逃れる
青木紗綾は緒方花音と一緒に、最も安全だと言われる特別ケア病室にいた。廊下の外では、非常灯が白い光を放っているが、その先端にあるランプだけはなぜか、チカチカと明滅を繰り返していた。
不安定な光は、ただでさえ静まり返った病室に、さらに不気味さを加えていた。
青木紗綾は緒方花音の冷たい手を強く握りしめ、自分の体温で記憶を失った友人を落ち着かせようとした。
「怖がらないで、私はここにいるから。」
しかし緒方花音は依然として怯えきっていて、紗綾の手をぎゅっと握りしめたまま、震える声でドアの方を指差した。「青木さん、私……何かぼんやりした影を見た気がするの。あそこに……廊下の向こう側でちらっと見えたわ!」
言葉が終わらないうちに、緒方花音の掌に浮かんだ奇妙な黄色い印が突然熱を持ち始めた。それは心に突き刺すような灼熱感で、まるで焼けた鉄片が彼女の掌を焦がしているようだった。
青木紗綾は彼女の指差す方向、廊下の先端へと視線を向けたが、そこには誰もいなかった。唯一動いているのは、故障しているのか、まだチカチカと点滅を続けるランプだけだ。
「大丈夫よ、ただの光の錯覚だから。あなた、緊張しすぎてるのよ。」彼女は再び緒方花音の手を握り、落ち着かせようと試みた。
次の瞬間、チカチカと点滅していたランプが、廊下のすべての白熱灯とともに、一斉に消えてしまった。
真っ暗闇が、病棟の全フロアを飲み込んだ。
「ああ!」緒方花音が悲鳴を上げた。
「怖がらないで、緒方さん!」青木紗綾は慌てて慰めたが、自分自身も驚いていた。「停電かもしれないわ。病院にはすぐに予備電源が来るはずよ。」
しかし、一秒、二秒、十秒……
予備電源は一向に起動せず、セキュリティレベルが最も高いこの特別病棟では、絶対にあり得ない事態だった。紗綾は慌てて自分のスマホを取り出し、懐中電灯機能を起動させた。小さな光の柱が、前方のわずかな範囲を照らし出す。看護師長の忠告を思い出した。もし予備電源が起動しなければ、廊下の先にある警備コントロールルームにすぐ連絡できるはずだ。
彼女は特別なポケベルを取り出し、警備室に連絡を試みた。
「もしもし?もしもし?誰かいますか?ここは特別ケア病室です!」
しかしポケベルからは何の応答もなく、ただザーザーという雑音だけが聞こえてきた。
紗綾の心臓は一気に高鳴ったが、それでも彼女は平静を装った。自分が花音にとって唯一の頼りであることを自覚していたからだ。彼女はスマホの光を横に向け、緒方花音を見た。すると彼女は頭を抱えたまま壁際で小さく震えており、口の中で聞き取れない言葉をつぶやいていた。
「来る、来るの!」
青木紗綾はその言葉を必死に聞き取ろうとした。彼女自身、警備室まで様子を見に行こうと一瞬考えたが、花音があまりにも崩れそうな姿を見て、すぐに思いとどまった。
深呼吸をして自分を落ち着かせ、再び緒方花音の手を握り直し、全身の力を振り絞って声を安定させた。
「私はどこにも行かないわ。」彼女は緒方花音に約束した。
その言葉で緒方花音の気持ちも少し落ち着いたようで、彼女は理解したようにうなずいた。
「バシャッ!」
彼女がそう言うや否や、横にあった分厚い強化ガラス窓が突然割れ、破片が病室内に飛び散った。
青木紗綾はとっさにスマホを割れた窓の方へ向けた。
スマホの光の中に、言葉では到底表現できない恐ろしい姿が現れた。それは口元まで裂けた、伝説の「口裂け女」のような怪物だった。それが病室内の二人を見つめていた。怪物の口角は耳まで裂け、瞳孔はなく、ただ恐ろしい白目だけが広がっていた。背後には八本の異様な触手が狂ったように蠢いていた。
怪物は甲高い叫び声を上げ、その中の一本の触手を振り下ろした。彼女たちのいるベッド目がけて!
「危ない!」
青木紗綾は緒方花音をベッドから引きずり下ろし、自分の体で必死に彼女を守った。
「バーン!!」
触手がベッドに激しく叩きつけられ、鈍い音が響いた。頑丈な医療用ベッドはその一撃で激しく変形してしまった。
「花音!大丈夫?」緒方花音は今や自分を認識していないとはいえ、それでも最も危険な瞬間に、無意識にその名前を口にしていた。
「私、大丈夫……」緒方花音は震えながら答えた。
しかし怪物はすでに窓から侵入し、彼女たちに迫っていた。青木紗綾は緒方花音を背後に固く守り、スマホで怪物を照らしながら、その次の動きを確認しつつ、一歩ずつドアの方へと移動した。
怪物の触手は空中で狂ったように舞い、粘つく音を立てていた。紗綾の冷や汗が頬を伝い落ちる。
怪物は再び攻撃を仕掛けた!
一本の触手が鞭のように彼女たちに向かって勢いよく振るわれ、紗綾は急いで体を横にずらして避けた。その瞬間、もう一方の手でポケットから鍵カードを素早く取り出し、ドアのアクセスシステムに勢いよくかざした!
「ピッ!」
ドアは音を立てて開いた。全フロアの電力はすでに止まっていたが、ドアのアクセスシステムは内蔵の予備電池のおかげで、まだ一時的に作動していたのだ。
「逃げて!」
紗綾は花音を引きずるようにして、全力で暗い廊下へ飛び出した。背後からは怪物の鋭く耳を刺すような咆哮が響き渡った。
青木紗綾は残されたすべての力を振り絞り、緒方花音を引きずりながら暗闇の中をひた走った。片手で花音を引き、もう一方の手でスマホの光でなんとか前方の道を照らす。
背後から怪物の重々しい足音と絶え間ない咆哮が迫ってくる。彼女は振り返ることができなかった。怪物がきっとすぐ後ろにいて、自分と花音を執拗に追いかけてくることを知っていたからだ。
出口の階段はもうすぐそこだ!緒方花音を出口の階段まで連れていける!地上に出さえすれば、二人は脱出できるかもしれない!
希望が目前に迫ったそのとき、天井から異様な物音が聞こえてきた。それは素早く動く摩擦音で、何かが天井を高速で移動しているようだった。
紗綾はスマホの光を上に向けた。すると、同じ怪物が彼女たちを見下ろしていた。それは上部の換気口から這い出て、天井に逆さまにぶら下がっていたのだ。
「ああ!!」
突然の絶望的な光景に、青木紗綾の張り詰めていた神経は完全に崩れ落ちた。彼女は恐怖で足が震え、そのまま倒れそうになったが、緒方花音を握りしめた手だけは離さずにいた。
「シュッ!」
怪物は唸り声を上げ、一本の触手を高く掲げた。瞬時に硬くなり、鋭い棘へと変化した触手は、地面に倒れた二人に向けて猛然と突き下ろされた!
緒方花音と青木紗綾の体を同時に貫こうとしていた。
そのとき、階段の曲がり角から風弾が発射された。空気を切り裂く轟音とともに、それは正確に逆さまの怪物に命中した!
風弾は怪物に当たった瞬間、爆発し、鋭い風刃となって怪物の体を容赦なく切り裂いた。怪物は悲鳴を上げる間もなく、その巨体は空中で完全にバラバラにされた。
ほどなくして怪物は粉々になり、細かい砂のように地面に降り注いだ。
青木紗綾は大きく息をつき、まだ震えている緒方花音にスマホの光を向けた。すると、黒いジャケットを着た少女が、静かにそこに立っていた。彼女の右手の甲には、神秘的な風のエレメントの印が淡い青色に輝いていた。
その少女は影から歩み出て、地面で呆然と座り込む緒方花音を一瞥し、予想通りの口調で言った。「またあなたね。」
「またあなた?」その言葉に青木紗綾は困惑した。
「彼女のこと、知ってるの、花音?」
彼女は後ろの花音に尋ねた。緒方花音は顔を上げ、自分たちを救ってくれた少女を見た。彼女の視線と時雨の冷たい瞳が交わった瞬間、膨大な記憶の波が彼女の脳の枷を一気に打ち破った。
思い出したのだ!あの夜、マンションの八階で、自分も今と同じように生死をかけた逃亡を経験していたことを!あの恐ろしい怪物のことも、時雨が自分を助けるために最後に八階から飛び降りた瞬間のことも!
「時雨?」花音は記憶の衝撃で少し戸惑いながら尋ねた。
「意外と忘れてないみたいね。」時雨は皮肉っぽく鼻を鳴らした。
「一体どういうこと?」青木紗綾はすっかり混乱していた。記憶を失った友人と、謎めいた戦闘少女。
彼女は胸の奥に突然、酸っぱいような感覚を覚えた。記憶を失った友人のために、好きな漫画について話したり、看護学校での思い出を語ったりする計画をすでに頭の中で描いていたのに、花音はこの少女を一目見るだけですべてを思い出したのだ。
「あの、あなたと花音さんはどういう関係なの?どうしてここにいるの?」
しかし彼女が言い終わらないうちに、彼女たちが来た廊下の奥から、さらに激しく密集した怪物の咆哮が聞こえてきた。
「追手が来たようね。」時雨の表情が曇った。
彼女は光る右手の印を見つめ、冷たく言った。「今は説明してる場合じゃないわ。」
時雨は体を横に向け、上へ続く避難口を空けた。そして二人の肩を軽く叩き、「早く逃げて、ここは私に任せて。」と命じた。さらに付け加えた。「上はもう調べたけど、怪物はいないわ。」
その言葉で二人の不安は払拭された。青木紗綾は花音を見た。今や緒方花音は記憶を取り戻し、友人に言った。「行こう、紗綾。」
どうやら緒方花音の記憶は完全に回復し、自分自身も思い出したらしい。青木紗綾はそんなことを思った。自分はまだ花音とこの謎の少女がどんな関係なのか分からないが、今は時雨の言う通り、まず逃げるしかない。
「気をつけて!」紗綾は最後に時雨に叫び、花音を引きずるようにして階段を駆け上がった。
時雨は階段を登っていく青木紗綾の背中を見つめ、そっと呟いた。「何を考えているか分かるけど、真相を知る必要はないわ。いずれあなたたちはすべてを忘れ、何も知らないままの日々を送ることになるんだから。」




