鏡子
深夜、すべての物音が静まり返っていた。
天城由美はさっさと鶏むね肉のサラダを片付けてしまい、今では自宅の広々としたダブルベッドにひとりで横たわっている。
窓の外には、都会のネオンに彩られた明るい空。窓の内側には、果てしない闇に包まれた冷たい寝室。
彼女は、眠れずにいた。
「生きている者たちには、この死者たちの意志を背負って、しっかりと生きてほしい」――先ほど楓さんが口にしたその言葉が、いま天城由美の胸の中で何度も反芻されている。
それを理解すれば、死と向き合うこともできるのだろうか? そう納得したあと、本当にすべてを手放して、笑って死を迎えることができるのだろうか?
天城由美はベッドの上で寝返りを打ちながら、何度も何度もその問いを繰り返し考えていた。ふと、枕元の電子時計に目をやる。
時刻はすでに夜中の十一時近く。それでも一向に睡魔は訪れず、あの疑問だけが頭から離れず、ひっきりなしに彼女の心を苛み続けている。
次第にそんな思索にも飽きてしまった彼女は、思い切ってベッドから起き上がり、リビングの冷蔵庫へと向かった。
冷蔵庫の扉を開け、中から冷えたビールの缶をもうひとつ取り出す。
「はは、こんなときはやっぱりお前頼みだな」と、天城由美は苦笑いを浮かべた。
彼女はビールのプルタブをあけ、金色に輝く苦味の強い液体を、一気に喉へと流し込んだ。
「お姉ちゃん!」
ひとりでグラスを傾けていると、突然、銀の鈴のような小さな女の子の声が耳元で響いた。
少し不思議に思いながら、天城由美は声のする方へと視線を向けた。
すると、ずっと自分の記憶の奥底にあり、心を惹きつけてやまなかったあの姿――“詩花”がそこに立っていた。可憐なピンクのワンピースを着た詩花は、抱きかかえた人形とともに、トイレの入口にちょこんと立ち、無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
「詩花!」天城由美は思わずその名を叫んだ。
次の瞬間、詩花はくるりと身を翻し、暗いトイレの中へと消えていった。天城由美も何かに憑かれたように、その後を追ってトイレへと入る。
しかし、中は誰一人としておらず、ただ静寂だけが広がっていた。
「天城のお姉ちゃん!」
ふいに右の方から声が聞こえた。天城由美が勢いよく振り向くと、右手の大きな化粧鏡の中に、ピンクのワンピースを着た小さな女の子の輪郭がくっきりと映し出されていた。
急いで鏡の前に駆け寄った天城由美は、鏡に向かって叫んだ。
「詩花!あなたなの?帰ってきたの?わざわざ私に会いに来てくれたの?」
鏡の中の詩花はうなずき、無邪気な口調で答えた。
「うん!天城のお姉ちゃん、会いに来たよ。やっと見つけられたんだ」
天城由美は手を伸ばし、鏡の中の詩花の頬に触れようとしたが、触れたのは冷たいガラスの感触だけだった。
「あなた、鏡の中に閉じ込められているの?」と天城由美が焦って尋ねると、「大丈夫、お姉ちゃん。だって、もうすぐあなたがここに来るんだもの」と詩花は微笑んだ。
そして、その姿はゆっくりと消えていった。
詩花の言葉に首を傾げていると、突然、鏡の中に恐ろしい怪物が現れた。背中には八本のタコのような触手が生え、口の中には鋭い牙がぎっしりと並んでいる。
天城由美はその凄まじい怪物を目の当たりにして、思わず後ずさりしながらも、どこか懐かしさを感じていた。この怪物は、初めて自分を襲ってきたわけではないようだ。
よろめきながらさらに後退していると、怪物は地鳴りのような咆哮を上げた。天城由美は反射的に耳を塞ぎ、体を大きく仰け反らせる。
その拍子に、滑りやすい便器のタイルを踏み外し、足をすっぽりと滑らせて床へと転倒。後頭部を冷たく硬いタイルに強く打ちつけ、そのまま意識を失った。
天城由美が気絶すると、怪物は二本の触手を伸ばし、冷たい鏡を突き抜けて、まるで二匹の蛇のように、床に倒れた天城由美を巻き上げた!
さらに背中のもう一本の触手を、とてつもなく鋭い尖った槍へと変化させ、もはや抵抗できない天城由美を貫こうと狙いを定めた。
そのとき、高速で回転する気流が作り出した風の弾が、怪物めがけて猛然と飛来し、見事に命中した!
風の弾は目標にぶつかるや否や、たちまち数本の鋭利な刃へと分裂。狂おしいほどの勢いで怪物の身体を切り裂いていく。
瞬く間に、怪物は暴風の刃によって粉々にされ、細かな砂となって空中に舞い散った。そして、触手に巻き上げられていた天城由美も、バタンとトイレの床に倒れ込んだ。
怪物の撃退により、天城由美はまたしても九死に一生を得た。
一方、近くの暗く静かな路地裏では、突如として空間の裂け目が開いた。その裂け目から、若々しい少女が姿を現す。
少女は黒いパンク風のジャケットに短いデニムパンツを合わせ、手でジャケットとジーンズについた砂埃をぱたぱたとはたき落とした。
「ふん、今はまだ『混沌の翼』を召喚できるほどじゃない。でも、雑魚レベルのモンスターなら十分相手できるわ」と、彼女は手の甲に淡く光る紋章に向かって呟いた。
それから暗い路地を抜け出し、向かいにある明かりの点いた自動販売機へと歩み寄る。
ポケットから二枚の硬貨を取り出し、投入口へと滑り込ませた。続いて画面を操作すると、ほどなくして販売機の出口からカランと冷えたコーラの缶が飛び出してきた。
少女はその缶を手に取り、慣れた手つきでプルタブを引き抜き、上を向いて冷たい炭酸飲料を一気に飲み干した。そして空になった缶を足先に乗せ、まるでサッカーのリフティングのように、両足の間で巧みに転がし始めた。
「チリンチリン――」
金属的な清涼感あふれる音が、静まり返った街中に響き渡る。少女は見事な“リフティング”を続けながら、通りをゆっくりと進んでいった。
すでに夢の中へと入りかけていた住民たちも、この騒々しい音に驚かされて次々と灯りをつけた。だが、最近頻発する“行方不明事件”のせいで、誰も窓を開けて確かめようとはしなかった。
やがて少女が一軒の家の前までやって来たとき、とうとう我慢しきれなくなった男が窓を勢いよく開け、下を見下ろして怒鳴った。
「うるさい!このクソ野郎が!」
少女は窓を開けた男を見上げ、足先を軽く持ち上げて缶を宙へと浮かせ、力強く空中蹴りを叩き込んだ。
コカ・コーラの缶は迷うことなく開いた窓を通り抜け、男の頭部に見事に命中。彼は呻き声を上げ、強烈な運動エネルギーを宿した缶の一撃で視界が真っ暗になり、そのまま室内へと崩れ落ちた。
男が倒れるのを見届けると、少女は軽蔑の色を濃くした口調で言った。
「俺はお前ら何も知らない連中を守るために必死になってるんだ。礼儀くらい知れよ!」
愛おしい“プルタブ・サッカー”を失ったあと、少女は両手をジャケットのポケットに突っ込み、果てしない夜の闇へと去っていった。
朝、天城由美はトイレの床で目を覚ました。
頭はまだぼんやりとしていたので、少しでもすっきりしようとそっと首を振った。
体を支えて上半身を起こし、あたりを見回すと、自分がリビングのベッドではなく、トイレのタイルの上で眠っていたことに気づき、愕然とした。
「どうしてこんなところに寝てたんだろう?」
天城由美の胸に、どこか違和感が募る。まだ痛みの残る体を引きずりながら、鏡台の前に立ち、自分の様子を確認しようとした。ところが、鏡に映る自分を見た途端、思わず一歩、後ずさりしてしまった。
心の奥深くに、この鏡に対する得体のしれない恐怖があるらしい。じっくり思い返してみても、その理由がどうしても思い出せない。
リビングへと戻ると、昨夜テーブルに置いたままだったビールのプルタブはすでに開かれ、酒は半分ほど飲み尽くされ、炭酸が抜けた黄色い液体が底に溜まっていた。
「また酔っぱらってしまったのかしら」と、天城由美は最も妥当な結論に達した。
「くしゅん!」
天城由美はくしゃみをした。
身なりを改めて見ると、薄手の下着一枚しか身に着けておらず、しかも冷たく湿ったトイレのタイルの上で一晩中寝ていたのだ。
どうやら風邪を引いてしまったらしい。
携帯電話を取り出し、メモアプリに記録された今日の予定を確認すると、手術の予定はない。
「よかった、今日は手術が必要な患者さんはいないわ」と、天城由美は安堵のため息をついた。病気の体では、完璧な手術など務まらないからだ。
「ピピピピッ!」
リビングの目覚まし時計が七時の時報を鳴らし、時間は早朝七時に差し掛かった。
そろそろ出勤の時間だ。天城由美は素早く身支度を整えた。部屋の小さな薬箱から風邪薬をいくつか取り出し、バッグへ。使い捨ての医療用マスクも一枚、顔に装着した。
今の彼女はすでに病気がかなり進行しているとはいえ、たかが風邪程度のことだと割り切ることもできた。けれども、患者さんや周囲の人々への責任を胸に、やはりマスクを着けることにした。
天城由美の住まいから勤務先の病院までは、およそ三十分の道のり。馴染みの道を車で走ると、車窓には咲き始めた桜の木々が次々と過ぎていく。早咲きの桜は満開を迎え、あたりには淡い花の香りが漂っていた。
ほどなくして病院の玄関へ到着。門の警備小屋では、年配の警備員が新聞を片手にのんびりと読書中で、近づく彼女を見て軽く会釈をしてくれた。
「天城先生、おはようございます」と警備員が挨拶する。
「おはよう」と答え、車を地下駐車場に停めたあと、病院の中へと足を踏み入れた。
院内では看護師や医師たちが忙しく行き交っている。
自分の診察室のドアの前に立ち、持ち歩いていた鍵で慎重に扉を開けた。室内はどこも整然としており、白い壁には詳細な医学図表が掲げられ、書棚には重厚な専門書や学術誌が所狭しと並んでいた。
机の上のMacBookを開くと、ディスプレイが点灯するやいなや、今日のスケジュールがくっきりと目に飛び込んできた。念入りに確認する。
「うん、今日は手術の予定はないけど、入院中の患者さんの基本的な体調をチェックして回らなければ」
確認を終えると、指先をタッチパッドにすべらせ、スケジュールを閉じて、あとで病棟巡視に出かける準備を整えた。
そのとき、突然、診察室のドアが勢いよく開き、ピンクのナース服を着た若い看護師が慌ただしく駆け込んできた。
「天城先生!緊急患者です!救急科から容態が危険な患者さんが運び込まれました。すぐにご診察をお願いします!」
「緊急患者?」と、天城由美の胸は一瞬で高鳴った。本来は比較的穏やかな一日のはずだったのに、この緊急患者の登場はまったく予想外だった。
だが、焦る看護師を落ち着かせるため、表情を整え、平静な口調で「わかった、すぐに行くよ」と応えた。
「ありがとうございます!患者さんの状況はかなり複雑なので、なるべく早くお願いします」と看護師が返事をし、ドアの外で待機する。
天城由美はすぐに席を立ち、聴診器とカルテを手に、看護師と一緒に急ぎ救急科へと向かった。




