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虚界少女  作者: sara
復生の影
36/102

死亡

天城由美は、全身に疲れを抱えたまま、高級マンションの一室へと戻ってきた。重厚なドアの前に立ち、バッグから鍵を取り出して、そっと錠前を回す。


「カチッ」


ドアは音を立てて開いた。


室内は、どこか無秩序な光景だ。脱ぎ散らかした服がソファの上に投げ捨てられ、読み終えた医学書が床の隅に雑然と積み上げられ、食べかけのテイクアウトの容器も、まだ茶几の上で片付けられずにそのまま放置されている。


病院では厳格で緻密な天才外科医――それが天城由美だ。しかし日常生活では、彼女はどこまでも奔放で、いささかだらしないと言えるほどの女性だった。


目の前の乱れた部屋を眺めても、彼女はまるで動じない。


先ほど、三森歌月が勤める病院で、襲われそうになったあの奇妙な“幻覚”を体験して以来、彼女の心もまた、ざわついていた。


それは単なる幻覚ではなかったのではないか――そんな予感が、彼女の胸の奥底でくすぶっている。


あの瞬間、彼女は息も止まるような冷たさを確かに感じ、死が一歩ずつ自分へと迫ってくるのをはっきりと悟ったのだ。


三森歌月の診察室で、彼女は自負を滲ませた口調で「死など恐れていない」と語っていたはずだ。


けれども、幻覚の中で何かが自分を殺そうとしたそのとき、心の奥底からは、生命の本能が生み出す“生への渇望”が抑えきれないほどに湧き上がってきた。


本当に、自分は言葉どおり、平然と死を受け入れられるのだろうか? 皮肉にも響くその問いが、彼女の内心を苛んでいた。


もうこれ以上考えるのはいやだとばかりに、天城由美は足早に自分の部屋へと向かった。


手にしていたバッグをベッドの上へと無造作に放り投げると、彼女は身にまとった窮屈なスーツを一枚ずつ脱ぎ始めた。やがて、シンプルな黒のインナーだけを身につけ、玉のように滑らかな素足で部屋を出て、家の中をせわしなく動き回り始める。


天城由美は、こうした束縛のない生活が好きだった。だから家ではいつも、肌にぴったりと寄り添う下着姿でいることが多い。ほかの余計な衣服なんて、すべて意味のない枷にすぎないとさえ思っていた。


今、彼女は少し食事を作ろうとしている。


大きな二枚扉の冷蔵庫へと歩み寄り、ドアを開けて、まだ新鮮そうな食材をいくつか取り出した。今日は鶏むね肉のサラダを作ることにしたのだ。


彼女は新鮮なロメインレタスを均等な大きさにちぎり、次にトマトを丁寧に角切りにし、さらに冷蔵庫から取り出した甘いコーンを少々ボウルへとあける。


それらの材料を器の中央に整然と並べ、特製のオイルヴィネガードレッシングをたっぷりとかける――これはエキストラバージンオリーブオイルとバルサミコ酢、ほんの少しの蜂蜜と海塩を絶妙に調合したソースだ。最後に、エアフライヤーで焼き上げた鶏むね肉を乗せれば、見た目も香りも味も申し分ないサラダの完成である。


天城由美はその皿をリビングのテーブルへ運び、さあ食べよう――という寸前、ふと思い立ったように再び冷蔵庫へと向かった。扉を開けると、中には六本入りのビールケースがひっそりと鎮座している。彼女は薄いビニールの包装を外し、まだ冷気が立ち昇る缶ビールを一本取り出した。


「あなたがいなきゃ、どうにもならないわね」。天城由美は手にした冷たいビールを見つめながら、自嘲気味につぶやいた。


彼女が酒を飲み始めたのは、父の日記で家族に潜む難病の歴史を知ったあとだった。お酒を飲むと、一時的にすべての悩みや苦しみを忘れられる。とりわけ酔いが回ると、思いきり暴れまわり、胸の奥に溜まった鬱屈や悔しさを存分に吐き出せるのだ。


彼女にとって、酒とは脆い心を麻痺させてくれる、まさに魔法のような存在だった。


ただ、毎回の大酔いの後には、必ずといっていいほど歌月からの叱責が待っている。ある休日のこと、彼女は泥酔して隅のソファでぐったりと横たわっていたところを、歌月に発見された。歌月は何も言わず、彼女を背負ってベッドまで運んでくれた。


目を覚ましたとき、歌月はベッドの脇にひざまずき、彼女の手を握って、目元を赤く腫らし、深い疲労と失望を湛えていた。だが、彼女が目を開けた瞬間、歌月は勢いよく頬を張った。静寂に響く乾いた音、そして顔に走る灼熱の痛み。


「なんでこんな風に自分を粗末にするの!」と、抑えきれない怒りを声に乗せて叫んだ。「今のあなたの姿を見てごらんなさい。アルコールで自分をごまかして……私がどれほど心配しているか、わかってるの?」


彼女はただ、小さく「ごめんなさい」と言うしかなかった。


その二文字では歌月への負い目を決して埋められないことを彼女はわかっていた。それでも、毎回ただひたすらにその二文字を繰り返すばかりだ。ときには心の中でこう叫びたくなることもあった。「私はもう希望なんてない、いつ死んでもおかしくない人間なんだから、こんなふうに気にかけてくれるのはやめてよ!」


けれども、いつも口に出しかけては、結局また飲み込んでしまう。彼女の未来はどこまでも暗く沈んでいるのに、自分を唯一気にかけてくれる歌月を傷つけることだけは、どうしてもできなかった。


天城由美はビールの缶を手に、再び食卓へ戻った。サラダの隣にそれを置き、ひと口ずつ味わい始める。すると、何気なく脇に置いていたMacBookが突然鳴り出した。


画面のロックを解除すると、そこには一度も会ったことのないネット上の友人「楓」からのメッセージが届いていた。


「楓」は、大学時代に偶然できたネット上の友人だ。当時流行っていたランダムチャットアプリで出会って意気投合し、その後のやり取りで、彼女もまた医学部に通っていると知った。二人はLINEを交換し、以来、断続的な交流を今日まで続けてきた。


楓からのメッセージに気づくと、天城由美は鶏むね肉のサラダを脇へ置き、MacBookを自分の前に広げた。


楓の位置情報によれば、彼女は遥か北海道にいるらしい。そして雄大な海岸線の写真を一枚撮影し、天城由美へ送信してきた。


【楓:素敵でしょう?】


【由美子:ええ、とてもきれい。でも、どうして急に北海道に行ったの?】


【楓:もちろん、休暇よ。どんなに忙しくても、たまにはしっかりリフレッシュしないとね】


【由美子:羨ましいなぁ】


【楓:由美子さんだって、きっとお仕事で忙しいんでしょ? 専門の外科医なんだから、毎日いろんな重症患者さんと向き合ってるんでしょ】


「由美子」は、天城由美がネット上で使っているニックネームだ。彼女は常にこの名前で楓とやり取りをしてきた。


ネットの世界では、多くの光と枷を纏った“天城由美”というアイデンティティをいったん手放し、誰にも知られていないもう一人の自分として自由に生きられる。


ここでは誰も本当の姿を知らない。「楓」もまた、自分が東京で働く平凡な外科医だということしか相手に明かしていない。


「ネットって、やっぱり便利なものだわ」と、天城由美は思った。


一方で、画面の向こうの「楓」という人物についても、彼女自身、ほとんど何も知らない。楓はこれまでの会話で、現在は都内の女子校で保健の先生をしていること、そして大学院修了後には、外界から隔絶された孤島で一年間のインターン医師を務めたことがあるとだけ明かしてくれた。


【由美子:以前はお医者さんでもあったんでしょ? どうして辞めちゃったの?】


【楓:まあ、話すと長くなるんだけど……】


半分打ちかけの文章を眺めながら、天城由美は少し興味をそそられた。しかし、楓がなかなか続きを打ち返してこないので、彼女は気遣いを込めてこう返した。


【由美子:きっと、はっきりとは言えない事情があるんだよね。じゃあ、聞かないでおこう】


【楓:もし由美子さんがどうしても聞きたいなら、別に話すのが難しいわけじゃないんだけど】


【由美子:やっぱりやめておく。誰にだって、ちょっとくらい秘密ってものがあるでしょ】


そう打ち終わると、天城由美はふと何かを思い出し、つい苦笑いを浮かべた。


【楓:それもそうね。由美子さんだって、他人には知られたくない秘密があるんでしょ】


楓の返信をじっと見つめながら、天城由美は長い沈思に沈んだ。


そして、なぜか自分でも驚くような一文を、ついチャット欄へと打ち込んでしまった。


【由美子:死って、どう思う?】


「送信」ボタンを押した途端、天城由美はすぐに後悔した。なぜこんな重苦しい質問を楓にぶつけてしまったのか。


指を先ほど送信したメッセージの上に載せ、すぐに消そうとしたそのとき、チャット欄には楓からの、じつに懸念に満ちた返信が飛び込んできた。


【楓:なんだか急に話題が重くなっちゃったね。何かあったの? 由美子さん】


【由美子:別に、気にしないで。忘れて】


とはいえ、彼女自身、それが単なる自己欺瞞にすぎないこともわかっていた。一度口にした言葉は水を打ったようなもの、もう引き返せないのだ。


【楓:大丈夫、由美子さんは専門の外科医として、毎日さまざまな重症患者さんの死と向き合ってる。ときに、どんなに力を尽くしても、どうにもできないこともある。だからこそ、生死について悩むのは当然のことよ】


【楓:でも私としては、死というのはどうしても避けられないものなのだから、むしろそれを素直に受け入れるべきだと思う。そして、生き残った人たちが死者の意志を胸に、しっかりと生きていくべきなのよ】


【楓:もしかしたら、それが私たちにできる唯一のことかもしれない】


天城由美は楓の答えをじっと見つめ、再び長い思索に沈んだ。


楓は、自分が担当する患者たちの死を目にして、由美子がこのような問いを抱いているのだろうと考えていた。


だが、彼女は知らないのだ。


画面の向こうで彼女と語り合っている“由美子”こそが、本当は死と向き合わなければならない当事者なのだと――それでも、やはり画面の向こうの楓には感謝せずにはいられない。


【由美子:ありがとう、楓】


天城由美はそう打ち込み、楓へと送信した。


【楓:どういたしまして。もし私の言葉が由美子さんのお役に立てたら、それでいいのよ】


「楓となら、自分のことも話せるかもしれない」――楓のこれまでの考えを聞いて、天城由美はなぜかそんな思いに駆られた。


【実は……】と、チャット欄に打ちかけたものの、すぐさま迷いが生じた。こんな話をすれば、休暇中の楓をまた心配させてしまうかもしれない。


そのとき、相手からの返信が先に届いた。


【楓:さて、そろそろ花火大会が始まるから行かなきゃ。あとで写真送るね!】


メッセージを読んだ天城由美は、その二文字をそっと削除し、さらにつづり始めた。


【由美子:わかった、写真楽しみにしてる】


送信ボタンを押すと、すぐに楓から短い返事が届いた。


【楓:了解】


返事を受け取った天城由美はノートパソコンを閉じ、脇へと押しやって、まだ食べかけのサラダを再開した。

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