夢想
夜の時間、天城由美は弟子の真島美嘉子を連れて、難易度の高い心臓修復手術の模擬演習を行っていた。
演習の舞台は、病院F棟地下二階にあるホログラフィック手術室。環状のドーム型プロジェクターがリアルな3D映像を投影し、大型の人工知能システムが術者の操作に応じて手術の進行をリアルタイムでシミュレートする。その模擬能力は業界トップクラスで、誤差率は0.01%以下だ。
真島美嘉子の両手は、模擬心臓の主動脈部で細やかな操作を繰り返していた。ところが、ある重要な段階で彼女の手がわずかに震え、小さなミスをしてしまう。しかしすぐに修正し、事なきを得た。
天城由美は一言も発せず、すべてを見届けながら、ただ黙って美嘉子に手術器具を差し出しつづけていた。
ほどなくして、美嘉子は模擬実験を無事終え、AIからは「合格」という評価が下された。
「天城先生……」彼女は嬉しさを共有しようと口を開いた。
「もう自分は合格したと思ってるの?」天城由美は鋭くさえぎった。「さっきの主動脈でのミス、私が見てなかったとでも思った?」
「すみません!天城先生、私の間違いです!」美嘉子は青ざめ、慌てて頭を下げた。
「謝ってどうするのよ!」天城由美は怒気を帯びて言い放つ。「手術台の上では、どんな些細なミスも患者さんの容態を一気に悪化させる可能性があるのよ!この実験用のAIモデルは確かに私の過去の手術シーンで学習してるけど、現実の手術はシミュレーションの百倍も複雑なの。もし本番でこんなミスをしたら、患者さんに危険が及んだら、命を預けてくれた患者さんに果たして胸を張れるの?これは学校の試験じゃない。君が相手にしているのは一人ひとりの生きた命なんだから、模擬の成績が合格ラインなんて、到底足りないわ!」
天城由美の胸中はますます焦燥に満ちていく。自分の時間はもう限られている。こんな初歩的なミスをいちいち直していてはいられないのだ。万一自分がいなくなったとき、美嘉子は果たしてこうした極めて重要な手術をひとりで乗り切れるのか――。
そう言うと、彼女は手袋を外し、トレイに投げ捨てて冷たく告げた。
「今日の練習はここまで。先に帰るから、自分で反省しておきなさい。」
言い終わると、彼女は振り返ることもなく、さっさと立ち去ってしまった。
美嘉子は呆然とその場に立ち尽くし、涙を必死にこらえたが、最後にはとうとうこらえきれず、ぽろりとこぼれ落ちた。
そのとき、再び研究室の扉が開き、入ってきたのは当直看護師の高木直子――同時に、美嘉子の大学時代からの友人でもあった。
彼女は今夜の当直勤務中で、ちょうど研究室から聞こえてくる天城由美の声に気づいたのだ。今日は美嘉子が手術の実験をしていると聞いて、様子を見に来たのである。
直子が部屋に入ると、美嘉子が涙を拭っているのが目に入り、急いでそばへ駆け寄った。
「美嘉子、大丈夫?また天城先生に怒られちゃったの?」
「大丈夫、直子。」美嘉子は涙をぬぐい、頑なに首を振った。「私がまだ未熟で、先生のご期待に応えられていないだけよ。」
「そんなこと言わないで。」高木直子は彼女の肩を軽くなでて言った。「あの手術は天城先生の十八番で、『神の刺繍』とまで呼ばれる技よ。簡単にマスターできるわけがないわ。」
そう言って、直子はポケットからハンカチを取り出し、美嘉子の額の汗と目尻の涙をそっと拭いて励ました。
「諦めないで。一生懸命練習すれば、きっと天城先生の基準に達する日が来るわ。」
「あなたがそう言ってくれるなら、諦めないわ。」美嘉子は拳を握りしめ、瞳に再び闘志を宿した。「私の夢は、天城先生のお気に入りの弟子になって、先生の誇りになることなの。」
高木直子は、奮起した美嘉子を見て、ほっと微笑んだ。
「いつも明るくていいわね、本当に。」
「だって、私には夢があるもの。」美嘉子は確かな笑みを浮かべた。「夢を抱いていると、時には悲しくなることもあるし、ときには胸が躍ることもあるのよ。
それに、天城先生は私の命の恩人。あのとき以来、私は何があっても先生に弟子入りすると決めていたの。」
幼いころ、美嘉子はとても重い病気に冒されていた。母親は名だたる病院をいくつも訪れたが、どの医師も手をこまねくばかり。ついに打つ手が尽き、九州から遠路はるばる東京へ。辿り着いたのは、天城由美が勤める聖マーガレット病院――これが二人にとって唯一の希望だった。
当時、天城由美は医学界に新星として台頭しつつあった天才医師で、美嘉子の手術を引き受けた。
手術前夜、天城由美はわざわざ美嘉子のお見舞いに訪れた。そのころ、幼い美嘉子は、手術成功率が半分にも満たないと知り、天城先生を前に不安でいっぱいだった。
「先生、私は生き延びられるでしょうか……?」腫れぼったい目をこちらに向け、彼女は尋ねた。
天城由美はベッドに横たわる美嘉子を見つめ、そっと身をかがめて温かな掌で頭を撫で、彼女の気持ちを落ち着かせようとした。
「私を信じて。あなたは必ず生き延びられるわ。」
美嘉子は天城先生を見つめた。その眼差しはひときわ柔らかく、目の前の少女ではなく、かつて失った誰かのように映った。
その優しさに満ちた視線が、美嘉子の恐怖をじわりと溶かしていく。若き医師を見つめながら、彼女は確信した。この人が私を救ってくれる――。
手術当日、空は細やかな雨に濡れていた。十時間を超える長く複雑な手術の末、天城由美は卓越した技術で見事に難手術を成功させた。術後、美嘉子はさらに経過観察と回復のために集中治療室へ移され、天城由美は頻繁に面会に訪れ、彼女の体調を確認しながら、温かな励ましと支えを惜しまなかった。
順調に術後回復期を過ごし、無事退院した美嘉子は、天城医師の影響を深く受け、彼女と同じ道を歩むことを決意。人の命を救う医師を目指すようになった。そして心に誓った――天城医師が最も誇れる弟子になるのだと。
並外れた才能とたゆまぬ努力により、美嘉子は名門医科大学を優秀な成績で卒業し、短期間で熟練の専門医へと成長した。弱冠21歳にして、すでに複数の高度な手術を独力でこなせるまでになり、医学界では“天才医師”の呼び名で称賛される存在となった。まさに、かつて天城医師が彼女を救ったのと同じ年齢である。
「わかってるわよ、天城先生に助けてもらったから医者になったって話、何度聞いたかわからないくらい。耳にタコができるほどよ。」高木直子は半分冗談めかして言った。「だから今度こそ、もっと頑張って練習して、次は天城先生に満足してもらえる手術をやりなさい。」
そう言いながら、直子は手術道具を美嘉子に手渡し、真剣な表情で続けた。
「今回はあなたが操作するから、私が道具を渡す役ね。しっかり協力していこう。」
「ありがとう、直子。」美嘉子は道具を受け取り、感謝の気持ちを込めて答えた。
「礼はまだ早いわよ。さあ、もう一度丁寧に練習しなさい。」直子はにっこりと注意を促した。
二人は笑い合いながら、次の模擬実験へと取りかかった。
夜は更け、街路樹の灯りが淡い光を放ち、地面に幾筋もの明るい帯を描き出していた。
天城由美は一人、車を運転して帰宅の途についていた。車内のディスプレイに表示される時刻はすでに午後八時半。周囲には人影もまばらで、ちらほら見える通行人も皆、何か悪いことに遭わないよう、うつむき加減で急いで家路を急いでいる。
最近、原因不明の失踪事件が相次ぎ、住民たちは不安に怯え、夜の外出を控えている。なかには在宅勤務を申し出て、安心を求めて自宅に籠もる人々も少なくない。
天城由美は近くの駐車場に車を停め、徒歩でアパートへ向かおうとした。そのとき、静寂を破って、どこからか声が響いた。
「お姉ちゃん!」
天城由美ははっと顔を上げ、声のする方へ目を向けた。すると、少し離れた場所に白いワンピースを着た小さな女の子が立っているのが見えた。
「詩花!」天城由美は足早に、ずっと想い続けてきたその小さな姿へと駆け寄った。数歩の距離まで近づくと、腕を広げて抱きしめようとし、詩花も素直に駆け寄ってきた。
天城由美は詩花をきつく抱きしめ、背中を優しく撫でた。
「詩花、やっと会えたね。本当に会いたくて、毎日会える日を待ち望んでいたの。」天城由美は語った。
「お姉ちゃん、私も会いたかった!」詩花は天城由美にぎゅっとしがみつき、再会の喜びに満ちた笑顔を見せた。
少し気持ちが落ち着くと、天城由美は詩花の肩にそっと手を添え、その顔をじっくり眺めて感慨深く呟いた。
「やっぱり昔のまんま、全然変わってない。相変わらずかわいいわね。」
「でも、お姉ちゃんはすごく変わったよ。大人っぽくて、とっても素敵になったもの。」詩花はにっこりと答えた。
そう言うと、詩花は天城由美の服の裾をそっと引いて、すぐそばの遊具広場を指さし、うきうきと提案した。
「お姉ちゃん、あそこで遊びたい!一緒に来てくれる?」
天城由美は期待に満ちた詩花の瞳を見て、即座に答えた。
「もちろん、一緒に行こう。」
二人は手を取り合って遊具広場へと向かい、到着すると天城由美は尋ねた。
「まずは何で遊ぶ?」と。
詩花は辺りを見回し、大きな象のすべり台を指さした。
「あれがいい!」と。
「じゃあ、まずはそれから始めようか。」
天城由美はにっこりと同意し、詩花を抱き上げて滑り台へと運んだ。詩花が頂上に腰かけ、天城由美が後ろに立ってそっと押すと、滑り台を勢いよくすべり降りてきた。天城由美は下で両腕を広げ、まるで大切な宝物を迎えるように、ふわりと受け止めた。
詩花は笑顔で飛び込み、澄んだ笑い声が広々とした園内に響き渡った。
「身体は相変わらず軽いわね。」天城由美は優しく詩花の肩を撫でた。
「お姉ちゃんの手もやっぱり温かい。」詩花は茶目っ気たっぷりに笑って言った。「以前は病室でひとりぼっちだったのに、やっと外で遊べるようになったね。」
天城由美は詩花の言葉に、胸がじんと熱くなった。
あの突然の病気で長い間病院暮らしを強いられ、幼いながらも多くの苦しみと孤独を味わった詩花の日々を思い起こす。今、他の子どもたちと同じように遊具広場で元気いっぱいに遊ぶ彼女を前に、たっぷり一緒に遊んであげなければ――そう強く思った。
すべり台を楽しんだあと、詩花は隣のブランコにも興味を示した。
「お姉ちゃん、次はあれで遊ぼうよ!」と、天城由美の手を引っ張ってブランコへと向かった。
「わかった、焦らないで。お姉ちゃんが遊んであげるからね。」
詩花がブランコに腰かけ、両手でロープをしっかりと握る。天城由美は後ろに立ち、優しく揺らして、空中で自由に揺れる様子を楽しんでもらった。
「お姉ちゃん、今日は本当に嬉しい。夢みたいだわ。」ブランコの上で顔を上げた詩花は、天城由美に向かって幸せそうな笑顔を向けた。
「あなたが楽しければそれでいいのよ。」天城由美は目を細めて答え、愛おしさと甘やかしの感情をたっぷり注いだ。
街灯の柔らかな光の下、二人の遊ぶ姿はひときわ温かな雰囲気を醸し出していた。
「天城先生、何をしてらっしゃるんですか?」
そのとき、不意に天城由美の背後から声が響き、穏やかなひとときを破った。振り返ると、見慣れた顔があった。研修中の看護師、緒方花音が、好奇心いっぱいの目でこちらを見ていたのだ。
「緒方さん、まだ帰らないの?」天城由美は微笑んで尋ねた。
「天童さんの症例資料をもう一度見直そうと思って。ところで、天城先生はどうしてここに一人で?」緒方花音は不思議そうに問いかけた。
「一人?」天城由美は少し戸惑い、やがて笑みを浮かべた。
「妹の詩花と一緒に遊んでるのよ。」
そう言って振り返ると、ブランコはすっかり空っぽ。詩花の姿はどこにも見当たらない。
「あれ?詩花はどこに行ったの?さっきまでいたのに、いつの間に……」天城由美ははっとなり、慌てて辺りを見回して詩花を探し始めた。
天城由美は遊具広場の隅々まで必死に探し回った。その眼差しは、何か非常に大切な宝物を探すかのような切実さに満ちていた。
「あの、天城先生。」緒方花音がそっと割り込んだ。
「もしかしたら、私が見落としていただけかもしれません。お嬢さんは先生とちょっとふざけたり、他人に照れたりして、どこかに隠れてしまったのかも。私、一旦失礼しますね。しばらくしたら、きっとご自身でお戻りになると思いますから。」
「わかったわ。じゃあ、先に帰りなさい。」天城由美は短く返した。
緒方花音はそのまま遊具広場を後にした。天城由美が再び捜索を始める寸前、背中にふわりと触れる感触があった。驚いて振り返ると、そこには詩花がいた。目をキラキラと輝かせて、いたずらっぽくこちらを見ている。
「詩花、どこに行ってたの?」天城由美は怒りと焦りを抑えつつ、内心では安堵のため息をついた。
「えへへ、ちょっとお姉ちゃんを驚かせようと思ってね。」詩花は茶目っ気たっぷりに舌を出した。「隣の草むらでずっと隠れてたの。うまくいったと思ったんだけど、残念ながら失敗しちゃったみたい。」
「詩花、それはいけないわよ。」天城由美は厳しく諭した。「緒方看護師はお姉ちゃんの大切な友達なんだから、そんなふざけ方はしないで。次からはやめなさい。」
「わかった、お姉ちゃん。」詩花は少し恥ずかしそうにうつむいたが、すぐに顔を上げてまたウインクした。
「今日は疲れたから、お姉ちゃんと一緒に帰ろう。また明日遊ぼうね。」
「そうね、帰ろうか。」天城由美は穏やかに微笑み、詩花の手を取って、二人で家路についた。
二人が去った直後、緒方花音が一本の大きな木の陰からそっと姿を現した。顔色は蒼白で、恐れと疑問に満ちたまま、天城由美が去っていく方向を見つめ、ぼそりとつぶやいた。
「どうしたんだろう?なぜ天城先生は公園で一人、空っぽのブランコを押して、その後も宙にむけて独りごとをつぶやいていたの?」




