救赎
東郷天美の手術は無事に最終段階まで到達し、最後の縫合糸も天城由美の手によって見事に結ばれた。
ついに、手術は見事に成功した。東郷天美は、すでに準備万端整えられていた医療スタッフたちに導かれ、術後観察室へと運び込まれた。
一方の天城由美も、もう体からすべての力が抜けきっていた。それでも誰かの支えを拒み、自分ではないかのような重い身体を引きずりながら、朝に詩花と別れを告げたあの廃れた診療室へと戻った。
彼女は埃の積もった椅子にどっと腰を落とす。窓の外では、夕陽が診療室全体を鮮やかな黄金色に染め上げていた。ゆっくりと両手を上げてみると、かつて数々の奇跡を生み出し、医学界で“神の手”とさえ称されたその手は、今、目の前で次第に霞んでいく。
自分の時間がもうほとんど残されていないことを、由美は悟っていた。いま、彼女のただひとつの願いは、この夕焼けの光の中で、もう一度だけ、詩花に会うことだった。
ぼんやりとした視界の中に、見覚えのある人影が再び現れる。妹の天城詩花が、静かに由美の前に立っていた。
詩花は何も言わず、ただ震える由美の両手をそっと握り、優しく微笑んだ。
その笑顔は、三十年前の初めての出会いのときのように純粋で、時と世の中の痛みを越えて、まもなくこの世を去ろうとしている由美のそばに、優しく浮かび上がってきた。
「お姉さま、もう時間ですね」と、詩花の声が耳元で囁いた。
「そうね……」と、由美は小さな声で答えた。「もう、時間なのね」
「本当は、お姉さまも気づいていたのでしょう?」と、詩花はそっと傍らに歩み寄りながら言った。「あなたが、緒方花音という看護師さんへの手術を終えたときから、あなたの命はもう尽きていたんです」
「ええ、わかっていたわ」と、由美は落ち着いた声で言った。「朝から血を吐いていたときから、ずっと。私を救ってくれたのは、あなただったのね」
「ありがとう、詩花。少しでも長く生きられるようにしてくれて、最後の願いを叶えてくれて」
詩花は首を振って、こう続けた。
「実は、家で初めてお姉さまにお会いしたとき、あなたの命はもう風に揺れる蝋燭の灯のように消えかけていたの。私は神様の御意を受け、二日後にあなたの魂を連れに来るはずだった。そのとき、私はお姉さまに、もうすぐ命が尽きることを告げるためだけに訪れたのです。
けれども、思いがけないことが起きた。お姉さまは私を見た瞬間、ふっと姿を消してしまった。そして再び現れたときには、床に倒れて頭部に傷を負い、息も絶えようとしていたのよ」
詩花は懸命に当時の記憶をたどる。
「そのとき、お姉さまは地面でひどく喘ぎ、とても苦しそうでした。私は自分の力で、少しでも症状を和らげてあげようとしました。私がそばにいる限り、お姉さまはそれほど辛くならずに済んだの
その後も、私はこっそりとお姉さまのあとを追い続け、家までついて行きました。でも、運命の掟は変えられないもの。お姉さまが花音さんへの手術を終えたとき、あなたの命はもう尽きてしまったのです
それでも、私はお姉さまのそばで、三森歌月さんや東郷さん、真島さん、そして花音さんの心の声を聞いたの。彼女たちの祈りも、お姉さまがこの何年間抱えてきた苦しみや、患者さんへの強い想いも、すべて感じ取ったわ。だから私は神様に、地上での私の日々を少しお姉さまに貸してほしいと願ったの。そうすれば、もう少し長く生きられるかもしれない――と。神様は私の願いを聞き入れてくださり、おかげで東郷さんの手術も無事に終わらせることができたの
でも、この最後のひとときをあなたに与えてくれたのは、私ではなく、あなたを愛する人たち全員の贈り物だったのよ」
話を聞き終えた天城由美は、そっと頷いた。いまや彼女は最後の使命を果たし、胸中にはもう何の未練もない。
そして、いよいよ本番の別れのときがやって来た。
詩花は小さな手を差し伸べ、天城由美の手をそっと握った。二人の手が触れ合うその瞬間、詩花の背には白い天使の翼と淡い光輪が現れた。
温かく神々しい光が、二人を優しく包み込む。その光の中で、詩花の姿はますます透明になり、由美の眼前には虚空に浮かぶ階段が浮かび上がった。
それは、神が彼女のために用意した、天国へと続く道だと、由美は悟った。
「お姉さま、どうか悲しまないで」と、詩花の声は澄み渡り、まさに天使のように聖なる響きを帯びた。「あなたの命はもう消えてしまいましたが、あなたがこの世に残したものは、命よりもはるかに長いものです。それは、愛であり、救いなのです」
天城由美は、窓の外でじわじわと暮れゆく空を見つめた。夕陽は静かに沈みつつあり、最後の残照は燃えるような炎のように美しかった。
数日前、三森歌月さんが勤める病院を出たときにも見たあの夕陽――あのときは、夕陽とはいつも絶望的な終わりを連れてくるものだと思っていた。
しかし太陽は、いかなる瞬間も夕陽であり、同時に朝日でもある。その光が消え入るように山の背を下り、蒼涼たる残照をすっかりたたみこむとき、まさに反対側では燃えあがりながら山の嶺へ駆けのぼり、烈々たる朝の輝きをあたり一面にふりまいているのだ。
天城由美は安らいだ表情で目を閉じ、最後の言葉を胸に刻んだ。
「東郷さん、あなたは私の最後の患者です。どうか、これからもしっかり生き抜いてください
真島さん、まだ病に苦しむ人々の魂を、私の代わりに守っていてください
花音さん、あなたの贈り物は受け取れなくてごめんなさい
歌月さん、ずっと寄り添ってくれてありがとう
あなたたち全員が、私の人生を照らす光でした
いま、私はもう逃げたり、恐れたりしません」
「詩花、行きましょう」と、天城由美はこの世へのすべての執着を解き放ち、詩花に告げた。
「お姉さま、今度は私がお家に連れて帰ります」と、詩花は穏やかに答えた。
天城由美の意識は、やがてその温かな光の流れの中にゆっくりと溶けていった。生涯背負い続けてきた孤独も、悔恨も、執念も、すべてがこの瞬間に永遠の静寂へと変わり果てた。
病院の廊下では、三森歌月が必死で天城由美を探していた。術後観察室にも、休憩室にも足を運んだが、どこにも彼女の姿はなかった。
突然、強い不安が胸を襲う。彼女は狂ったように朝のあの廃れた診療室へと走った。まだそこだけは確かめていない――直感が、親友の天城由美がきっとそこにいると告げていたのだ。
ドアを開けると、そこで彼女は生涯の親友を見た。
天城由美は診療室の椅子に静かに横たわり、頭を少し傾け、まるでほんのひととき眠っているかのようだった。青ざめた顔には信じられないほど穏やかな表情が浮かび、口元には淡い微笑みが残されていた。
「由美?」と、彼女は震える声で呼びかけた。
「由美、寝てるんじゃないわよ、早く起きて!」
そっと肩を揺らしても、由美の身体からは何の反応もない。急いで近づき、彼女は天城由美を抱きしめた。
その身体は、止めようもなく冷たくなっていくばかりだった。
「由美! 由美!!」と、三森歌月は叫び続けたが、もうあの懐かしい返事は返ってこない。天城由美の身体は、もう呼吸の波動さえ失っていた。
三森歌月は、由美の体調不良を以前から知っており、いつ親友を失っても覚悟はできていた。けれども、いざその日が訪れると、やはり受け入れがたい現実だった。
がらんとした診療室には、絶望の泣き声がこだました。
第二手術室では、真島美嘉子がキャリア初の大規模な心臓手術を終えたところだった。手術が終わったとき、彼女はほとんど脱力状態に陥っていた。
マスクを外し、大きく息をつく。やり遂げた――先生の期待を裏切らずに済んだ! すぐにでも天城由美を見つけ出して、この喜びを分かち合いたい。
一方、緒方花音は、自ら丹精込めて作ったチョコレートを手に、天城由美を探していた。
すると、すぐ近くで、東郷天美が看護師たちに押されるまま、術後観察室から高級病室へと移されているのが目に入った。東郷はまだ麻酔の影響下にあるものの、青ざめた顔には微弱だが安定した呼吸が確認できた。
花音は、手術が無事に終わったのだと悟った。
すぐに立ち上がり、ベッドを押す看護師に尋ねた。
「あの、天城先生はどちらに? どこにいらっしゃいますか?」
「天城先生は手術終了後、ひとりで出て行かれました。どこへ行かれたのか、私たちにもわかりません」
ちょうどそのときだった。
手術室を出たばかりの真島と、由美を探していた花音が、偶然出会った。
「真島先生、天城先生はどこに?」
「わからないわ。私も見つけられていないの」
二人は互いに視線を交わし、同時に不吉な予感に襲われた。真島の手にあったマスクがパッと落ち、花音の手にあったチョコレートの箱も思わず床へと滑り落ちた。
二人は同時に顔を上げ、廊下の窓越しに空を見た。
夕陽は完全に地平線の彼方に沈み、天地には最後の哀しみを帯びた赤い残照だけが残されていた。
言いようのない悲しみが胸に込み上げ、鼻の奥がツンと痛くなった。真島美嘉子は何かを思いつき、花音に告げた。
「天城先生がどこにいるか、わかった気がするわ!」
「本当ですか?」と、花音が疑問を投げかける。
「ついて来て!」と、真島は説明もそこそこに、花音の手を引いて朝の廃れた診療室へと走り出した。
半開きのドアを押し開けると、目の前の光景に、二人ともその場で凍りついた。
三森歌月が床に跪き、天城由美をしっかりと抱きしめている。由美の表情は安らかで、まるで親友の腕の中で深い眠りについたかのようだ。
真島美嘉子は一歩一歩、そっと近づいてきた。手を伸ばし、先生の首筋に触れるが、脈の鼓動はまったく感じられない。
緒方花音はしゃがみ込み、天城由美の垂れ下がった手をそっと握った。その手は、夕陽の最後の光に照らされ、まだわずかな温もりを留めていた。
真島は膝から崩れ落ち、冷たい床にひざまずいた。彼女は泣き叫ぶこともなく、ただ静かに涙がぽとりぽとりと零れ落ちるばかりだった。
「天城先生……」と、緒方花音は持っていたチョコレートを由美の掌にそっと置き、まるで届けたかのように見せた。
そのころ、院長を先頭に、手術を終えたばかりの医療スタッフ全員が診療室へと駆けつけた。
ドアを開けた瞬間、室内は静まり返った。
院長は帽子を脱ぎ、悲しみに沈む同僚たちに向かって深々と頭を下げた。
全員が、最後の瞬間まで命を守り抜いた偉大な戦士に、一斉に黙礼を捧げた。
「さようなら、天城先生」と、皆は心の中でつぶやいた。




