呪い
遠山凛は再検査を終え、検査結果の用紙を手に病院の廊下を歩いていた。検査の結果はすべて正常――だが、自分と蕭珊雅の間にいったい何が起きたのか、その記憶はまだ一片たりとも戻っていない。
そのとき、彼女は一室のドアがわずかに開いているのに気づき、中から抑えきれない喧嘩の声が聞こえてきた。彼女は興味をそそられてそばへ近づくと、ベッドに一人の少女が座り、テーブルには栄養食がほとんど手つかずのまま残されていた。天城由美医師がベッドの脇に立ち、厳しい口調で叱責していた。
「そんな風に自分の体を粗末にしていて、どうして大丈夫だと言えるの?」
「もう手術はしないって決めたんだ。食べようが食べるまいが、どうだっていいでしょう?」と、ベッドの少女は頑なに言い返した。
「そんなことは許せません!」と天城由美は即座に否定した。
「私はもう死ぬのも怖くないの」と東郷天美は顔を上げ、虚ろな瞳で天城由美をじっと見据えた。「天城先生、死ぬのも恐れない私なんて、もう放っておいてください」
天城由美は言葉につまり、返す言葉が見つからない。
これ以上黙って見ていられないと、遠山凛はドアを押し開けて部屋へ入り、東郷天美に向かって言った。
「どうしてそんなに自分の体を大切にできないの! あなたのその考え方は絶対に間違ってるわ!」
「あなたは誰なの?」と東郷天美は眉をひそめた。
「通りすがりの女の子よ」と遠山凛は真剣な眼差しで彼女を見つめ、「あなたがどんなことに直面してるのか知らないけど、命を投げ出すなんて絶対にダメよ!」
「簡単に言うわね」と東郷天美は冷笑した。「じゃああなたはどうなの? 死ぬのが怖いの? もし怖いなら、死ぬのも平気な私なんか相手にしないで」
その問いが遠山凛の頭の中で響いた。そう、自分は本当に死ぬのが怖くないのだろうか?
遠山凛はあの路地裏で覆面の少女に刺された日のことを思い出した。冷たい刃が体に突き刺さり、血珠が滲む灼熱感と、死の淵に立ったときの息苦しさが一瞬にして蘇る。彼女は死が訪れる味をまざまざと体験してきたからこそ、誰よりも死を恐れている。けれどもだからこそ、生きることそのものがどれほど尊いものなのかを痛感しているのだ。だからこそ、人間を狩る蝕刻の姫たちを聖剣で裁こうと決意した。捕らえられ、追われる“虚界の少女”たち――そして、虐げられる人々――が、いかに生きていたいと願っているかを知っているからこそ。
だからこそ、怪物どもが平然と命を奪っていくのを、ただ見ているわけにはいかなかった。
遠山凛は少し迷い、東郷天美を一瞥すると、毅然とした口調で告げた。
「もちろん、死ぬのは怖いわ。でも、だからこそ、一生懸命生きなきゃいけないの。生まれ変わりの道を目指して、たとえほんの一筋の光でも、それをしっかりと掌に握りしめるのよ」
その言葉は、天城由美の頭の中に雷鳴のように炸裂した!
死ぬのが怖いからこそ、一生懸命生き、生まれ変わりの道を歩む――。
こんな単純な理屈なのに、自分がこれまで生きてきて、どうして今まで思い至らなかったのだろう? 天城由美は隣に立つ遠山凛を驚きの眼差しで見つめ、この小さな少女がどんな経験をしてきたら、こんな力強い言葉を口にできるのかと不思議に思った。
天城由美が遠山凛の言葉に心を揺さぶられているそのとき、病室のドアが静かに開き、看護師がそっと天城由美のそばへやって来た。
「天城先生!」
看護師の声に我に返った天城由美は、大切な会議があることを思い出し、遠山凛と東郷天美を残して急いで部屋を後にした。
病室はしばし沈黙に包まれたが、やがて東郷天美が小さな声で尋ねた。
「夢ってある?」
「夢?」と遠山凛は少し戸惑った。
「私の夢は看護師になること。偉大なナイチンゲールのように、病に苦しむ多くの人たちを助けるの」と、東郷はその夢について語りながら一瞬だけ瞳を輝かせたが、すぐに暗く沈んだ。「でも、この病気になってから、看護学校を辞めてしまったの」
遠山凛は彼女を見つめ、力強く言った。
「天城先生ならきっと治してくれるわ! この病院で一番優秀な先生なんだから」
「でも、いくら天城先生でも神様じゃない。成功する保証なんてどこにもない。心臓移植のリスクは手術そのものだけじゃなく、提供される心臓の状態や術後の拒絶反応にも左右される。それらは天城先生の力ではどうにもならないの。もし失敗したら、先生はどうするの? 周囲はどう評価する? 名誉だって傷つくかもしれない」
「天城先生のような天才医師は、名声が大きければ大きいほど、批判も大きくなる。顔を潰されて喜ぶ連中なんて腐るほどいるわ。それに、たとえ手術がうまくいっても、私の今の体じゃ、その後も看護の仕事が続けられるかどうかさえわからない。もう誰にも迷惑をかけたくないの」
彼女は自嘲気味に笑い、さらに続けた。
「夢って、ときに呪いみたいなものよね。途中で諦めたら、ずっとその呪いに縛られ続ける。仮に退院できたとしても、夢を叶えられないままの私は、ただの抜け殻にすぎない。そんな人生に、いったいどんな意味があるの?」
少女の言葉に遠山凛はハッとさせられ、しばらくは何とも言いようがなかった。
彼女の言うこともまったく的外れではない。名声というものは時に振り払えない重荷となり、特に天城由美のような存在にとっては、名声が高ければ高いほど、世間からの批評やプレッシャーも増し、失敗への不安や周囲の非難に常にさらされることになる。
そして、たとえ手術が成功しても、東郷が再び看護の現場に戻れる保証はない。夢が砕けた彼女は、魂を抜かれた空っぽの躯にすぎないのかもしれない。
もしかすると、東郷天美にとって本当の恐怖とは、肉体の死ではなく、夢が消えたあと、進むべき道を見失ったときの無力感なのかもしれない。
「ちょっと一人になりたいの」と東郷天美は背を向け、会話を打ち切る意思を示した。遠山凛はそっとうなずき、立ち上がって病室を出た。
廊下を歩いていると、病院の掲示板の前に一人の小さな女の子が立っているのに気づいた。つま先立ちで、小児病棟の子どもたちが描いた連作絵本を眺めており、とても興味深そうだった。
白いワンピースに小さな赤い花を耳に挟んだその子は、親の付き添いもなく、一人でじっくりと絵を鑑賞していた。
「あの子、どうして一人でここにいるの? 家族とはぐれちゃったのかしら?」
遠山凛が声をかけようと近づいたそのとき、数人の看護師が担架車を押しながら彼女の前を急ぎ過ぎ、視界を遮ってしまった。担架車が去ったあと、遠山凛が再び前方を見ても、あの少女の姿はもうどこにもなかった。
彼女は急ぎ足で掲示板へ向かい、あたりを見回したが、どこにもその子の痕跡は見当たらなかった。
「きっと家族に迎えに来てもらったのね」と自分を慰め、それ以上考えることなく、そのまま病院の出口へと向かった。
会議を終えた天城由美は、誰もいないオフィスにひとり腰を下ろし、遠山凛の言葉をじっくりと思い返していた。
「死ぬのが怖いからこそ、もっと力強く生きなきゃいけない――」
彼女は机の上のスマホを取り出し、三森歌月の番号をプッシュした。
「歌月、私よ」と天城由美は電話に出た。「今日から酒をやめるわ。遅すぎるかもしれないけど、体調をしっかり観察してね。治療計画も改めて立て直してほしいの」
電話を受けた三森歌月は、友人の覚悟に胸を打たれつつも、一抹の不安を抱いた。由美に残された時間は、いったいどれくらいあるのだろう?
三森歌月は、今朝髪を梳かれたときに落ちた毛束をポケットから取り出し、深い思索に沈んだ。
「どうしたの、歌月?」と天城由美が電話越しに尋ねた。
「別に……」と三森歌月は素早く気持ちを切り替え、「安心して。ちゃんと休んで、お酒も控えれば、体は少しずつ元気になるわよ!」
「じゃあ、お願いね、歌月」
「いいのよ、私たち最強の仲間なんだから、支え合うのは当たり前でしょ」と三森歌月は笑って答えた。「今日は仕事帰りにうちに寄って。好きな料理を作って、しっかり栄養補給してあげるわね」
「いいわね、歌月の晩ご飯なんて久しぶりだわ」
「私、中国旅行に行ったとき、いくつか中華料理を習ってきたの。ちょうど今日、腕試しできるわ」
「歌月が作る中華料理? 耳だけでおいしそう! 今から楽しみだわ」
「じゃあ、まずは材料の準備をするから、夜にうちに来てね」
「わかった、じゃあ夜ね」
日が暮れると、天城由美は車をゆっくりと三森歌月の家の近くの駐車場へと滑り込ませた。エンジンを切り、車を降りて、薄黄色の街灯の明かりを頼りに、歌月の家へと歩いていく。
ほどなくして、二人は歌月の玄関前に到着。いつものドアを軽くノックすると、間もなく扉が開き、エプロン姿の歌月がすでに夕食の準備を始めていた。
「来てくれたのね、由美」
「うん、歌月」
互いに挨拶を交わすと、三森歌月は天城由美のコートを脱がせ、玄関の帽子掛けにかけてくれた。そしてリビングのソファへと促し、自身はそのままキッチンへと戻っていった。
ところが天城由美は首を振って微笑みながら言った。
「いいのよ、歌月。今日は一緒に料理したいの」
「大丈夫? 体は……」と三森歌月が不安げに尋ねた。
「安心して、野菜を洗ったり切ったりするだけ。疲れないわ」
三森歌月は納得してうなずき、「じゃあ、一緒に作りましょう」と答えた。
二人はキッチンへと移り、忙しく動き始めた。
「今日は何を作ろうかしら?」
「今日は簡単な家庭の中華料理よ。材料はあっちの竹籠に入ってるわ」と三森歌月は調理台右側の竹籠を指さした。そこにはほうれん草、タケノコ、排骨数切れ、漬け豚バラ肉、海老などが整然と並んでいる。
「材料が豊富ね、歌月」
「どれも私が厳選したものよ。ちょうど今、うちの近所で引っ越しがあって、冷蔵庫に余っていた食材を捨てるのはもったいないと、おすそ分けしてくれたの」
「それで、どんな料理を作るつもりなの?」
「今日は『腌篤鮮のスープ』と揚げ天婦羅、ほうれん草の炒め物を作るわ」と三森歌月は即答した。
「『腌篤鮮のスープ』って何?」と天城由美が首を傾げた。「名前が妙に変わってるわね」
「中国・江南地方の名物料理よ。塩漬け肉と新鮮な肉、春のタケノコをじっくり煮込むの。上海出身の看護師さんに教えてもらったんだけど、肝心なのはこの漬け豚バラ肉。これがなければ、この料理は魂を失ってしまうの。看護師さんが正月に作った塩漬け肉が少し余ってて、それを譲ってくれたの。それに、海老も引っ越した隣人が天婦羅用に持ってきていたものを、急に作り方を変えたからって、私にくれたのよ」
「なんだかますます食欲が湧いてきたわ」と天城由美が笑う。「さあ、早速始めましょう!」
「では、一刻も猶予がないから、キッチンへ行って準備を始めましょう」と三森歌月も笑って同意した。
二人は調理台へと向かい、三森歌月が塩漬け肉を小さく切り分け、ほうれん草を洗ってタケノコの皮を剥く。一方、天城由美は器用に海老の殻を剥き、歌月が事前に用意した衣をまぶしていく。
野菜を洗い、切る手を動かしながら、天城由美は感慨深げに言った。
「最後にこんな風に一緒に料理したの、大学のとき以来だわね」
「そうね、寮の共同キッチンでよく料理したわ。初めてあなたに作ったのは天婦羅だったけど、食べてすごく気に入って、『私も教わる!』って言ってくれたのを覚えてる」と三森歌月は思い出しながら、手際よく排骨を洗い上げた。「でも、粉をかけすぎちゃって、鍋に入れたら焦げちゃったし、タレの配合もいつも分からなくて、結局フライパンを放り投げて『もう食べる専門にする』って言われたわよね」
「その後、ちゃんと学んだから、もう粉をかけすぎたりしないわよ」と天城由美は笑いながら手にした海老の身を誇らしげに掲げた。「ほら、均等に衣がまぶせてるでしょう?」
温かな雰囲気の中、二人は過去の楽しい思い出を語り合いながら、今この瞬間の穏やかさと調和を満喫した。
材料の下処理が終わると、三森歌月はまず厚切りにした塩漬け肉と洗い終わった排骨を鍋に入れ、水を注いで肉を茹で、同時に生姜のスライスで臭みを取る。強火で沸騰したらアクを丁寧にすくい取り、具材を砂鍋へ移して水と少量の酒を加え、殻を剥いたタケノコの節を入れて弱火でじっくり煮込む。
「できたわ、由美。スープはあと一時間じっくり煮込むから、リビングで少し休んでて。あとは任せてちょうだい」
「じゃあ、お願いね」と天城由美は軽くうなずき、リビングへと向かった。
一方、三森歌月は天城由美が衣をまとった海老を油でサッと揚げていく。ふと、大学時代に一緒に天婦羅を揚げていたころの由美を思い出す。あの頃の彼女は若々しく、未来に無限の希望を抱いていたのに……。
しかし、それ以上考えることはせず、ただ一心に料理を続ける。まるで、この幸せなひとときを少しでも長く留めておきたいかのように。
グツグツと静かに煮えるスープの音がキッチンに響き、三森歌月はそっと蓋をめくった。琥珀色のスープがこんこんと沸き立ち、長いスプーンでゆっくりとかき混ぜ、ひと口含んで軽く吹き、口に広がる塩漬け肉の濃厚な滋味と排骨の甘い香りをじっくり堪能する。
「由美、スープが煮上がったわ」とリビングの方へ声をかけると、天城由美は食卓へと足を運び、三森歌月は綿手袋をはめて砂鍋を慎重にテーブルへと運んだ。
天城由美は椅子を引いて腰を下ろし、目の前に黄金色に輝く腌篤鮮のスープ、カリカリの天婦羅数匹、そしてほうれん草の炒め物が並ぶのを見た。
「これが、今夜の全部の料理なの?」
「そうよ」と三森歌月は答え、同時に彼女の前に茶碗一杯のご飯と箸を置いた。「もし足りないなら、また作るわよ」
「いいえ、これで十分」と天城由美は手を振って断り、「いただきます」と一口、春のタケノコを摘み、瑞々しい甘さとシャキシャキの歯ごたえを舌で味わう。続いて天婦羅を一つ口に運び、外はサクサク、中はジューシー、絶妙な揚げ加減だ。
「おいしいわ!」と天城由美は感嘆した。
「じゃあ、たくさん食べてね」と三森歌月が言う。
「では、遠慮なくいただくわ」と天城由美はさらに食事を進め、美味しそうに口を動かす。三森歌月はそっと彼女を見守り、優しく穏やかな眼差しを向けながらも、胸の中では複雑な思いが渦巻いていた。こんな時間が、これからどれだけ残されているのか――。
食事を終え、天城由美は伸びをして、ふと窓の外を見やると、すっかり夜の闇が広がっていた。
「もう遅いから、帰らなきゃ」
立ち上がろうとした彼女を、三森歌月が慌てて手を掴み、懇願した。
「由美、今夜は帰らないで、うちに泊まって」
「でも、詩花が心配なの。一人で大丈夫かしら……」と天城由美が少し不安げに言う。
「大丈夫よ。今朝、あなたの家に行って詩花の様子を見てきたし、夕食の準備の前にはレストランで豪華なディナーも食べさせてあげたわ。すごく喜んでたし、最近行方不明事件が多いから、夜は外を出歩かないように注意もしたわ。今はきっと家でくつろいで、もう寝てるはずよ」
「本当に?」と疑わしげな天城由美。
「本当よ、信じて」と三森歌月は天城由美の手を引きながら、できるだけ誠実そうな表情を心がけた。
「わかったわ」と天城由美は淡々と微笑み、最終的には友人の言葉を信じることにした。
「じゃあ、お風呂に入って、早く休んだ方が体にもいいし、明日は早起きして詩花の様子を見に行けるわね」
「じゃあ、ここで泊まるなら、あなたの言うとおりにするわ」
三森歌月と天城由美は浴室へと向かい、肩を並べて立ち、立ち込める湯気に包まれる。辺りは靄がかかり、どこか朧げな雰囲気だ。
二人は大学時代のように、互いの体を優しく洗い始めた。
三森歌月が天城由美の髪を洗う番になると、シャンプーを泡立て、黒々とした髪の毛の間へと優しく揉み込み、指先を髪に沿ってゆっくりと滑らせる。しかし、彼女のその繊細で慎重な動作にもかかわらず、幾筋もの髪が静かに抜け落ちてしまった。
胸に突然悲しみが押し寄せ、三森歌月は唇を噛み締め、天城由美に異変がバレないように必死に感情を抑えた。それでも根気強く由美の髪を乾かし、最後には彼女が大学時代によくしていたポニーテールに結んであげた。
「結んだわ、どうかしら、由美?」と鏡越しに三森歌月が尋ねた。
「あなたの手つきは昔と同じくらい優しいわね、歌月。なんだかまた若返ったみたい」
「若返った……」と三森歌月は心の中でつぶやいた。目の前の親友を見つめ、胸が騒ぐ――見た目は若々しくなっても、由美の体はもう……
その思いが胸を締めつけ、鼻の奥がツンと痛くなり、ついに嗚咽が漏れ出した。
「どうしたの、歌月?」
「別に……ちょっと風邪かも」と三森歌月は手を振って誤魔化し、「もう遅いから、早く休もう」
夜は静寂に包まれ、窓の外では虫の声が微かに響き、月の柔らかな光が寝室のダブルベッドに波のように注がれていた。
三森歌月は横たわり、熟睡する天城由美をそっと見つめる。彼女はすでに目を閉じ、深い眠りに沈んでいた。しかし、自分にはまるで眠気がなく、ただ親友の安らかな寝顔をじっと見つめるばかり。心の奥底では、彼女が残された時間はもう限られていること、二人で過ごせる日々が刻一刻と減っていることを、はっきりと自覚していた。
そして、自分がこの親友のためにできることも、どんどん少なくなっていく。もしかすると、今できることはただひとつ――由美が去ってしまう前に、できるだけたくさんの美しい思い出を残すことだけなのかもしれない。
彼女はそっと薄い布団を引き寄せ、由美の布団の端を優しく整えた。天城由美は何かを感じ取ったのか、唇をわずかに震わせ、「詩花……」と小さな声で呼びかけた。そして、さらに「私たちはもうすぐ、永遠に一緒にいられるのね」とつぶやいた。
その言葉を聞いて、三森歌月はもう耐えきれなくなった。胸の奥で渦巻く悲しみを必死に抑え、静かに身を起こし、一切の音を立てずにトイレへと忍び込んだ。ドアを閉め、電気を点けると、とうとう涙が溢れ、低く啜り泣き始めた。
「由美、ごめんなさい。あなたを止められなかった……」。天城由美の病状がもはや不可逆であることは心の底ではわかっていたが、それでも三森歌月は今、ただ自分を責めることでしか、やりきれない気持ちを紛らわせることができなかった。
その頃、窓の外の通りでは、小さな影がぽつんと佇んでいた。彼女は顔を上げ、わずかな明かりが漏れる窓を見つめ、「お姉ちゃん、私を一人で家に置いていくなんて酷いな。でも怒らないから、歌月お姉ちゃんと過ごす時間を大事にしてね」と小さな声でつぶやいた。
そう言うと、彼女は手にした小さな赤い花を指先でそっと弾き、くるりと踵を返して夜の闇へと跳ねるように消えていった。




