借阅
残りの五分間、誰も気が緩むことなどできず、息をするのも自然と小さくなってしまった。
最前列の女子生徒たちは背筋をぴんと伸ばし、少しでも動けば山下先生の視線が自分に向けられてしまうのではないかと怯えているようだった。
「チーン……!」
ようやく終了のチャイムが鳴り響き、全員が一斉に安堵のため息をついた。
山下智子先生は手元のチョークを止めると、くるりと振り返り、半分に折れたチョークを黒板の脇にあるチョーク入れへと放り込んだ。
冷徹すぎるほど厳しい山下先生だが、ひとつだけ大きな長所がある――それは決して授業を延長しないことだ。その点だけは、生徒たちの間でも密かに高い評価を得ていた。
「では、今日はここまで。まだ終わっていないところは、次回の授業で続けましょう。」
そう言って教室を見渡すと、さらにこう付け加えた。
「次からは、授業を邪魔するような行為は一切見せないでくださいね。」
最後の一言を口にすると、彼女はさっさと教案とノートを片づけ、ハイヒールをカツンカツンと鳴らしながら、振り返ることもなく教室を出て、職員室へと向かった。
山下智子先生が遠ざかっていくのを見届けると、それまで静まり返っていた階段教室にもようやく活気が戻り、一気に囁き声やざわめきが広がった。中には大げさに伸びをして、骨がコキッと音を立てる者もいれば、次の授業の教科書を探して慌ただしくバッグを引っかき回す者、さらにはまるでマラソンを走り切ったかのように机に突っ伏し、力尽きた様子を見せる者までいる。
「ひぇー、死ぬかと思った。今、息もできないくらい緊張したよ」と、最前列の女子生徒が胸を押さえながら隣の席の友達に言った。「やっぱり、上級生の噂通り、山下先生って感情のない“鉄仮面”なんだね!」
「本当だよ!」と相方が相槌を打つ。「特に、最初に晴子のことを指名して叱ったときなんて、教室の温度が一気に数度下がった気がしたもん。気づいてた? 後から黒板に書くのも、前よりずっと勢いよく書いてて、チョークが二本もポキポキ折れてたんだから」
一方、教室の後ろから三番目の窓際の席では、山下先生に名指しされて叱られた川島晴子が、ぽつんと一人、自分の席に座っていた。
彼女は俯き加減で、前髪が目元を隠し、両手で机の上の教科書や文房具を淡々と整えている。肩はわずかに震えていた。
そんな悔しそうな晴子の姿を見た数人の心優しい女子生徒たちが、すぐに彼女の周りに集まってきて、気遣いの声をかけた。
「晴子、大丈夫? あんまり気にしないで、さっきの山下先生、確かに怖かったけどね」
「私……大丈夫」晴子は鼻をすすりながら、かろうじで声を絞り出した。
「本当に大丈夫だって!」短髪の女の子が晴子の肩をポンと叩いて慰めた。「山下先生って、そういう性格なの。今のところ成績はちょっと引かれちゃったけど、これからある小テストをしっかり頑張れば、期末で挽回できるはずだよ。落ち込まないで」
メガネをかけた別の子も同調するように言った。
「そうそう、もし今のが緊張しすぎて話が聞き取れなかったなら、私のノート貸してあげるよ」
そう言うと、彼女は自分のノートをササッとバッグから取り出し、晴子の前に差し出した。
みんなの温かい励ましに、晴子の気持ちも少しだけ和らいだ。
「ありがとう、本当にありがとう!」彼女はノートを受け取り、心から感謝の言葉を口にした。
「いいってことよ、クラスメイトなんだから。使ったら返してくれればそれで十分だよ」と、メガネの子は軽く手を振った。
「ところで、川島さん」と、重たい雰囲気を変えたいのか、彼女は晴子に尋ねた。
「さっきの授業中、あなたの携帯の着信音、聞いたんだけど、立花歩美の新曲だったよね? あなたも立花歩美好きなの?」
「立花歩美」という名前を耳にした途端、晴子の瞳がぱっと輝いた。まさにアイドルの話をされたファン特有のあの光だ。
「そうなの! 大好きなの!」晴子の口調は一瞬で明るくなり、先ほどの暗い影も跡形もなく消えて、アイドルのエピソードを滔々と語り始めた。
「知ってる? 立花歩美って、高校生のころからすごく自立してて、自分で曲を作ったりしてたんだって。まだ無名の頃は、ギターを背負って毎日ラゾーナ川崎プラザの街角でオリジナル曲を歌ってたんだよ」
「えっ、すごいね。路上で歌うなんて、相当勇気がいるのに」
「そうなの! それで、独特の歌声と粘り強さが偶然通りがかったスカウトの目に留まって、そのまま契約してデビューしちゃったんだって。しかも、所属したのは日本で一番大きな芸能事務所よ! 自分の才能と会社の強力なサポートのおかげで、たった二年で、多くの歌手が憧れる紅白歌合戦の舞台に立っちゃったの」
「それって、まさに稀代の天才じゃない!」と、周囲の女子生徒たちが感嘆の声を上げた。
「そうなの!」と晴子は尊敬の眼差しで言った。「私も中学二年生のとき、自分のギター弾き語りの動画をYouTubeにアップしてみたことがあるんだけど、反応はぜんぜんパッとしなくて、その後は勉強が忙しくなってチャンネルも放置しちゃって、せっかく集まった数十人のフォロワーもみんな離れていっちゃったの。立花歩美の成功を見て、音楽の夢を諦めずに頑張ってきた自分の姿が重なって見えたんだよね」
「でも、彼女って以前、体調不良でしばらく休んでたみたいだけど」
「そうなの」と晴子はうなずいた。「公式発表では、ライブの疲れがたまって喉を痛めてしまったから、すべての公演を中断して療養に入ったって。私は心配で心配で、何かあったらどうしようって思ったけど、事務所が最高レベルの医療チームをずっと付けて治療してくれて、結局二か月で復帰しちゃったの」
「なんて芯の強い、プロ意識の高いアイドルなんだろう!」と、そばにいた子たちが感嘆の声を上げた。
「そうそう、私もそのニュース見たよ!」と、ポニーテールの子が興奮気味に話し始めた。「もうすぐ、立花歩美は新しい試みとしてVtuberの初配信もするらしいよ! 配信では、リリースしたばかりの新曲『紙鶴の折り目』をまったく新しいスタイルで歌うんだって」
「わあ、きっとすごくインパクトあるよね」
その話を聞いて、何人もの女子生徒たちがスマホのXを開き、立花歩美的なライブ情報を探し始めた。
「それだけじゃないの!」と晴子はさらにネタを披露した。「公式の予告を見たら、六月に開催されるデビュー二周年記念コンサートでは、会社が最先端のホログラフィック技術を使って、リアルな立花歩美と、彼女の声をもとに作られたバーチャルシンガーが一緒に歌うんだって! バーチャルとリアルが融合したステージをやるんだよ」
「リアルとバーチャルシンガーが共演? それって、夢みたいじゃない!」
「そうなの! この企画、めちゃくちゃ素敵! 私、すでにコンサートの抽選申し込みも済ませてあるんだけど、応募者が過去最多で倍率が超激戦だって。当選できるかなぁ……」と、短髪の子が思わず手をこすり合わせた。
「私も申し込んだ! 私も! もし当選したら、一緒に見に行こうよ!」
「本当? それならぜひ! 応援グッズもちゃんと準備しておこうね」
「ちょっと待って、私も申し込む! リンク、LINEで送ってもらえる?」と、次々に声が上がる。
晴子を取り囲む女子生徒たちは、さっきまでの授業での不快感をどこかへ吹き飛ばし、アイドルのことやコンサートの話題でワイワイと盛り上がっていた。
一方、教室の真ん中あたりでは、宮野鞠子と蕭珊雅がそれぞれ静かに机の上を片づけ、文房具や教科書を整理していた。原田曈は用事があったようで、すでに先に帰ってしまっていた。
鞠子が片づけを終えると、キャンバス地のバッグを肩にかけて立ち上がり、蕭珊雅に声をかけた。
「蕭珊雅さん、私、あとから選択授業があるから、先に失礼しますね」
「はい、気をつけてね」と蕭珊雅はさらりと答えた。
鞠子は手を振って、教室の裏口へ続く階段へと歩いていった。
蕭珊雅も最後に歴史の教科書をバッグにしまい込み、ちょうど裏口へ向かおうとしたそのとき、突然スマホがブルッと震えた。ポケットから取り出して画面を見ると、図書館からの返却リマインドが表示されている。
「『花は眠らず』 川端康成著 本日期限」
借りていた本の返却時期が迫っていたのだ。さっきまで頭の中は山下智子先生の授業のことや、あの特殊な彫刻の少女のことでいっぱいだったので、うっかり忘れてしまいそうになっていたが、間に合ってよかった。
閉館まであと一時間。蕭珊雅は急いでバッグの持ち手を握り直し、図書館へと小走りで向かった。
ほどなくして、図書館の玄関に到着した。
館内は相変わらず静まり返り、聞こえるのはページをめくる音と控えめな足音だけ。夕日の余韻が巨大な窓越しに並ぶ書棚に差し込み、ほのかな書物の香りが漂っている。
蕭珊雅は慣れた足取りで貸出受付のカウンターへと進んだ。バッグから『花は眠らず』を取り出し、自分の利用証と一緒に、カウンターに座る司書に差し出した。
司書は微笑みながら本を受け取った。スキャナーを手にし、「ピッ」と本の底面のバーコードを読み取り、『花は眠らず』だと確認すると、蕭珊雅に向かって小声で言った。
「あら、川端康成さんの『花は眠らず』ですね。私もずっと借りて読んでみたかったんです。いかがでしたか?」
どうやら彼女自身もこの本に深い興味を持っているようで、蕭珊雅の読後感を尋ねているのだ。
「ええ、読み終わりました。文章がとても繊細で、独特の美しさを感じました」
「そうですね。川端さんは美に対する感覚がいつも鋭くて、私も彼の文章が大好きなんです」と司書はうなずいた。
続いて、彼女は『花は眠らず』をそっとカウンター横の「返却待ち」用の箱へとそっと置き、利用証を蕭珊雅に返した。
「はい、返却手続きは完了しました。また何か本をお借りになりたいときは、いつでもお越しくださいね」
「ありがとうございます」
二人が話し終えたそのとき、蕭珊雅は近くに見覚えのある人影を見つけた。なんと原田曈だった。彼女の手には岩波文庫版の『西遊記』が握られている。
原田曈は本と利用証を司書に差し出した。
司書は『西遊記』を丁寧に受け取り、同じくバーコードで登録を行った後、原田曈に本を返却。例によって注意を促した。
「原田さん、こちらの本の貸出期間は十四日間です。必ず期限内にご返却ください。もし読み切れなければ、オンラインで一度だけ延長申請ができますので、ご利用ください」
原田曈は両手で本を受け取り、しっかりと頷いた。
「わかりました。ありがとうございます」
「どうして彼女はこの本を借りたんだろう?」と、原田曈の行動に蕭珊雅は興味を抱いた。
貸出・返却の手続きを終えた原田曈は、さっそち帰りかけたが、そばでじっと見守っていた蕭珊雅に気づいた。
「あら、蕭珊雅さん! ちょうどあなたを探していたところなんです!」
「私を?」
「あなた、ほかに授業とかありますか?」と原田曈が探るように尋ねた。
「ありません。今日の午後は山下先生の授業だけです」
「それは良かった!」と原田曈は目を輝かせて身を乗り出した。「じゃあ、先週の金曜日に竹内先生が文学鑑賞の授業で出した課題、覚えてますか? どうするか、もう考えましたか?」
「課題?」と蕭珊雅はきょとんとした表情で原田曈を見つめ、同時に頭の中で竹内先生の授業内容を必死に思い出していた。
「あら、やっぱり忘れてたんですね!」と原田曈はため息をつき、改めて説明した。
「世界文学史に関するあの課題ですよ。前回、竹内先生が中国文学の発展史を教えてくれて、授業の終わりに『各自、好きな中国の作家の詩や小説を選んで、来週の授業で三分間、クラスのみんなに口頭で紹介してほしい』って言ってたんです」
原田曈にそう言われて、ようやく蕭珊雅の記憶もぼんやりと蘇ってきた。考えてみると、確かに黒板にその課題が書かれていた。
ただ、中国からの留学生である蕭珊雅は、幼い頃から四書五経はもちろん、古今の詩歌や古典名著を読み漁ってきたため、中国文学はまさに骨の髄まで染みわたった存在だ。だから特別な準備も必要ないと感じ、あまり深くは気に留めていなかったのだ。
「ああ、確かそんな課題があったような……忘れてたかも」と蕭珊雅は少し照れくさそうに言った。
「それにしても、蕭珊雅さんは中国から来た方だし、中国文学なんて朝飯前でしょう?」と原田曈は笑った。
「まあ、多少本をたくさん読んできたというだけで、竹内先生の課題くらいなら問題なくこなせると思います」
「それなら話は早いですね」と、原田曈は『西遊記』を腕に抱えながら、そばに立つ蕭珊雅に提案した。
「ちょうどこの本についていくつか聞きたいことがあるんですが、一緒に地下の自習室へ行きませんか? そこで少し話し合ってみましょう」
蕭珊雅は図書館の壁にかかっている時計を見やった。閉館まであと五十分钟。簡単な話し合い程度なら、まだ十分間に合う。
「では」と蕭珊雅は短く返した。
「それなら、さっそく行きましょう」と原田曈は言った。




