風の形
特殊病棟の外廊下で、春谷時雨はひとり、暗闇の中に佇んでいた。前方からは、怪物たちの甲高い咆哮がひっきりなしに響いてくる。
その音はますます近づき、まるで地獄の軍勢が一歩ずつ迫ってくるかのようだ。
時雨の手の甲に刻まれた風の刻印が、緑色の光を瞬かせ、周囲を淡く照らし出す。その光を頼りに、彼女は廊下の先に、異形の歪んだ姿が次々と浮かび上がってくるのを見た。
それらは定まった形を持たず、純粋な悪意と影が練り固められたかのような存在だった。
「影魔か……。数が多いだけで、別に怖いものでもないわね」と、時雨の表情には微塵の動揺もなかった。相変わらず、どこか皮肉げな笑みを浮かべている。
彼女の周囲では、見えない烈風が次第に凝り始め、体の周りを渦巻きながら、やがて鋭利な風刃へと姿を変えた。
右手の甲にある風元素の刻印が、さらに強い輝きを放ち始める。時雨は目線を上げ、ゆっくりと進んでくる歪んだ怪物たちを睨みつけ、その瞳は刃のように鋭くなった。
「風の形よ、斬れ!」
彼女は軽く唇を開き、終焉を告げる言葉を紡ぎ出す――瞬間、身の周りを取り巻いていた無数の風刃が命令を受けたかのように四方へと放たれ、歪んだ怪物たちを次々と切り裂いていった。
廊下じゅうに、影魔たちの悲鳴が響き渡る。彼らが攻撃を仕掛ける間もなく、鋭い風刃に引き裂かれ、最後には舞い上がる砂となって、空気中に消えていった。
風が収まると、廊下は死の静寂に戻った。周囲のガラスや医療機器も怪物たちとともに砕け散り、細かな破片と砂がカサカサと床へと落ち、壊れた器具からは「チリチリ」という電流の音が、死のような沈黙の中でひときわ耳についた。
時雨は服についた砂をぱたぱたとはらい、そのまま玄関口へと走った。扉の前まで来ると、ドアは開いたままになっており、そばの非常ボタンも押された状態になっている。
どうやら青木紗綾と緒方花音はすでにここを脱出し、非常ボタンを押してドアを開放状態にして、時雨が外に出られるようにしてくれたらしい。
「意外と気が利いているじゃない」時雨は内心で思った。
彼女がようやく外へと踏み出した瞬間、足元には自分が蹴りすぎて凹んだ非常用開閉ボタンがあった。思い返せば、さっき刻印の光を頼りにここまで辿り着いたものの、頑丈なドアは一向に開かない。焦った彼女は飛び蹴りを何発も食らわせたが、それでもビクともしなかったのだ。
そこでようやく脇の非常ボタンに気づき、迷わず一撃。すると、重い扉は音を立てて開いた。
春谷時雨は火花を散らすほどに蹴り込まれたボタンを眺めながら、顔には少しの申し訳なさも見られなかった。なぜなら、今自分たちがいるのは虚界の領域の中――壊した物も現実世界には何の影響も及ぼさないことを、彼女はよく知っていたからだ。
一方、青木紗綾と緒方花音は、安全通路を急いで上へと駆け上がっていた。停電のためエレベーターは使えず、隣の階段室を必死に駆け登っているところだった。
ついに、安全通路の扉を抜け、病院の一階救急ホールへとたどり着いた。
そこには誰一人としておらず、焦る患者も忙しく働く医療スタッフも、ついさっきまで追われていた怪物たちさえも姿がない。病院のホールは、恐ろしいほど静かで、不気味なまでの沈黙に包まれていた。
「みんな、どこに行っちゃったの? さっきまで病人も医者もたくさんいたはずなのに」と、緒方花音が首を傾げる。
青木紗綾は周囲を見回し、病院全体がきれいに整えられ、すべてのものがきちんと元の位置に並んでいるのを見て、騒乱の跡は何ひとつ感じられないことに気づいた。
「みんな、無事に避難したみたいね」と紗綾は慰めながら、花音の手首をつかんで急かした。「今はそんなこと気にしている暇はないの! 早く逃げないと!」
「どこへ逃げるの?」と花音が尋ねた。
そのとき、彼女は病院の正面玄関の方角に、空間の裂け目のようなものが浮かんでいるのに気づいた。それは、以前マンションの八階で時雨に連れられて虚界から脱出したときに、最後に通り抜けたあの裂け目と同じものだ!
「あっちよ!」花音はすぐにそちらを指差した。「きっと時雨が残していった出口だわ! この裂け目をくぐれば、私たちも現実世界に戻れるの!」
「早く、あそこへ向かって走って!」
二人は最後の力を振り絞り、逃げ道となるその裂け目めがけて猛スピードで駆け出した。
五十メートル、三十メートル、十メートル……
裂け目にどんどん近づくうち、花音はもう、向こう側から現実の世界のざわめきが聞こえてくるのを感じていた。
だが、彼女たちの手がその光に触れる寸前――
三本の鋭い爪痕が忽然と現れ、裂け目を粉々に引き裂いてしまった。そして、砕けた裂け目の向こうに、恐るべき存在が立ち現れる。
マンションで見たあの蝕刻の姫だ!
胸の巨大な赤い宝石が血のような紅色に輝き、眼窩には前回よりもはるかに激しい怒りの炎が燃え盛り、緒方花音と青木紗綾をじっと睨みつけている。
続いて、耳を劈くほどの咆哮が炸裂し、その振動波で辺りの空気が歪むほどに揺らされた。青木紗綾と緒方花音は鼓膜が痛むほどの衝撃を受け、全身が見えない巨大な力に吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。
怪物の胸の宝石からまたもや鋭い血の光が迸り、眼前の光景が一瞬で変わる。病院のホールは忽ち消え去り、代わりに奇妙な街並みが広がる。空は心臓を掴まれるような暗紫色で、遠くに東京の街並みの輪郭が霞んで見えるが、まるで遥か彼方に隔たった次元の溝を挟んでいるかのようだ。
蝕刻の姫は背中の八本の触手を振りかざし、怯えて身動きも取れない緒方花音と青木紗綾へと一歩ずつ迫ってきた。
「シュシュシュッ!」
冷たい光を放つ氷弾が三発、蝕刻の姫の背後へと襲いかかった。
怪物はこの強大な殺意を察知し、猛然と振り返って、本能的に右手の骨の盾を掲げて防御の構えを取った。
「バーン! バーン! バーン!」
氷弾は骨の盾にぶつかり、炸裂して冷気が広がり、その表面にはたちまち細かな氷の結晶がびっしりと張り付いた。
少し離れた交差点では、蕭珊雅が立っており、黒曜石のような瞳で、目の前の怪物を冷ややかに見据えていた。
「またあなたなの?」彼女は怪物の胸にある象徴的な赤い宝石をじっと見て、冷たく言い放った。
彼女は、この怪物こそが先日、遠山凛と一緒に路上で遭遇したあの蝕刻の姫だと気づいた。本来なら、二人で協力して完膚なきまで打ち負かしたはずなのに、なぜまたこんなところに現れるのか?
どうやら、完全には死んでおらず、何らかの力によって蘇生したらしい。
蕭珊雅はすぐにそう結論づけ、さらに怪物の手には鋭い骨の爪と頑丈な骨の盾が備わっていることから、復活の過程で虚界の中で新たな力を得たのだろうと推測した。
とはいえ、彼女は深く詮索するつもりはない。ただ一つの目標――すべての蝕刻の姫を倒し、家族の仇を討ち、そしてあの紫の怪物を見つけ出して、姫玥の行方を突き止める――だけがあるのだ。
彼女は再び手を掲げ、新たな氷弾をまとめて怪物めがけて放ち、その注意を引きつけた。
一方、そのころ遠山凛は、蕭珊雅が怪物の注目を集めている隙を狙って、青木紗綾と緒方花音の背後にひっそりと現れ、二人を素早く安全な掩蔽所へと移していた。
「大丈夫?」と遠山凛が気遣って声をかける。
緒方花音は壁にもたれかかり、大きく息を切らしながら答えた。「平気よ、ありがとう」
一方、青木紗綾の視線は、遠山凛の手の甲に浮かび上がった刻印へと吸い寄せられた。時雨の刻印とは模様こそ違うが、漂う気配はどこか似ている。
「あなた、何者なの?」「あの怪物、一体どこからやってきたの?」紗綾は勇気を出して尋ねた。
「私は『時痕者』。虚界と現実を行き来できる存在よ」と、遠山凛はさらりと答えた。「さっきの怪物は蝕刻の姫。人間を虚界へ引きずり込み、殺してしまうタイプの生き物だわ。彼らがどこから来たのかは、今のところ私にもわからない」
冷静に、常識を覆す恐ろしい事実を語る遠山。だが彼女自身、そんな話は長く覚えておくつもりもない。いずれ現実に戻れば、こうした記憶は徐々に薄れていくのだから。
「時痕者」という名も、彼女がふと思いついただけのものだ。なぜか、青木紗綾に問われた瞬間に、頭の中に自然と浮かんできたのだという。
「時痕者? 虚界?」と紗綾がさらに問いかけようとした矢先、遠くから大きな爆音が響いた。遠山凛がそちらを見やると、蕭珊雅が怪物と激しく戦っている最中だった。
蝕刻の姫は怒り狂って咆哮し、蕭珊雅の鋭い氷属性の攻撃を骨の盾で見事に防ぎつつ、こちらも隙を狙って背中の触手を硬化させ、尖った棘で蕭珊雅を容赦なく刺そうとしている。対する蕭珊雅は、宙に浮いた体を操って必死に反撃をかわしていた。
戦況はたちまち膠着状態となり、遠山凛はもはやこれ以上引き延ばせないと悟った。
彼女は視線を落とし、そばにいる青木紗綾と緒方花音に向き直って言った。「緊急事態よ。二人とも、右手を前に出してくれる?」
二人は訝しがりながらも、言われるままに右手を差し出した。
緒方花音の掌には、はっきりとした黄色い刻印が残っている。一方、青木紗綾の掌はきれいなままで、彼女が単なる巻き込まれた一般人であることを示していた。
「あなたは『虚界少女』のようね」
「虚界少女? それって何?」と花音が尋ねた。
「説明している時間はないわ」と、遠山凛は短く答え、そのまま花音の掌の黄色い刻印に手を当てた。
手の甲の刻印が眩い光を放ち、その光が集まってひとつの光球となり、緒方花音の体内へと入り込んだ。
花音は掌が熱くなるのを感じ、黄色い刻印はその力によって徐々に消え、代わりに「無限と再生」を象徴するメビウスの刻印が浮かび上がった。
自分の手の甲から黄色い刻印が消えていく様子を、花音は驚きの目で見つめた。あの恐ろしい黄色い刻印が、どうやって消えたのか理解できない。
ただ、これからはもうあの怪物に追いかけられることもないのだろう、という漠然とした予感が湧いていた。
すべてを終えると、遠山凛は手を引いて、二人に告げた。「浄化は完了したわ。ここにいて、決して動かないで」
「はい」と、緒方花音と青木紗綾は指示に従い、うなずいて近くの大きな岩陰へと身を隠した。
遠山凛は再び身を翻し、激しい戦場へと加わった。




