生死
「仮作真時真亦仮、無為有処有還無。」原田曈は本に掲げられたこの漢字の対聯をじっと見つめ、そっと口にした。
「これは、賈宝玉が太虚幻境を夢でさまよったとき、入口に掛けられていた対聯です」と蕭珊雅が言った。
「太虚幻境? それって、どんな場所なの?」と原田曈は興味津々で尋ねた。
「『紅楼夢』の中に登場する、架空の場所よ」と蕭珊雅は説明した。「太虚幻境は女性だけの世界で、清浄なる女兒の境と呼ばれているわ。中には『痴情司』『結怨司』『朝啼司』『夜怨司』といった各司が設けられていて、それらを掌管するのが警幻仙姑。そして各司には、天下の女子たちの運命が記された簿冊が保管されているの」
「その金陵十二釵って、また何なの?」
「金陵十二釵とは、『紅楼夢』の中で賈宝玉のそばにいる最も優れた十二人の女性たちのこと。彼女たちはもともと太虚幻境からやってきた仙女で、まだ果たしきれない縁のために人間界へ降り立ち、やがて情の劫が満ちると再び太虚幻境へ戻っていくの。彼女たちの最後は、すでに太虚幻境の簿冊に書き記されているのよ」
「つまり、彼女たちの運命は最初から決まっていたってこと?」
「ええ、それこそが太虚幻境の対聯にある『仮作真時真亦仮』という言葉に重なるわ。彼女たちが人間界で経験するすべての悲喜哀歓は、実は太虚幻境でとっくに書き上げられたひとつの幻の夢にすぎないの。ただ、人間界にいる彼女たち自身は、自分が夢の中を生きているなんて気づいていないけれどね」
「そういえば、アメリカの映画『トゥルーマン・ショー』を思い出しちゃうな」と原田曈は考え込むように言った。「トゥルーマンは生まれたときから巨大なスタジオの中に生きていて、周りのすべてがリアリティ番組のディレクターによって仕組まれたシナリオなのに、本人はそれがすべて本当だと思い込んでいる。しかも皮肉なのは、彼の名前‘Truman’は“真実の人”って意味なのに、彼が暮らしているのは偽りの世界だってことだよね」
蕭珊雅はうなずき、さらに付け加えた。「トゥルーマンの物語も、金陵十二釵の話も、結局は同じことを言っているのよ。虚しい“仮”のものが世間では“真”だと信じられるようになると、本来の“真”はその存在基盤を失い、いつの間にか“仮”の中に溶け込んでしまう。真と偽は、ときに白黒はっきりした対立ではなく、互いに依存し、相互に変化しあう関係として現れることがあるの」
「真と偽が互いに依存し、変化しあう……?」と原田曈は顎に手を当てて首を傾げた。「なんだかちょっと難しそうだね」
蕭珊雅は彼女の戸惑いぶりを見て、テーブルの上の『西遊記』を取り上げ、第五十六回を開いた。「この回から五十八回まで、“真假美猴王”の話が続くんだけど、覚えてる?」
「もちろん覚えてる。あの回は、唐僧が孫悟空が盗賊を殺したことで緊箍咒を唱えて追い出し、その隙に六耳猕猴が孫悟空になりすまして唐僧を傷つけ、行李を奪って自分だけ西天へ取経に行こうとするの。そこに孫悟空が駆けつけて争うんだけど、六耳猕猴は孫悟空と姿も法力も似通っていて、観音菩薩や托塔李天王の照妖鏡でも見分けがつかない。最後は二人で西天まで行って、如来仏祖に二心相争いだと見破られ、六耳猕猴は蜂になって逃げようとしたところを仏祖の鉢で封じ込められ、孫悟空は金箍棒で二心を滅するの」
「その通り。書によれば、六耳猕猴は孫悟空に引けを取らないほどの実力を持ち、聴音にも長け、理を察する能力も備えていて、孫悟空のこれまでのあらゆる経緯を知り尽くしていた。孫悟空がどれほど自分こそが本物だと訴えても、実は彼自身の“真”は、いつの間にか六耳猕猴という“偽”の鏡像によって大きく揺さぶられてしまっていたの。偽のものが真のすべての属性を備えるとき、真と偽の境界はついに崩れ去る」
「じゃあ、真假美猴王の話も、結局は、偽のものが本物と見紛うほどの力を得たとき、真と偽は単純な対立ではなく、互いに絡み合い、浸透しあう状態へと変わるってことなんだね」
「そのとおり」と蕭珊雅はページを閉じた。「偽りが十分にリアルで、むしろ真実よりも人々の認識に合致してしまうと、真と偽の境界はますます曖昧になってしまうの」
原田曈は納得して、続いて太虚幻境の対聯の下句、「無為有処有還無」を指さした。「ということは、この文は、“無”が“有”として扱われるとき、“有”は本来の意味を失い、結局“無”になってしまうってことかな?」
「まさにそのとおり」と蕭珊雅はうなずいた。
「じゃあ、この“有”と“無”も、“真”と“偽”と同じように、互いに依存し、変化しあう関係にあるってこと?」
蕭珊雅は彼女の素朴な問いに答えようとせず、代わりにさらに深い質問を投げかけた。
「ねぇ、人間にとって、最初の“有”って何だと思う? そして最後の“無”は何だろう?」
原田曈は少し考えて答えた。「最初の“有”っていうのは、やっぱり生命そのものかな。誰でも母親の胎内から生まれ出たとき、社会的地位も財産もない、何も持っていない。ただひとつあるのは、生きてるってことだけ。そして最後の“無”は、死のことだと思う。人が亡くなると、肉体は朽ち、意識も消えて、もう何も残らない。まるでこの世に存在したことさえなかったかのように、すべてが虚無に戻ってしまう」
「とてもよく言い表せてるわ」と蕭珊雅は感心した。
「でも、私としては、生と死の境界って、さっきの真と偽の境界よりずっと明確じゃないかな。生は生、死は死、それは自然の摂理で、人の思いなどでは変えられないはずだよ」
「生と死の境界は、日常的な認識では確かにそうね」と蕭珊雅は言った。「でも、『シュレーディンガーの猫』って、とても有名な実験があるのを覚えてる?」
「シュレーディンガーの猫?」と原田曈は一瞬戸惑ったが、すぐに思い当たった。「量子力学の思考実験のことね。高校の物理の授業で先生が教えてくれたけど、密閉された箱の中に猫と致死量の毒薬、それに放射性原子を一緒に入れておくの。もし原子が壊変したら、装置が作動して毒瓶が割れて猫は死ぬ。壊変しなければ、猫は生きてる」
「そのとおり」と蕭珊雅は続けた。「この理論でいちばん重要なのは、原子が壊変するかどうかは、純粋な量子確率の出来事だということ。箱を開ける前は、この猫は生死が重なり合った状態、つまり同時に死んでいても生きていてもいるんだ」
「でも、実験の後半では、箱を開けて観測行為が行われると、その重ね合わせの可能性は一気に崩れて、生きているか死んでいるか、どちらか一方の確定した結果に強制的に固定されてしまうはずだよ」と原田曈は反論した。
「でも、もしかすると、私たちの目に触れることなく、ずっとあの“箱”の中に留まり続け、生死の重ね合わせのままの人がいるのかもしれない。畢竟、人間の世界に対する認識は、どこまでも限られているのだから」
原田曈はしばらく沈黙したあと、ぽつりと言った。「確かに、宇宙から見れば、人間の存在なんて本当にちっぽけなものだよね。私たちが掌握しているつもりの科学の法則も、宇宙の摂理の中ではごく一部にすぎないのかもしれない」
「ロバート・W・チェイスのクトゥルフ神話みたいに、宇宙の前では人間なんて蟻のような存在で、背後に私たちの理解を超えた、未知の何かが広がっていて、それがこの世界の真実なのかもしれない。そんなものの前では、生と死のあり方も、いとも簡単にひっくり返ってしまうのかもね」
「それでも、私たちの生活の中に、本当に生死が重なったような人がいるのかな? もしそんな人がいたら、ぜひ会ってみたいけど」
「いないわけじゃないかもしれない。ただ、まだ見つかっていないだけかもしれないわ」
二人が深い議論にふけっていると、自習室の放送から突然「ザー」というノイズが響き、その後、管理人の穏やかなアナウンスが流れた。
「学生の皆様にお知らせします。本日の閉館時間が迫っております。お持ちの私物を速やかに整理のうえ、順序よく自習室を退出してください。ご協力ありがとうございます」
蕭珊雅は慌てて窓の外を見やった。空はすっかり夕暮れに近づき、あたりはもうすぐ完全に暗くなりそうだ。周囲で自習していた学生たちも、次々とカバンをまとめ、椅子を引いて、整然と自習室を出ていく。
「まあ、もうこんな時間だなんて」と原田曈は驚いた。「ごめんね、蕭珊雅さん。こんなに時間を取らせて、時がこんなに早く過ぎていくのも気づかなかったわ」
蕭珊雅は机の上の本を片付けながら言った。「大丈夫よ。私も話に夢中になって、時間を忘れてたわ」
二人はカバンを抱え、自習室を一緒に出た。廊下の照明はほとんど消え、わずかに非常灯が緑色の淡い光を放っているだけだ。二人は急いで玄関へ向かい、ガラスのドアを押して外に出た。外はもうすぐ完全に暗くなりそうな気配で、太陽は地平線に沈みかけている。
「あの、蕭珊雅さん、よかったら送っていくよ。もう暗くなるし、夜道を一人で歩くのは危ないでしょう?」と原田曈は申し出た。「茉莉に車を呼んでもらって、前みたいにあなたの家まで送るから」
蕭珊雅は手を振って断った。「お気遣いありがとう。家は学校から遠くないし、まだ暗くなるまで少し時間があるから、歩いて帰るくらい全然余裕よ」
原田曈は彼女の意思を尊重し、これ以上引き止めることは控えた。
「じゃあ、気をつけてね」と原田曈は念を押し、そのまま正門へと足を向けた。
「うん、あなたも気をつけて」と蕭珊雅は声をかけてから、裏門の方へと歩き出した。




