平穏と祈願
冬の神社に毎日通うというのは、寒さが得意でない葵亥にとっては本来辛いことだった。
その葵亥が、最近ではよく菊守と椿嬉との約束の時刻よりも早く神社へ来るようになっていた。
「葵亥様。また早くからいらっしゃっていたんですか」
椿嬉の声に葵亥は絵を描く手を止めて、顔を上げた。
「はい。なんだか神社って、描いてみたいところが多くあって」
今日の葵亥は手水舎から少し離れた正面に座っていた。
正月とはいえもう参拝者も減ってはきているが、他の参拝者の邪魔にならないような場所を選んで座っている。
「こんなところに座って。冷たくないですか?」
そう言いながら椿嬉も葵亥の横に並んで座った。
「冷たいですよ。
って、そう言いながら椿嬉殿も座ってるじゃないですか」
葵亥は笑いながら、絵を覗き込む椿嬉に言った。
「葵亥様の絵が楽しみなんですよ。手水舎の絵ですか」
「素敵な絵ですね」今度は葵亥の頭上から菊守の声がした。
「そう言ってもらえるとやはり嬉しいです」
葵亥が顔を上げると菊守と導仁が立って絵を覗き込んでいた。
「絵のお仕事もなさったらいいのに」
菊守の言葉に葵亥は思わず声をあげて笑った。
「そんなに笑うことですか?こんなに素敵な絵を描けるのに」
椿嬉も褒めてくれるが葵亥は自分の絵が仕事になるとは到底思えなかった。
しかし絵描きという職業には少し憧れがある。
「武士なんてやめて、売れない絵描きでも目指してみますか」
「売れない絵描きは目指す物ではなくて結果ですよ」
椿嬉の突っ込みに葵亥は真面目な顔で答えた。
「いえいえ。絵描きという職業としてぎりぎり成り立つくらいで、かつ、自称絵描きよりは上という立場が理想なんですよ」
「なんですか?それ」菊守がくすくすと笑った。
葵亥は筆と絵をしまいながら言った。
「たまに考えませんか?もしこれが別の人生だったらどんなものだろうと」
「それは皆が一度は考えたことがあることでしょうね」
そう言う菊守の表情が、葵亥にはなんだか寂しそうに見えた気がした。
一方で導仁はそのやりとりを楽しそうな表情で眺めていた。
「わかります。都合良く作り上げた想像上のありもしない別の人生と、自分の現状を比べて悲観するところまでがお約束ですよね」
「わあ、出ました。導仁様の的確すぎて怖くなる言い回し」
椿嬉の苦い表情を横から眺めながら、葵亥はたまに導仁が繰り出す物言いは酉貴のそれに似ていると思った。
「導仁殿はたまに酉貴兄みたいなこと言いますね。
仕方がないので屋敷に帰ってからひとりでこっそりじっくり自分の現状を悲観することにします」
「はは、すみません。
そういえば今朝、酉貴殿から無事尾木の国へ到着したという文を受け取りました。
酉貴殿が京の都を発ってから、都の女性たちが気力をなくしているそうです。全く罪深い御方ですね」
「京の都を出るときにも、見送りの女性たちが詰めかけて大変でしたからねえ」
菊守がまるで思い出を懐かしむような顔で言うので、葵亥は吹き出してしまった。
「あんな酉貴兄の迷惑な行動までが思い出話の様になってしまうのですね。
酉貴兄は目立ちたがりなだけで、女性たちには興味が無いんですよ。
困ったものですが、ああして周りに愛想よく笑顔を振りまいて周るだけで、誰一人として個別に相手にすることは無いんです。
それが良いのが悪いのかよく分からないところです」
「そう言われてみれば、酉貴殿が個別に女性に声をかけるところを見たことがないですね」
菊守が感心したように言うと、今度は椿嬉が頷いて言った。
「酉貴様は女性の間では難攻不落の美丈夫として有名のようです。
全体に愛想よく手を振りはするものの、実は個々には声もかけないし、近づくことさえもないと」
「気織家の男は妻以外の女性に理由なく触れないようにと厳しく教育されています。
声もかけないというのは単なる酉貴兄の事情でしょうけど」
「酉貴殿の事情、ですか?」
菊守の目が興味の色に染まっている。
「酉貴兄には心に決めた一人の女性がいて、その方以外は目に映らないんですよ。
肝心のその相手にはあのきらきらが通用せず、全く相手にされていないのですけど」
「むしろそのきらきらが駄目なのでは?」
導仁の言葉に葵亥は大きく頷いてみせた。
「おそらく。いや絶対そうです。
もっと地に這いつくばって泥水にまみれてツチノコでも捕まえて来なければ落とせそうな相手ではありませんから」
「それって無理な物事の例えですよね?
一体どんな女性なのですか?」
菊守が眉をへの字に曲げて哀れむような表情をしている。
「酉貴兄とは対極の存在とでも言いましょうか。
まあ、無理とは言いませんけど、かなり難しい相手ということが言いたかったのです。
そうだ。それならば、こういうのはどうです?
小舟で荒れた川を登るようなもの、とか」
「確かに難しいということは伝わりますけど、言い回しとしては全然面白くないです」
椿嬉がつまらなさそうに駄目出しをしてきた。
「そうですね、つまらないのはだめです。
葵亥殿、他にないんですか?」
導仁が悪戯体制に入っている。
「大喜利ですか?葵亥様、お願いします」
椿嬉が先ほどのつまらなそうな表情から一変して、笑顔で葵亥を見ている。
「大喜利じゃないんですけど⋯。
椿嬉殿、そんな期待を込めた目でこちらを見ても何も出てきませんよ」
しばらくの押し問答の後、葵亥たちは架橋神社の参拝へ行った。
この百日詣ももう少しで終わりとなるはずだ。
葵亥は拝殿の前で何を祈るか決めていた。
椿嬉と菊守と一緒に拝殿の前に立ったとき、葵亥は手を合わせて祈った。
『いつまでもこんな平穏な日々が続きますように』
お祈りの後、礼をして振り返り石段を降りながら、葵亥は京の都へ来たばかりの自分を思い出していた。
あの頃の葵亥が、神社でこんなに真剣に祈る今の葵亥を見たらさぞ驚くだろう。
ほんの少しの間で葵亥の中で何かが変わったようだった。




