てがみ
蕭珊雅は魔法書を手持ちのショルダーバッグにしまい込み、夜の街並みを背にして足早に去っていった。
十分後、彼女は遠山凛と二人で暮らす家の玄関前に立った。鍵カードを取り出して扉を開こうとしたそのとき、脇の郵便受けに封書が差し込まれ、一端だけが覗いているのに気づいた。
蕭珊雅はわずかに眉をひそめ、手を伸ばしてその手紙を引き抜いた。封筒には差出人の名前もなく、表には赤い文字で「蕭珊雅様へ」と記されている。
その筆跡は、羽毛ペンに墨汁を蘸めて書かれたかのようだ。裏返してみると、火漆でしっかりと封がされており、中央には羽を広げた蝙蝠の紋章が刻まれていた。
「これは私のところへ届いたものなの?」と蕭珊雅は内心首を傾げる。外国に文通相手もなければ知人もいないはずなのに、一体誰がこんな形で手紙を送ってきたというのだろう?
封をよく見ると、火漆の封印は完全に保たれており、開けられた痕跡はどこにもないようだ。
「まあ、とりあえず中に入ってから考えることにしよう」
蕭珊雅は封書を制服のポケットにしまい込み、ドアを押して屋内へと入った。玄関のセンサーライトが点灯し、室内履きに履き替えてリビングへと進んだ。
自分の部屋に戻り、机に向かうと、ポケットから先ほどの封書を取り出した。デスクライトの光を頼りに再び封筒の文字をじっくりと眺める。赤いインクの筆致は流麗で力強く、差出人は英国出身、あるいは高い教養を持つ人物に違いない。
引き出しの中から封切刀を取り出し、火漆の縁にそっと刃を入れて切り開く。封の中には二つ折りの羊皮紙が一枚だけ。厚手の紙質で、ふちがうっすら黄ばんでおり、かなり古いものらしい。
羊皮紙を広げると、そこに記された文字は封筒の表書きと瓜二つだった。そこにはこう書いてある。
「親愛なる蕭珊雅様へ:
慎重に行動しなければ、いつ命の危険にさらされることになるかもしれません。」
差出人の署名はなく、右下隅には火漆と同じ蝙蝠の絵が描かれているだけだ。これは警告の手紙であり、注意しないと身の危険があるという内容だ。しかし、差出人は彼女の現在の住所も名前も知っており、しかもこんな秘密めいた方法で郵便受けに投函できるのだから、ただの人ではないに違いない。
「もしかして、春谷時雨……!」と蕭珊雅は思ったが、すぐに首を振ってその考えを打ち消した。以前、商業街で確かに春谷時雨の姿を見かけたが、彼女に気づかれることはなかったし、その後は「月野兎美」として身分を偽り、今のところ誰にも正体がバレていない。
それに、春谷時雨のやり方なら、こちらに警告するつもりなら直接やってくるはずだ。こんなややこしいまどろっこしいやり方はしないはずだ。
「それとも、さっき遭遇したあの生物に気をつけろと忠告しているのかしら?」と考え直すと、こちらの可能性のほうがより高そうだ。あの生物は明らかに普通の存在ではなく、凡人では太刀打ちできない類のものだ。もし差出人が身元を明かさずにこうして古風で含みのある表現で注意を促したいのなら、このやり方も納得がいく。
そう考えた彼女は、これ以上深くは追及せず、羊皮紙を丁寧に折りたたんで封筒に戻し、机の右側の引き出しにしまった。
引き出しを閉じて立ち上がり、キッチンへ向かう。豚骨ラーメンでも作って食べようと思ったのだ。
冷蔵室からラーメンの素包みを取り出す。スープの素、チャーシュー、メンマ、ネギが入った、先週スーパーで買い置きしておいた品だ。鍋にお湯を沸かし、ラーメンを投入。茹でている間に、さらに卵を一つ取り出して一緒に煮込む。
麺が茹であがると、スープの素を器に移し、熱湯で溶かしてから麺を加え、チャーシューとメンマ、ネギをトッピング。最後に半熟卵を真っ二つに割れば、豚骨ラーメンの完成だ。
即席の素包みとはいえ、彼女なりに盛り付けると、なかなかそれっぽく仕上がった。器を持って食卓へ戻り、箸で麺を摘んで口へ運ぶ。そして勢いよく「ズズッ」と音を立てて、スープごと喉へと流し込む。
だが、何度試してもあの爽快な音は出ず、吸い上げるたびに飛び散るスープがテーブルにぽつぽつと飛沫を残していく。
「やっぱり、もう少し練習が必要ね」と自嘲気味に笑い、ティッシュで飛び散った汁を拭い取った。
日本に初めて来たとき、「一蘭」というラーメン店で昼食をとったことがある。隣の日本人のおじさんが啜る音が店内に響き渡り、そのときはその意味がわからなかった。自分のラーメンが運ばれてきたときも、上品に箸でつまんで少しずつ口に運んだのだが、店長がわざわざ寄ってきて「味が合わないのですか?」と尋ねてきた。
後にわかったことだが、日本ではラーメンを食べるときに「ズズズッ」と音を立てるのは、職人の技への賛辞であり、おいしさを表現するひとつの方法なのだ。一方、中国では食事中に音を立てるのは慎むべきだと教えられてきた。淑女としての基本的な礼儀だからだ。こうした文化の違いに慣れるには、まだ少し時間が必要かもしれない。
夕食を終えると、蕭珊雅は食器を片づけ、キッチンの台面もひと拭きした。壁掛け時計を見やると、すでに針は九時を指している。
十時に就寝するまで、あと一時間ある。せっかくなので、あの正体不明の狼型生物について調べてみようと決心した。机に戻り、ノートパソコンを開いて検索エンジンに「怪異 狼型生物 襲撃……」とキーワードを打ち込み、Enterキーを押すと、たちまち多数の検索結果が表示された。ひとつひとつ目を通していく。
だが、ほとんどは狼男映画のレビューだったり、探検家がオオカミに襲われるニュース、あるいは根拠の薄い都市伝説ばかりで、描写されている生物も彼女が見たものとはまるで違う。
「やはりインターネットでは、何の情報も見つからないわね」と彼女はため息をつき、ポケットから取り出した毛束をデスクライトの光のもとに載せてじっくりと観察した。ライトの下で、その毛は不気味な黒色をしており、触れてみると、通常の動物の毛とは異なる硬さと粘りを感じる。
「やはりこの毛から手がかりを得るしかないけれど……もしこの生物が本当に地球上に存在しない種だとしたら、いったい何から始めればいいの?」
蕭珊雅はしばらく答えが出ず、毛束をハンカチで丁寧に包み直してバッグにしまい、ノートパソコンを閉じた。
時刻は九時三十分。彼女は立ち上がって浴室へ行き、入浴を済ませるとパジャマに着替え、ベッドへと向かった。
ベッドに横たわり、次第に眠りへと沈みかけていたそのとき、意識が闇へと落ちようとする寸前に、鼻がむず痒くなったことに気づいた。
蕭珊雅は思わずくしゃみをし、鼻先にとまっていた一匹の蛍がその衝撃でふわりと舞い上がった。目を開けてみると、そこは寝室のベッドではなかった。辺りは見知らぬ森で、数匹の蛍が周囲を淡い光を放ちながらゆっくりと舞っている。
蕭珊雅は辺りを見回し、方向を確かめようとしたが、視界のすべてが木々ばかりで、他に何も見当たらない。
「ここはどこなの?」と蕭珊雅は困惑した。
就寝前には確かにマンションの自室にいて、窓もしっかり閉めていたはずだ。なのにどうして突然、こんな見知らぬ森にいるのだろう?
「夢遊病……?」と彼女は思った。
そのとき、風が吹き抜け、蕭珊雅は思わず身震いした。空気に混じって、獣特有の生臭さと、鼻を突く血の匂いが漂っている。
「この匂い!」と彼女は瞬間的に警戒した。さっき路地の入り口で嗅いだのと同じ臭いだ。
「もしかして、あの狼型生物が近くにいるのでは……?」と蕭珊雅は直感した。
もう一度鼻を近づけて嗅ぎ直すと、あの生臭さは前方から漂ってくるようだ。視線を上げて見ると、目の前には鬱蒼とした密林が広がり、月明かりは高い樹冠に遮られてまったく届かず、周囲を照らしているのは蛍たちの淡い光だけだ。
蕭珊雅は思い切って数歩前進してみたが、風が木々をざわめかせ、遠くから低く唸るような狼の遠吠えが聞こえてきた。
慌てて引き返し、一本の木の陰に身を隠す蕭珊雅。だが、ここでじっとしていても埒があかない。かといって、進むにしても携帯電話もないから照明もない。
「いったいどうすればいいの?」と彼女は焦った。
そのとき、周囲の蛍たちが何かを察したのか、彼女の前方へと集まり始め、大きな光の輪を作りながら、密林の奥へとゆっくりと進み始めた。
「私を導いてくれているの?」と蕭珊雅は思った。
だが、彼女が迷っているあいだにも、蛍たちはどんどん遠ざかっていく。
「待って!待ってよ!」と叫び、蕭珊雅は急いで彼らの後を追った。




