狼影
原田曈と校内で別れた後、蕭珊雅は一人で家へ向かって急いでいた。空はすっかり暗くなり、街路樹のそばに並ぶ街灯がひとつ、またひとつと点り始める。
彼女はスマホを取り出して時刻を確認すると、もう夜の七時近くになっていた。どこか胸騒ぎを覚えながら、足早に路地へと入り込む。この路地を抜けてしまえば、自宅へ通じる大通りへもっと早くたどり着けるのだ。
路地の両側にある家々はどれも明かりを消しており、ほのかに明滅する数本の街灯だけが、今にも消えてしまいそうな淡い光で足元を照らしていた。
その光景に、蕭珊雅は思わずリュックの肩紐をきつく握りしめ、胸の中がざわついた。彼女はスマホの懐中電灯機能を起動し、手に掲げて路地を急ぎ足で抜けていく。
やがて路地の出口が見えてきたとき、突然、強烈な悪臭が鼻腔を突いた。血の生ぐさい匂いと、死体が腐敗して放つひどい臭気――その二つが混じり合った、耐えがたい刺激だ。
あまりの悪臭に喉がむず痒くなり、蕭珊雅は思わずせき込んだ。
「コホン……」彼女はとっさに立ち止まり、反射的に口と鼻を覆う。
喘息発作を防ぐため、ポケットから吸入器を取り出し、口に二度噴霧した。
「どうしたの? この臭い、どこから来るの?」彼女は小さく呟き、警戒しながら周囲を見渡した。
隣の家の玄関は半開きになっており、蕭珊雅はスマホの懐中電灯を点けたまま、慎重にその扉へ近づいた。手を伸ばしてそっと押すと、ギーッと音を立てて扉はゆっくりと開いた。
懐中電灯の光が室内へ差し込むと、床には衣類がいくつか散らばり、そのそばには薄暗い赤黒い液体の痕がぼんやりと浮かび上がった。
「これは……血なの?」蕭珊雅は身をかがめて、その液体に指先をそっと触れてみる。粘り気のある感触が伝わり、鼻を近づけると、血の生ぐさい匂いが一気にこみ上げてきた。
「やっぱり血だ!」蕭珊雅は勢いよく身を起こし、数歩後退すると同時に、視線を鋭く四方へ走らせる。
室内には血痕が続いており、それが地面を這うように奥の廊下へと伸びているのがわかった。
「殺人事件なの? 警察に通報したほうがいいのかな……」蕭珊雅はスマホの画面をダイヤル画面に切り替え、通話ボタンに指をかけた。
だが、ふと彼女は思い直す。「もし、これが前回、秋葉原の商店街で島田刑事や服部刑事が『突然死事件』だと片づけていた犯人なら、警察が来ても何も変わらないかもしれない」
あのとき、蕭珊雅は犠牲者が吸い尽くされたような惨状を目撃したが、島田刑事も服部刑事も、それはただの普通の突然死だと述べ、捜査すらしなかったのだ。
蕭珊雅の指はダイヤルキーの上で宙に浮いたまま、しばらく迷った末、まずは自分だけで様子を見てみることにした。彼女はリュックの中から魔法の書を取り出し、今まさに眠っているところだった。
「起きて」蕭珊雅は魔法の書の表紙を軽く叩くと、表紙に描かれた目がゆっくりと開き、空中に浮かび上がった。
「休んでるところ悪いけど、この部屋、なんか変なんだよね」
魔法の書の目は瞬き、暗闇に慣れるように光を調整すると、蕭珊雅の周りをくるりと一回転して室内をひと通り観察し、すぐに床の血痕を見つけた。
「これから中に入って調べてくるから、周りの様子をよーく見ててね」
魔法の書は上下に揺れて頷くと、蕭珊雅の横に浮かび、足音が立たないよう彼女の身体まで宙に浮かせてくれた。
蕭珊雅は血痕の跡をたどり、静かに廊下の奥へと進んでいく。血痕は廊下の中ほどで急に曲がり、二階へ続く階段へと続いている。
彼女は階段の先を見上げたが、そこはさらに深い闇の中に溶け込み、懐中電灯の光ですら、目の前の数段の階段しか照らしきれない。玄関で嗅いだ血の生ぐささと腐敗臭は、今では一段と濃厚になっていた。
蕭珊雅はバッグから香水の小瓶を取り出し、ハンカチにシュッとひと吹きして口と鼻を覆う。香水の香りが吐き気を催すような悪臭を一時的に打ち消し、喉の不快感もずいぶん和らいだ。準備を整えると、彼女は二階へと進んだ。
二階へ上がると、血痕はさらに濃密になり、まるで誰かが重い物体を引きずって進んだかのようだ。蕭珊雅の耳元で、荒々しい呼吸音が聞こえてきた。その音の質は、とても人間が出せるものではない。低く、激しく、野獣のような荒々しさを帯びた息遣いだ。
彼女は即座に足を止め、息を殺して耳を澄ませ、音の正体を探った。その音は断続的で、廊下の奥の、半開きのドアの向こうから響いてくる。
蕭珊雅は壁際に寄り、身体をぴったりと張り付けて、そっとそのドアへと近づいていく。魔法の書は彼女のそばで浮かび、絶え間なく周囲を見回し、微かな気配さえも読み取ろうとしている。
ほどなくして彼女は半開きのドアの脇へ到着。中からは低い唸り声が聞こえ、何かが獲物を食いちぎっているかのようだ。
「犯人は人間じゃない生物みたいね」蕭珊雅は傍らの魔法の書に視線を向けた。すると、魔法の書は二度瞬いて、彼女の判断に同意した。
犯人の正体を確かめた蕭珊雅は、スマホを制服の胸ポケットにしまい、片方の手に氷の弾を凝縮させると、もう一方の手で半開きのドアを押し開けた。
扉を開けた瞬間、室内の光景に背筋が凍った。
部屋の中央には巨大な狼のような生物がうずくまっていた。その体躯は成人男性の半分ほどもあり、全身はべっとりとした血に濡れた毛皮に覆われている。地面に身を伏せ、鋭い牙を並べた口を、すでに息絶えた女性の青白い首筋へ食い込ませていた。彼女はすでに息絶え、大きく見開いた瞳は焦点を失い、顔には死の直前の恐怖と絶望が残されていた。
異形の狼型生物は扉が開く音に気づき、猛然と頭を上げ、戸口に立つ蕭珊雅を捉えた。しかし、蕭珊雅のスマホが放つ強い光に目を灼かれ、低くうなりながら前脚で目を覆い、身体を少し後ろへ引いた。光に極端に敏感な様子だ。
蕭珊雅はその隙を逃さず、手にした氷の弾を躊躇なく放った。だが、狼型生物は瞬時に黒い霧へと姿を変え、弾は霧を貫いて壁に当たった。霧はたちまち女性の遺体を包み込み、部屋の反対側で再び実体化した。
攻撃を霧に変えられるとは、ただの魔物ではないに違いない。
蕭珊雅はもう一度氷の弾を凝縮し、追撃を試みたが、狼型生物はこれ以上戦おうとはせず、女性の遺体を咥えて窓を突き破り、夜の闇へと飛び去ってしまった。
蕭珊雅は急いで窓辺へ駆けつけたが、すでに狼型生物の姿はどこにも見当たらず、夜風に血の匂いだけがわずかに残っていた。
「あれは一体、何だったんだろう……」
蕭珊雅は部屋へ戻り、魔法の書が室内の一角で宙に浮かび、目を床の隅に据えているのを見た。そこには小さな赤黒い血痕が残り、その中心には氷がまとわりついた黒い毛が幾本か確認できた。どうやら、先ほどの氷の弾が当たったときに剥がれ落ちたもののようだ。
蕭珊雅はしゃがみ込み、慎重にその黒い毛を一枚ずつ拾い上げ、掌に乗せてじっくりと観察した。毛はごわごわとしていて、鼻を刺すような生ぐさい臭いが漂っていた。
この毛の持ち主こそが、先ほどの狼型生物に違いない。だが、それがいったいどんな種類の生き物なのか、蕭珊雅にはまだ見当もつかない。彼女はその毛を丁寧にハンカチに包み、ポケットへとしまって、後で詳しく分析することにした。そして立ち上がり、窓の外をもう一度確かめ、周囲に誰もいないことを確認すると、浮遊の魔法で身体を操って窓から軽やかに外へと飛び出し、屋外のアスファルトの上へと降り立った。
「まあ、明日にはあの女性、警察で行方不明者扱いになるんだろうな」と蕭珊雅は振り返り、小さく呟いた。
こうした事件は警察の記録に「失踪」という番号が付けられるだけで、捜査の糸口すら見つからない。今となっては、あの犯人をなんとかするには、自分自身に頼るしかないのだろう。




