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虚界少女  作者: sara
迷雾
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急雨

青木紗綾は、午前の定例病棟回診を終え、看護ステーションへ戻ってきた。彼女はステーションのドアをそっと押し開け、パソコンの前に座ると、両手をキーボードの上に滑らせるようにして、手持ちのメモに記した患者の体調や観察結果を、ひとつずつ病院の電子カルテシステムへと入力していく。


「遠山凛、女性、19歳。


現時点では創部の治癒状況は良好で、赤みや腫れ、滲出液、化膿などの異常は認められず、縫合糸周囲の皮膚もなだらかで、疼痛もかなり軽減しています。精神状態も安定し、食事や睡眠の質も正常です。


ただ、現在の治癒経過は順調とはいえ、胸部の切り傷には潜在的な感染リスクやその他の合併症の可能性が残っているため、患者の安全を確保するためには、引き続き一定期間の入院観察が必要です。医師による全身状態と創部治癒状況の総合評価を経て、退院可否を判断することになります。


今後の経過観察においては、生命兆候や創部の治癒状況、全身状態を継続的にモニタリングし、異常が見られた場合には速やかに対処いたします。」


遠山凛の記録を打ち終えると、午前の回診業務もようやく一段落。青木紗綾はパソコンの前から立ち上がり、伸びをするように身体をほぐした。


「やっと終わった……!」彼女は大きく息を吐き、全身がすっきりとした気分になるのを感じた。


「紗綾、戻ってきたのね!」薬棚の向こう側から緒方花音の声が聞こえ、その声とともに、笑みを浮かべた顔がひょっこりと現れた。手にはまだ封も切れていないいちごヨーグルトのパックが握られていて、紗綾に向かって差し出される。「ほら、わざととっておいたのよ。今日は回診で走り回って、きっと疲れたでしょう?」


「ありがとう、花音。」紗綾はにっこりと笑いながらヨーグルトを受け取った。


「もうすぐ昼休みだし、一緒に屋上で食べない? あそこなら日当たりもいいし、眺めも広がってるわよ」と花音は言いながら、手元の薬品リストを片付ける手つきをさらに早めた。「それに午後は小児病棟の定期検査もあるしね。あの子たち、もう待ちきれないはずよ!」


「どうせ、あの子たちと遊びたいだけなんでしょ? 毎回検査のときだって、あんなに楽しそうにしてるんだから」と紗綾がクスッと笑って茶化すと、花音はぷんとむくれた。


そんな花音の様子に、青木紗綾は思わずくすりと笑ってしまう。


「まあまあ、わかってるわよ。うちの花音ナースは、誰より真面目で責任感があるんだから」と紗綾は笑いながら、自分の浅いブルーの弁当箱を休憩スペースのテーブルに置いた。


蓋を開けると、中には今朝自分で丁寧に焼いた黄金色のふわとろ玉子焼きが整然と並び、その横にはシャキッとした漬物の薄切り、カリッと揚げたコロッケが二つ、そして一番下にはふっくらとした白ご飯が層を成している。


「紗綾、今日の玉子焼き、すごくきれい……」花音が身を乗り出し、一番上の卵巻きを指先でつついた。


「ちょっと、つつかないで! ほどけちゃうじゃない!」紗綾は軽く手を払ってそれを制止し、弁当箱をそっと閉じた。「あなたも早く自分の弁当、取りに行きなさいよ。遅くなったら、屋上はほかの科の看護師さんたちでいっぱいになっちゃうわよ!」


「もうとっくに持って来てるわよ!」花音はくるりと振り返り、背後の机から小さなクマのイラストが描かれたピンクの弁当箱を引っ張り出した。「今日は得意のサーモンソテーと、野菜サラダ、おにぎりを作ってきたの。一口食べてみる?」


「慌てないで、屋上に着いたら、落ち着ける場所を見つけて、食べながら話そうよ」


「わかった。じゃあ、一緒に歩こう」


二人はそれぞれの弁当を手に取り、休憩室の机を整えて、立ち上がるとすぐに出口へ向かった。


そのとき、看護ステーション脇のナースコールが突然「チン――」と鳴り響き、紗綾と花音は同時に手にしていた弁当をいったん置いた。


緒方花音の方が呼び出しボタンに近かったため、急いでそちらへ歩み寄ると、上部の小さな液晶画面にははっきりと一行の文字が表示されていた。「3号室、遠山凛より呼び出し」。


「紗綾、遠山さんはあなたの担当の患者さんよね」と花音が振り返って確認する。


「ええ、私の担当よ。遠山さんに何か必要なことがあるのか、すぐに伺ってくるわ」と紗綾は頷き、テーブルに置いてあった自分の弁当箱を花音に渡した。「花音、先に屋上に行ってて。用事が済んだらすぐ行くから」


「わかった。じゃあ、屋上で待ってるね。急いで行ってきて」


青木紗綾は廊下を足早に進み、3号室の扉の前に立った。


彼女は静かにドアを開け、「遠山さん、青木です。何かお困りですか?」と優しく声をかけた。


「青木さん、ちょっと相談したいことがあるんです」


「どのようなことでしょうか?」紗綾はベッドサイドへ歩み寄り、身をかがめて尋ねた。


「今日の午後に退院の手続きをしたいのですが……」遠山凛は青木紗綾を見つめ、切実な眼差しを向けた。


「退院ですか? でも、先生のお話では、傷はすでに治っていますが、まだ経過観察が必要ですし、激しい運動をするとまた傷が裂けてしまう可能性があります……」


「先生のご指示は承知しています」と遠山凛は紗綾の言葉を遮った。「でも、どうしても外へ出なければならない緊急の用事がありまして……」


「遠山さんのお気持ちはよくわかります。ただ、当院の規定では、退院には主治医の許可が必要なのです」と紗綾は丁寧に説明した。


「お願いです、青木さん。先生に私の方からもお願いしていただけませんか? 本当にやむを得ない事情があるんです」


青木紗綾は遠山凛の焦るような瞳を見つめ、しばし考えた末に言った。「わかりました、遠山さん。主治医にあなたの意向をすぐに伝えます。ただ、最終的な退院の可否は、やはり先生が患者さんの状態を踏まえて判断されます。まずはお急ぎにならず、先生が診察に来てくださるまでお待ちくださいね」


「ありがとうございます。青木さん、大変お世話になります」


「どういたしまして、遠山さん。私の務めですから」と紗綾は穏やかに答え、「ほかに何かお手伝いできることはございませんか? どうぞお申し付けください」


「いいえ、今のところはこれだけで結構です。本当にありがとうございました」


「それでは失礼します」と紗綾は軽く一礼し、静かに病室のドアを閉めた。


廊下へ出ると、彼女はそのまま病院の屋上へと向かって歩き始めた。花音はすでに絶好の場所を見つけ、屋上の白いベンチに腰を下ろして、静かに佇んでいた。


紗綾が少し遅れてそばへ歩み寄り、申し訳なさそうに言う。「花音、待たせちゃったね」


「そんなことないよ。私もついさっき来たばかりなの」と花音は顔を上げて紗綾に微笑み、手にしていた紗綾の弁当箱をそっと差し出した。


「遠山さんのほうはどうだったの?」


紗綾は弁当箱を受け取り、ため息交じりに答えた。「どうしても今日中に退院したいって言っててね。このあと医局へ行って、彼女の意思をしっかり伝えてくるつもり。うちの病院では、退院は医師が診断結果をもとに最終決定する決まりだから」


それを聞いた花音は自分の弁当箱を開け、手にしていたヨーグルトのパックを紗綾に差し出して言った。「とにかく今はお腹を満たして、午後もまた頑張ろう」


「そうだね」と紗綾も同意し、ヨーグルトの蓋をねじって開けた。


やがて紗綾と花音は隣り合ってベンチに腰を下ろし、春の風が屋上を通り抜け、淡い桜の香りを運んできた。紗綾は箸で自分の弁当の中から玉子焼きをひとつ摘み取り、花音の弁当箱へそっと入れた。


「これ、食べてみて。さっき看護ステーションで、ずっと欲しそうに見てたでしょ」と紗綾が言うと、「本当にいいの? じゃあ、遠慮なくいただくわ!」と花音は喜んで受け取った。


花音は慎重にその玉子焼きを口に運び、温かくてなめらかな食感が口の中でじんわりと溶けていくのを味わった。


「やっぱり紗綾の手作りの玉子焼きは最高だわ!」と満足げに感嘆すると、ふと興味津々の表情で、玉子焼きの中央にほんのりと差し込まれた紅い部分を指差した。「紗綾、この赤いのは何なの? 食べるとちょっと甘酸っぱいけど」


「カニカマを少し混ぜてみたの。アクセントにと思って。なかなかおいしいでしょ?」と紗綾が答えると、花音はにっこりとうなずいた。


続いて花音も自分の弁当から焼きたてのサーモンを一つ摘み取り、紗綾に差し出した。「じゃあ、お返しにこれも食べてみて。今朝、早起きして焼いてきたの。どう?」と笑いながら。


紗綾は笑顔で受け取り、ひと口かじってみる。魚肉は瑞々しくジューシーで、芳醇な風味の中に、どこか独特の甘酸っぱさが混じっていた。


「確かに美味しい。火加減も絶妙ね。でも、このほのかな味わいは何だろう?」と紗綾が首を傾げると、「レモン汁を少しだけ加えてみたの。新しい味を開拓できるか試してみたんだけど、意外といい感じになったみたい」と花音が説明して笑う。


「料理の腕、また上がってるわね」と紗綾が素直に称賛すると、二人は和やかに会話を楽しみながら、ゆっくりと弁当を味わい尽くした。ときどき顔を上げて、遠くに広がる街の景色を眺め、束の間の静けさとゆとりを堪能した。


そのとき、突然、冷たい雨粒が一滴、二人の額にポトリと落ちた。


青木紗綾は一瞬ハッとして、思わず空を見上げると、四方八方から黒い雲が押し寄せ、晴れていた空が見る間に暗くなっていくのがわかった。


次の瞬間、大雨が降り注ぎ、密集した雨音が一気に重なり合い、屋上の欄干や地面を激しく叩き始めた。


予期せぬ豪雨に、平和だった屋上はたちまち騒然となった。休憩していた人々は慌てて弁当箱をまとめ、手近な上着や荷物を掴んで階段へと駆け出す。


「どうしたの? 天気予報では、今日は雨なんて出てなかったのに……」紗綾は弁当箱の蓋を急いで閉めながら、困惑気味につぶやき、隣の花音の手首をつかんで、階段横の軒下へ避難させようとした。


ところが、花音はまるで何か見えない力に捕らわれたかのように、呆然と灰色の空を見上げたまま動きを止め、次々と頬を伝って流れる雨にも気づかず、手に抱えた弁当箱が濡れるのもまったく無視していた。


「花音! 何してるの!」紗綾が焦って花音の肩を強く叩くと、


「きゃっ! どうしてこんなに急に雨が降ってきたの!」と花音は慌てて顔の雨水を手で拭い、必死になって自分の弁当箱を守ろうとする。「やばい、やばい! サーモンが雨でぐちゃぐちゃになっちゃう!」


「今は弁当なんて気にしないで! 早く雨宿りしなきゃ!」紗綾は声を張り上げ、まだぼんやりとしている花音を階段脇の狭い軒下へぐいっと引っ張り込んだ。二人はコンクリートの壁に背を預け、荒い息を整えながら、目の前の白く煙る雨の幕を眺めた。


幸いにも、この雨は来るのが早かった分、去るのも速かった。ほんの数分で雨脚は明らかに弱まり、やがて完全に止んだ。空の黒い雲が散っていくスピードは、集まってくるときよりもずっと速かったように見える。


「短時間の強い雨だったみたいね」と紗綾は額の水滴を紙ナプキンで拭い、花音にも同じものを差し出して、彼女も頬や髪先を丁寧にぬぐった。


「さっきはどうしたの? あんなに強い雨が降ったのに、どうしてあそこでぼんやりしてたの?」


「特に何かがあったわけじゃないんだけど……」花音は拭く手を一瞬止めて、「雨が降り出した瞬間、頭の中に何かがチラッと浮かんだ気がしたの。何か思い出そうとしたみたいだけど、はっきりとはつかめなかったの」


「思い出したの? 雨に関連する記憶とか?」と紗綾が不思議そうに問いかけると、


「具体的にはわからないけど」と花音は首を振って、「でも、どうしても思い出さなきゃいけないようなことでもないと思う。ただの錯覚かもしれない」と答えた。


「そうなんだ……」紗綾は彼女が詳しく話したがらない様子を見て、それ以上追及せず、代わりに雨に濡れてかなり湿ってしまった花音の弁当に目を留めた。


数秒の沈黙のあと、紗綾は口を開いた。「この弁当、雨でずいぶん濡れちゃったね。私のほうはほとんど濡れてないから、半分分けようか」


「うん、ありがとう、紗綾」


「とりあえず看護ステーションに戻ろう。ちょうど濡れた服も着替えられるし、風邪引かないようにしたいし」


「うん、そうね」


「じゃあ、急いで戻ろう。昼休みもそろそろ終わりだし、患者さんを待たせちゃいけないもの」


そう言うと、二人は看護ステーションへ向けて足早に歩き始めた。

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