幻痛
早朝、遠山凛は眠りから覚めた。
窓から差し込む陽光が遠山凛の体に降り注ぎ、彼女はまだかすむ目元をこすった。そして、太陽に向かって伸びをするように背伸びをすると、一連の動作で体がすっかり目覚めていった。その後、普段通りの洗顔や着替え、メイクといった起床のルーティンを終えると、遠山凛は再び学校へ向けて歩き出した。
出発前に、遠山凛は玄関の全身鏡で自分の服装を入念にチェックした。上半身にはスーツ風の制服に下は学校指定のチェック柄スカート、足元にはふわふわとした厚手のストッキングと小ぶりな革靴を履いていた。
すべてが整っていることを確認すると、遠山凛は全身鏡に向かってほんのりと微笑みを浮かべた。
「笑顔の女の子は、運も悪くならないものよ」
これは母親がよく遠山凛に言っていた言葉だ。母親は、遠山凛の笑顔が何よりも好きだと語っていた。どんなに外でつらいことがあっても、遠山凛が自分に微笑んでくれさえすれば、母の気持ちは自然と明るくなるのだった。同時に、遠山凛にもその温かな笑顔を周りの人々に届けてほしいと願っていた。
「お母さん、今日も幸運が訪れますように……」
彼女は両手を合わせ、心の中でひたすら祈った。
遠山凛は再び学校への道を歩き始めた。それはちょうど4日前と同じコースで、同じ商店街、同じ風景、そして同じように急ぎ足で通り過ぎる人々が見られた。今日は休日にもかかわらず、街中の人影は平日のそれほど減っていなかった。
やがて遠山凛はあの黒い路地に到着した。路地の中は相変わらず暗く、深い闇に包まれていたが、数日前に出会った白猫の姿はすでに消えていた。
あの白猫は一体どこへ行ってしまったのだろう?母猫の呼び声と、子猫の助けを求める必死の鳴き声が、今もなお遠山凛の記憶の中に鮮明に残っている。もし自分があの白猫を助けていなければ、こんなことにはならなかったかもしれない——。
だが、もし放っておいたら、あの可哀想な子猫はいつまで下水道から救い出されずにいただろう?もしかしたら、今頃はもう下水道の中で息絶えてしまい、ただ母猫だけが無力な叫びをあげているのに、誰にも気づかれることなく……。
そんなことを考えているうちに、遠山凛は亡くなった祖母のことを思い出していた。祖母は田舎町で「なんでも屋」を営み、町の人々が抱えるさまざまな面倒な用事を手伝っていた。庭掃除やペットの散歩、荷物の運搬、病気の高齢者のお世話など、どれも些細なことばかりだったが、依頼主たちは心からの感謝を伝え、時には仕事が特に素晴らしかった場合、追加でお小遣いを渡してくれることもあった。
そのため、遠山凛の祖母は町の人々からとても慕われ、町の人々も遠山凛が突然やって来た小さな女の子であることを知ってから、彼女を特別に可愛がってくれた。特に、遠山凛が祖母の仕事を手伝うと、いつも多めにお小遣いをもらい、それを将来のために大切に貯金していた。
しかし、祖母はそれが当たり前のことだと言わんばかりに、「人を助けることは、自分自身を助けること。人に優しくすれば、必ず誰かがあなたに優しくしてくれる」と、遠山凛に繰り返し教えてくれた。きっと、祖母は遠山凛が仕事以外でも、人の役に立てる人間になってほしいと思っていたのだろう。そして、その教えは今もなお、遠山凛の心に深く刻まれている。
かつて田舎にいた頃、遠山凛は一匹の野良猫の母子が迷子になったのを助ける経験をした。そのとき、子猫は近くにいた凶暴な犬に怯えて隅っこで震えていた。遠山凛は咄嗟に木の棒を振り回して犬を追い払い、子猫を救い出すことができた。もし自分が助けなければ、あの子猫は間違いなく犬の餌食になってしまっただろう。
「あ!あなた、あの数日前の……!」
遠山凛が過去の記憶に浸っていると、一人の女性が彼女のそばに近づいてきた。
「数日前、この路地の外で倒れているあなたを見つけたの。私と彼氏が一緒に救急車を呼んだんだけど、体調は大丈夫?」
女性は親切そうに遠山凛の様子を尋ねた。
「ご心配ありがとうございます。でも……」
遠山凛の言葉が終わらないうちに、彼女の腹部に激しい痛みが走った。その痛みに耐えきれず、彼女は顔を歪め、思わずしゃがみ込んでしまった。同時に、脳裏には血塗れの地面に横たわり、冷たく虚ろな瞳で静かに死を待つ自分の姿がフラッシュバックした。
どうしてこんなにリアルな痛みが……。まさか、本当に自分が死んでしまったのだろうか?
「数日前、この路地の外で倒れているあなたを見つけたのよ」。遠山凛は、先ほどの女性の言葉を思い出していた。
彼女によれば、自分が倒れていたのは路地の外だったというが、自分の記憶では、むしろ路地の中で刺殺されたはずだ。なぜ自分の記憶と他人の記憶はここまで食い違ってしまうのだろう?そもそも、自分はあの路地に入ったことがなかったのだろうか?白猫の母子を探し出し、突如現れた殺人犯から襲われたのも、すべて偽りの記憶なのだろうか?
「大丈夫ですか!」
女性は遠山凛がしゃがみ込んだのを見て、慌てて彼女を支えた。そして、遠山凛の背中を軽く叩いて励ました。
「大丈夫です、ありがとうございます。」
「もし体調が戻らないようなら、無理しないでくださいね。」
そのとき、女性の携帯電話のアラームが突然鳴り響いた。
「まずい、仕事に遅れちゃう!」と女性は焦った様子で携帯画面を確認しながら言った。
「じゃあ、私はこれで失礼します!またね!」
そう言うと、女性は急ぎ足で立ち去っていった。
女性が去った後、遠山凛は服をまくり上げて、さっき痛みを感じた場所を確かめてみた。すると、皮膚は依然として滑らかで、刺されたような痕跡は何も見当たらなかった。どうやら、あれは単なる「幻の痛み」だったようだ。しかし、その「幻の痛み」こそが、既に死神が確実に彼女のそばに迫っていたことを告げているかのようだった。
遠山凛は訳が分からなかったが、それでも学校への登校時間は迫っていたため、深く考えることなく、再び学校へ向けて歩き出した。
しばらくすると、遠山凛は学校に到着した。校門は長年の風雨にさらされて斑模様の錆が浮かび上がっていたが、それでも堂々とした風格を漂わせていた。門の上には、筆文字で書かれた学校名が掲げられていた。
遠山凛は校内に入ると、そこは陽光が降り注ぎ、緑豊かな木々が生い茂る、まさに青春のエネルギーに満ちた空間だった。今日は休日にもかかわらず、広い校道を様々なファッションを楽しむ若者たちが三々五々行き交い、活気に満ち溢れていた。
遠山凛は周囲を見渡しながら、スマホを取り出して写真アプリを開いた。そこには、学校の教務棟の写真が表示されていた。
彼女が探しているのは、学校の担任教師である山内順子先生だった。山内先生は生徒思いの優しい先生で、重要な用件があるからと、遠山凛に休日でも学校に来てほしいと伝えられていた。
しかし、広大なキャンパスはまるで迷路のように感じられ、遠山凛はスマホの写真を見ながら辺りを探し回ったが、なかなか見つからない。
最終的に彼女は、グレーと白が基調の洋風建築の前に立ち止まった。これは学校を象徴する建物で、明治時代に建てられたものだ。古く優雅な建築様式が、悠久の歴史を語り継いでいる。
しかし、遠山凛にはそんな景色を眺める余裕などなかった。彼女は今、その建物の前で途方に暮れ、まるで迷子になった子猫のように無力感に苛まれていた。
おそらく休日だったためか、キャンパス内にはあまり人がおらず、しかもこの日は校外の人々にも開放されていたため、中には私服姿の外部の人々も数多く見受けられた。
遠山凛がどうしていいか分からずに立ち尽くしていると、向かい側から一人の女子学生が歩いてくるのが目に留まった。その子は知的で品のある雰囲気を漂わせており、手には学生の記録ファイルを二巻抱えていたことから、遠山凛は間違いなく校内の先輩だと確信した。
「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが……」
遠山凛は先輩のそばまで歩み寄った。
「あら、なんて可愛い子なの!何か困っているの?」
初対面にもかかわらず、この先輩はなぜかとても打ち解けた感じで、いきなり遠山凛を「可愛い」と褒めてしまったため、彼女は少し照れてしまいそうになる。
「あの……私、新しく来たばかりで……この場所へ行こうとしているんですが……」
遠山凛は緊張しながらも、先輩が持つスマートフォンの画面に映し出された写真に目を向けた。
「ここね。あなたが入ったのは裏門だけど、もう一つの正門から行った方が近道よ。でも、実は今、資料を届けに行くところだから、一緒に案内してもいいかな?ただ、今は急がないといけないから、道だけ教えてあげるわね。」
「えっと……お願いできますか……?ありがとうございます……」
「じゃあ、教えちゃうから、しっかりメモしてね。」先輩は穏やかな笑みを浮かべて言った。
そこで遠山凛はスマホの電子メモ帳を開いたが、まだスマートフォンの操作に慣れていないこともあって、文字を打つ手つきは少しぎこちなかった。それでも、細部まで聞き漏らすまいとするように、真剣に先輩の言葉に耳を傾けていた。
先輩もまた、遠山凛の真面目でぎこちなさを感じ取ると、あえて普段よりゆっくりと話すように心掛けた。おかげで遠山凛はスムーズにメモを取ることができた。
メモを取り終えると、遠山凛は先輩に別れを告げた。
「ちゃんと覚えました……それでは、また……さようなら……先輩。」
「ちゃんと覚えた?もっとゆっくり話せばよかったのに。そうしたら、もっと可愛い後輩ちゃんをじっくり眺められたのにね。」先輩は顔を遠山凛に近づけ、彼女の表情をじっくり覗き込むようにして、まるで迷子の子猫をからかっているかのようだった。
遠山凛は戸惑いながらも、思わず顔を背け、先輩の視線を避けてしまった。
「じゃあ……じゃあ、私は行きますね、先輩。」
「それじゃ、また会いましょう、可愛い後輩ちゃん。きっとまたどこかで、このキャンパスで再会できるはずだからね。」
そう言って、遠山凛は独りで駆け出していった。
短い時間の交流だったが、先輩の端然として優雅な姿や、知的で堂々とした雰囲気は、遠山凛の心にしっかりと刻まれていた。ただ、時折見せる誘うような仕草には、なぜか遠山凛をドキリとさせてしまうほど、ほのかな色気が感じられた。
一方、遠山凛が去った後、先輩は彼女の遠ざかる背中を見つめながら、狐のような狡猾な微笑みを浮かべた。
「どうやら、これからキャンパスツアーを引き受けることになりそうだわ。安心して、また必ず会えるから、可愛い後輩ちゃん。」
「梨子、まだ資料届いてないの?」
その頃、前の教室棟の方から、こんな声が聞こえてきた。
「もうすぐ着くから、ちょっと待ってて!」
そう答えると、梨子は足早に教室棟へと向かった。