それが、来られている方は剣術を習いたい訳では無いのですよ。
全員女性で、その、見学の目的が、葵亥様のようでして…」
「一体どういうことですか?」
見学の目的が自分だと言われても、葵亥には全く意味が分からなかった。
葵亥は自分の剣術には自信があったが、剣術に興味がないのであれば何を見るというのだろうか。
「私にもどういう訳か…」
十夜もわけがわからずどうにもできないでいるようだ。
「どうもこうもありませんよ!」
今度は竜胆宮比が床をきしませてやってきた。
「気織酉貴様が尾木の国へ帰られたので、取り巻きの方々が酉貴様に容姿の似ているという噂の葵亥様を見に来たのです。
葵亥様は見世物ではありません。
十夜さん、ちゃんと注意してください。
だいたいあんなにきゃあきゃあと猿のようにうるさくては困りますよ」
試合中は集中していたので全く気が付かなかったが、葵亥はずっと見られていたらしい。
しかし女性たちの騒ぐ声を猿と例えるとは宮比は容赦のない人物だ。
「申し訳ありません、葵亥様。すぐに帰るように伝えてきますので」
十夜が急いで外に向かおうとするのを葵亥は引き止めた。
「いいえ、見学は構いません。中に入っていただきましょう。
ただ静かにしていただけるとありがたいですが」
宮比の機嫌を損ねないように、と葵亥は心の中で呟いた。
「よろしいのですか?」
「酉貴と違って私は見られるのは正直得意ではないですが、西倭道場の話題作りにはなるのではないでしょうか」
「そうかもしれませんが…」
「それに私は酉貴と容姿が似ているだけで、彼女たちの期待には沿えませんから、そのうち自然に収束しますよ」
十夜が外の見学者たちの方へ話に行くと、宮比が葵亥の方を見て言った。
「葵亥様は甘いですね。
収束なんてしないで、そのままあの方々は葵亥様の親衛隊になるかもしれませんよ」
「そうでしょうか?
見学しているうちに心変わりして、十夜殿や、もしかすると宮比殿の親衛隊ができるかもしれませんよ?」
葵亥はからかうつもりで宮比にそう言ったが、宮比は逆に呆れたようにため息をついた。
「十夜さんの親衛隊ならもうありますよ。
いつも十夜さんが帰るのを出待ちしています。ですからもう十分です」
「冗談のつもりだったのですが」
「私は冗談ではなく大真面目です。
葵亥様は民の心が全然分かっていませんね」
「…否定できませんね。
しかし宮比殿の様にはっきりと指摘してくれる方がいるというのは幸いです」
葵亥の周りには、宮比や椿嬉や片栗のような、葵亥に対してもはっきりものを言ってくれる女性たちがいる。
尾木の国にいた頃も、葵亥にこういう駄目出しをしてくれる人物というのはとても少なかった。
葵亥に気を遣ってくれているのはわかるが、葵亥は駄目なところは駄目だとはっきり言ってもらえる方がありがたかった。
「私なら言って欲しいと思うことを、葵亥様に対しても言っているだけです」
「ありがたいです」
「それではついでにもう一つ言わせて下さい。
以前葵亥様が葉香園という茶屋で争い事をお鎮めになりましたね。
あの事件は目撃者から話がどんどん広がり、噂に尾ひれがついて、もはや何が本当にあったことなのか分からないほどとなっています」
「噂というのは当てにならぬものです。
私が悪党になっていても別に気にしません」
「私が最後に聞いた噂話では、葉香園を悪党から救ったのが葵亥様でした。
ただしその話では葵亥様は無抵抗の悪党を容赦なく刀で滅多刺しにした恐ろしい男ということになっています」
宮比の言う悪党というのが真朝隊の者たちの事だ。
しかし無抵抗の者を滅多刺しにしたという男の方が世間では本当の悪党と思われるだろう。
「はは、それならやはり私は悪党より危険な男なんですね」
葵亥が笑っていると、宮比は葵亥を睨んで鋭い口調になった。
「笑い事ではありませんよ。
葵亥様は無慈悲で恐ろしい将軍家の若君だと言われているのですよ。
そのうち往来で石を投げられるかもしれません」
「ははは、それは困りますね。
宮比殿、心配してくれてありがとうございます」
まだ葵亥が笑っているのが、宮比には納得いかない様子だ。
「心配はしていません。葵亥様に勝てるような者などいないのですから。
葵亥様は将軍家の名誉を傷つけられ、笑って済ませて良いのですか?
これでは本物の悪党は被害者扱いです」
「葉香園を襲った者たちのとった行動は、確かに悪党と言えるかもしれません。
しかし彼らの真の目的に関しては、私もまだ分かりかねるところがあります。
彼らには彼らの正義があるのかもしれません。
そして彼らにとっては私の方こそ悪党なのかもしれません」
「それでは葵亥様はそのでたらめな噂話が広がるのを放っておくおつもりですか?」
「そうですね。放っておきます」
「なぜ何もなさらないのです?」
宮比は少し苛立った様子で葵亥に聞いたが、葵亥は何でもない事のように答えた。
「宮比殿はお忘れではないですか?
真実だろうとでたらめだろうと、人の噂は八十五日ですよ」
「やはり葵亥様は詰めが甘いですね」
「そうですか?」
「八十五日ではなく七十五日ですよ」
宮比はあきらめた様子で肩を落とし、見学者と対峙する十夜に加勢しに行った。




