電梯
天城由美は詩花の柔らかな小さな手を引いて、彼女が借りているアパートの下までやって来た。木漏れ日の差し込む階段の前で立ち止まり、詩花は空へとそびえ立つその建物を見上げ、瞳には好奇心がいっぱいに宿っていた。
「お姉ちゃん、ここが住んでるところなの?」
「そうよ」
「こんなに高いビル、初めて見たんだよ」と詩花は興奮気味に言った。「中に入ってみたいなぁ!」
「じゃあ、早く入ろうか」と天城由美はにっこりと笑った。
天城由美はバッグから鍵カードを取り出し、センサー部分にそっとかざす。すると“ピッ”という音が響き、ドアはたちまち開いた。
二人は明るいエントランスホールへと足を踏み入れ、エレベーターの前に立った。
詩花は金属光沢を放つ扉を不思議そうに触りながら尋ねた。「お姉ちゃん、これ何なの?」
「エレベーターだよ」と天城由美は丁寧に説明した。「私は十四階に住んでるから、これに乗って上まで行かなきゃいけないの」
「どうして動かないの?」と首を傾げて、詩花は少し戸惑っている。
天城由美は隣の光るボタンを指さして微笑んだ。「まずこのスタートボタンを押さないと動かないのよ」そう言って彼女は上行きのボタンを押す。するとエレベーターはわずかな音を立て、ゆっくりと降り始めた。
「わあ! エレベーターが動いた!」と詩花は嬉しそうに手を叩いた。
ほどなくしてエレベーターは一階に到着。ピコン、という軽やかな音とともにドアが開くと、白髪交じりの髪をしたおばあさんが出てきた。そのおばあさんは天城由美と同じ階に住んでいて、由美が仕事に出かけるときによく近くの庭園で散歩している姿を見かけた人だった。
彼女は天城由美を見てすぐに声をかけてきた。「こんにちは、天城先生。お帰りですか?」
「はい」と天城由美は笑顔で答えた。「妹とちょっと外で遊んできただけです。この子、下の庭で蝶を追いかけて何周も走って、帰ってくるときはとってもきれいな花も摘んできたんですよ」
おばあさんは天城由美のそばにいる詩花に目をやり、彼女がおとなしく寄り添い、耳には可憐な赤い小花を挟んでいるのを見た。
「あなたが天城先生の妹さんなのね? 本当に可愛い子だこと」
詩花はすぐに礼儀正しくお辞儀をして言った。「おばあさま、こんにちは。天城詩花といいます。お姉ちゃんの妹です。」
「なんて礼儀正しい子でしょう」とおばあさんはますます笑顔になり、ポケットからクッキーを取り出して詩花の手にそっと押し込んだ。「さあ、これはおばあさんからのちょっとしたプレゼントよ」
「ありがとうございます!」と詩花は受け取って急いでお礼を言った。
「こんな遅い時間なのに、どちらへ行くんですか?」と天城由美が心配そうに尋ねた。
「夫を迎えに行くのよ。散歩に出かけていて、もうすぐ戻ってくるはずなの」とおばあさんは答えた。
「それではお気をつけて。今は日が暮れて暗くなってきていますから、足元にもご注意くださいね」と天城由美は医師らしい細やかな言葉で念を押した。
「ありがとう、先生。ご心配いただきまして」とおばあさんは何度も頭を下げて礼を述べ、杖をついてアパートの外へと出ていった。やがて夜の闇の中にその背中は溶け込んでいった。
おばあさんと別れた後、天城由美は詩花と一緒にエレベーターへと乗り込んだ。ドアが静かに閉まり、由美は十四階のボタンを押す。するとエレベーターはスムーズに上昇を始めた。
二人の姿がドアの向こうに消えた瞬間、慌ただしい足音が響き、一人の人物がアパートへと駆け込んできた。それは緒方花音だった。
天城先生の様子、きっとおかしい……! 以前、児童公園の横を通ったとき、確かに天城先生が誰もいないブランコのそばでぽつんと立ち、宙に向かって話しかけたり、ひとりでブランコを揺らしていたのを見たのだ。なのに後になって、先生は妹と遊んでいたと言う。あまりにも不自然すぎる。不安と好奇心に突き動かされ、彼女はつい尾行してしまったのだった。
緒方花音はエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。ドアが開き、中へと入る。「天城先生の部屋、確か十四階だったはずよね」
思い返しながら“14”のボタンを押す。
エレベーターは静かに動き出し、順調に上昇を始めた。ところが、数字が“8”に変わった瞬間、突然停止してしまった。ドアは開いたまま、上がることも閉じることもできない。花音は不審に思い、何度か閉じるボタンを押してみたが、ドアはまるで見えない力にでもつかれているかのように微動だにしない。
「何かに挟まってるのかしら? それとも外で誰かがずっとボタンを押してるだけ?」と内心で推測しながら、彼女は慎重に身を乗り出し、エレベーターの外へと出て状況を確認しようとした。すると廊下の向こう側で、一人の女性が下りのボタンを力強く押しているのが見えた。
「あの、すみません……」と花音はその女性に声をかけてみたが、相手はまるで聞こえていないかのように無反応だった。彼女はその背中を見つめ、乱れた長い髪が肩に垂れ、ほとんど体の半分を覆い隠している様子に、薄暗い照明の中でどこかホラー映画に出てくる貞子のような不気味さを感じ、思わずぞっとした。
勇気を振り絞って、花音はその女性の肩をそっと叩いた。だが、手が触れると同時に、その女性は“ザザッ”と音を立て、生気のない砂礫の塊となって地面に崩れ落ちた!
「ひっ!」と花音は腰が抜け、そのまま床にへたり込んでしまった。と同時に、建物中の電灯がパッと消え、あたりはたちまち手のひらすら見えない真っ暗闇に包まれた。
花音は急いでスマホを取り出し、懐中電灯機能を起動。白い光の柱がわずかに闇を追い払い、震える体を支えて立ち上がり、エレベーターへと戻って地下へ下りようとしたが、停電のためエレベーターも完全に動かなくなっていた。
「もう、階段しかないの?」それが唯一の逃げ道かもしれない。
花音は懐中電灯で前方の道を照らし、一歩ずつ階段へと進んでいった。歩を進めるにつれ、アパート全体が恐ろしいほど静まり返り、広い廊下には自分の足音と高鳴る鼓動だけが響いていた。
ふと、懐中電灯の光が前方で赤く輝く物体を照らし出した。そのすぐそばには階段室がある。花音の胸に仄かな不安がよぎったが、ここを脱出するには前へ進むほかなかった。彼女は一歩一歩、その赤い発光体へと近づき、階段の手前まで来ると、ようやくその正体がはっきりと見えた。
それは、見たこともない怪物だった! 口からは鋭い牙が並び、背中からはタコのようにうねる八本の触手が伸び、胸には巨大で不吉な赤い光を放つ宝玉が埋め込まれている。左手は鋭利な巨大な爪、右手には白骨でできた盾を持っていた。
花音の心臓は激しく縮み、恐怖がツルのように全身を這い回り、再びガクッと膝が折れて座り込んでしまった。しかし、生き延びたいという本能が彼女を黙ってはいられない。彼女は手足を駆使して素早く後退した。
怪物は花音を見つけ、待ち焦がれていた獲物を見つけたかのように、低く唸り声を上げ、一歩一歩彼女へと迫ってきた。背中の触手は鋭い針となり、花音の体を貫こうと狙っている。
まさに危機一髪――そんなとき、風の弾が花音の身体をかすめ、怪物めがけて猛然と飛んでいった! 怪物は殺意を察知し、即座に持っていた骨の盾で防戦する。風の弾は盾にぶつかると炸裂し、無数の鋭利な刃となって盾を切り裂いたが、表面には浅い傷が残るだけで、怪物自身はまったく無傷だった。
まだ息も絶え絶えの花音が後ろを振り返ると、いつの間にか黒い革ジャケットに短いデニムパンツを履いた少女が背後に立っていた。
攻撃が効かなかったことに苛立ち、「チッ、効果なし? 遊び半分で雑魚くらいは倒せると思ったのに、硬い相手に当たっちゃったわ」と少女は舌打ちした。
怪物は再び唸り声を上げ、花音へと迫る。それを受けて少女はさらに風の弾を放った。今度の弾は直接怪物へ向かうのではなく、壁に掛けられた乾燥粉末消火器を正確に直撃!
“バシュッ”という鈍い破裂音が響き、消火器の容器は瞬く間に砕け、強烈な風が内部の粉末を巻き上げて噴出。たちまち白い濃霧が辺り一面を覆い、怪物の視界を完全に奪った。
少女はその隙に花音の手首を掴み、彼女を引き起こして一緒に後ろへと走り出す。二人はエレベーターのそばまで逃げてきたが、そこには開いた窓が一つある。
少女は決然と言った。「準備して、飛び降りるよ!」
「命知らずなの!?」と花音は悲鳴を上げた。「ここは八階よ、死んじゃう!」
「今はこれしかないの。消火器の粉がまだ奴を引き止めているうちに!」言い終わるや否や、背後から怪物の怒りの咆哮が響き渡った。
「もう待てないわ!」
そう言うと、彼女は体を固くした花音を横抱きにし、迷わず窓から飛び降りた!
「きゃあ!」と驚いた花音は、次の瞬間、少女と一緒に急速に落下していく自分を目撃した。
「ああーっ!!!」と絶叫する花音。もう助からないと覚悟したそのとき、少女の右手の甲にある謎の刻印が突如として眩い青い光を放ち、強い風が大地から湧き上がって二人を優しく受け止め、ゆっくりと地上へと降りていった。
「こ、これはプリンセス抱っこ!?」と花音は少女の抱き方に気づき、大好きな少女漫画に出てくるあの定番ポーズそのものだと愕然とした。
しかも抱いているのは女の子だというのに。
数秒後、二人は無傷で地面に着地した。花音の目には驚きと信じ難さが満ちる一方、少女は落ち着いた様子で周囲をひと眺めし、「追いかけてきてないみたいね」と口を開いた。
言葉が終わると、彼女は右手の刻印で前方に空間の裂け目のような出口を開き、まだ我に返らない花音を連れていった。
裂け目をくぐった瞬間、花音は愕然とした。なんと、またアパートの玄関前に戻っていたのだ。
「もう安全よ」と傍らの少女が告げる。
「あなた、一体誰なの? あの怪物は何だったの? それにさっきの空間、現実じゃないよね?」と花音は震える声で問う。
「そんなことは知らなくていいわ」と少女は冷たく言い放った。「いずれあなたはすべて忘れてしまうし、私だって忘れるのだから」
「でも……」と花音がさらに問い詰めようとした矢先、突然のめまいに襲われ、これまでの記憶がまるで見えない力によって抜き取られてしまった。
十数秒後、ようやく我に返った彼女は茫然と周囲を見渡し、呟いた。「どうしてここにいるんだろう?」
目の前の少女は答えた。「多分、ここで迷子になってしまったのね。よかったら、家まで送ってあげるわ」
「あ、いや、大丈夫。自分で帰るから」と花音は首を振って立ち去り、去り際もずっと俯き加減で、何かを思い出そうとしているように見えた。
少女は遠ざかる背中を見つめ、夜の闇に浮かび上がる異様なアパートの建物をもう一度仰ぎ見て、小さく独りごちた。「あれは一体、何だったんだろう……」




