呼喚
「ピッ――ピッ――」
冷たい電子音に遠山凛は混沌から目を覚ました。生命徴候をモニタリングする数々の機器が稼働し、白熱灯の光が目に突き刺さって、思わず手で目を覆ってしまう。
「あっ!お目覚めですね!よかったわぁ!」
隣で世話をしていた看護師さんが凛の反応に気づくと、驚いたように声を上げて、急いで部屋を飛び出していった。
「先生!患者さんが目を覚ましました!」看護師さんの朗報が病院中に響き渡る。
自分が青と白の病衣を着ていることに気づいた凛は、これまでのできごとを思い返した。暗い路地裏、追いかけられる少女、冷たい刃物、激しい痛み――。
あの感覚はあまりにもリアルで、まるで死がすでに訪れたかのようだったのに、いまこうして生きていた。
彼女は服をめくって、ナイフで刺された傷口を確かめようとしたが、体には何ひとつ傷跡も残っておらず、包帯やガーゼの痕跡すら見当たらない。
疑問に思っていると、病室へ二人の人物が入ってきた。金縁メガネの中年医師と、不安そうな表情を浮かべた若い女性――遠山家の主治医と、凛の小姨だ。
「凛!やっと起きたのね!もう心配で心配で……!」
若い女性は凛の小姨で、足早にベッドへやって来て、凛の手をぎゅっと握りしめた。その目元はうっすら赤くなっている。
小姨はこの街で唯一の親族だ。昔、大学を卒業してアメリカへ渡り、ずっと現地で働いてきた。一方、凛は母とずっと一緒に暮らしていた。父の記憶はほとんどなく、母に尋ねても「遠いところへ行ってしまった」としか答えなかった。しかし母が事故で亡くなり、小姨は仕事の都合で頻繁には帰って来られず、凛は祖母に預けられて育てられた。
大学に合格した夏休み、祖母も他界した。自然死で、苦しみもなく、とても穏やかな最期だった。
祖母の葬儀には小姨がアメリカから駆けつけた。凛が大学に合格したと聞き、自社が日本進出を始めたこともあって、彼女は凛の面倒を見るために帰国することにした。日本事業の責任者として日本に戻り、凛の面倒を見ながら、学費や雑費もすべて肩代わりしてくれた。
「体は大丈夫?どこか具合の悪いところはない?」小姨はかなり興奮気味で、何度も凛の体を触って確認しようとするものだから、凛はちょっと戸惑ってしまう。
「小姨、心配しないで。私、平気よ」と凛は小姨をなだめようとした。
「遠山凛さん」と主治医が口を開いた。「あなたが病院に運び込まれたときは昏睡状態でした。発見者の話では、顔色は真っ青で、道端に倒れていたそうです。病院で検査しても明らかな原因は見つからず、各種生理指標もほぼ正常でしたが、意識は戻らなかったのです。」
主治医は発見時の状況を説明し、さらに尋ねた。「今はもう目を覚ましているけれど、体のどこかに違和感はありませんか?」
「体は特に異常はないけど……本当に自分で倒れたのかしら?だって私は……」
「何に?」と小姨が慌てて聞き返す。
「人に刺されて倒れたの」
「でもあなたの体には、鋭利な刃物による損傷は一切見当たりません」と医師は冷静に診療記録をめくりながら答えた。まるで間違いを指摘するような口調だ。
「そんなわけないわ!はっきり覚えているもの!」
「遠山さん、落ち着いてください。長時間の昏睡で記憶が混乱しているのかもしれません。あなたは三日三晩、ずっと眠っていたんですよ。うちの病院でも、最近似たような患者さんが何人もいました。」
「三日三晩?」凛はハッと胸を打たれた。「それじゃあ学校の入学手続きの時期、もう終わっちゃったんじゃない?」
「そうなのよ、だからあなたったら、私をどれだけ焦らせたことか。この三日間、毎日仕事が終わると必ず様子を見に来て、どうすれば意識が戻るか先生たちと相談しまくったのよ!」
「まだはっきりした原因はわからないけど、とりあえずあなたが目を覚ましたのは幸いです。身体検査で異常がなければ退院できますよ。」
「学校にはすでに休学の届けを出しておきました。全部の検査が終わって問題なければ退院して、後から改めて登録の手続きを済ませればいいんです。」そう言うと、主治医は病室を出て行った。
「そうそう、この家には今度、女の子が一人引っ越してくるの。あなたのルームメイトよ。」
「えっ、小姨、もうルームメイト決まったの?」
いまのところ、凛は小姨の家に居候している。小姨は都内に自宅を持っていて、もともとは職場の近くにある持ち家で、自分用に住んでいた。ただ、凛が通う女子高校からはかなり離れていたため、小姨は凛のために大学のそばにアパートを借りることにしたのだ。
その住宅は東京都文京区にあり、庭と開放的なバルコニー付きの美しい一軒家だ。大家さんは中国人の女性で、新しく購入したばかりの物件だという。まだ住み始めて間もないのに、突然の事情で帰国することになり、家を売りに出すつもりなのだそうだ。
話を聞いた小姨は即座にその家を買い取った。だが、凛ひとりでは少し寂しすぎるし、それに何かよくない噂も耳にしたので、小姨は凛のためにルームメイトを探してあげることにしたのだ。
「あなたがここ数日ずっと昏睡状態だったし、その子も急いで部屋を探していたから、私が勝手に決めちゃったんだけどね。でも小姨としては、あの子はとてもいい子だと思うし、きっと凛も仲良くできるはずよ。」小姨はいつも果断な人だが、凛はその表情に一抹の疑念を感じていた。
「大丈夫よ、小姨は人の見立てがいつも当たってるもの。」凛が何か言おうとしたが、この数日ずっと昏睡で、小姨にずいぶん迷惑をかけてきたのに、またルームメイトを辞めさせたりしたら、ますます小姨に説明してもらうはめになるだろうと思い直し、結局、小姨の計画を受け入れた。
そのとき、小姨の携帯が鳴り、彼女は表示を見て、焦った様子で言った。「凛、これから会議があるの。退院の手続きは自分でしておいてね。小姨、先に行くわ。」 「わかった、小姨。」小姨は電話に出ると、急いで病院を後にした。
あれこれの長い検査を経て、ついに凛は退院の手続きを終えた。
凛がいるこの病院から、これから足を踏み入れる女子大学までは、歩いてほんの十数分の距離だ。
病院の玄関前で遠くを見やると、夕陽の残照の中、ぼんやりと校舎の輪郭が見える。
本来なら三日前にはキャンパスに立っていたはずだった。奇妙な出来事さえなければ、いまごろは大学生活の楽しさに浸っていたかもしれない。
新入生向けのオリエンテーションや歓迎イベントが次々と開催されていたらしいが、それもすべて見逃してしまった。
悲しみをひとしきり抱えたあと、凛は家へ向けて歩き出した。
ある街角で、一人の少女とすれ違った。その瞬間、風が少女の長い髪を揺らし、凛の頬を撫でて、彼女の身から漂う淡い柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。
思わず振り返ると、目の前に細身のシルエットが立ち、白いワンピースに腰まで伸びる長い髪。背中姿だけでも、清楚で可憐な横顔が想像できるほどだ。
少女は足早に人々の流れに溶け込み、あっという間に視界から消えていった。
少女が完全に見えなくなるまで、凛はしばらく放心していた。すれ違ったその一瞬、胸の奥で不思議な感覚が芽生えた気がした。鼓動が思わず速まり、でもそれがどんな感情なのか、自分でもよくわからないままだった。
家に戻り、キーカードで電子錠を解錠して室内へ。靴を玄関のシューズボックスにしまい、スリッパに履き替える。
その後、玄関ホールを抜け、ダイニングとキッチンへ。ようやく我が家へ戻った凛の頭の中には、ただひたすら空腹を満たしたい一心があった。冷蔵庫からピザを一枚取り出し、丁寧に皿に載せて、キッチンのオーブンへ滑り込ませる。
スイッチを入れると、オレンジ色の光が炉内のピザを照らし、凛の小さな顔を映し出す。凛はオーブンの前にしゃがみ込んで両手で頬杖をつき、しぼんだピザがふくらんでいく様子をじっと見守る。
そのとき、オーブンのガラス越しに、凛の顔がゆっくりと溶け出し、清冽でどこか冷ややかな少女の貌へと変わっていった。もっと近くでその姿を見たいと思った矢先、「チン」という音が響き、オーブン全体が暗転。少女の顔も忽然と消えてしまった。
「あの子、誰だったんだろう?」と凛は呟いた。
そのころ、リビングのテレビがなぜか突然ついてしまい、凛はピザを置いてリビングのテレビへ向かった。「故障かな?」とリモコンで電源を切ろうとした。
画面は緊急ニュースに切り替わり、司会者が姿勢を正して原稿を手に、重大な内容を伝える構えを見せた。
「ここで重要なニュースをお知らせします。最近、本市では原因不明の失踪事件が相次いでいます。警察の発表によると、被害者は人通りの少ない路地裏や夜の公共空間で姿を消しており、市民のみなさまには個人の安全対策を徹底し、人混みの少ない場所や夜間の外出を控えていただくようお願いいたします。現在、警察は全力を挙げて事件の解明に取り組んでおり、市民のみなさまからの情報提供を強く求めています。」
凛は司会者のアナウンスにじっと耳を傾ける。
チリーン、チリーン……
リビングの電話がいつの間にか鳴り出し、時刻は午後七時三十分。こんな遅い時間に、いったい誰が電話をかけてくるのだろう?
凛は受話器を耳に近づけながら、恐る恐る応答した。「もしもし、どちら様ですか?」
「生き延びろ、必死で生き延びろ。」
電話の向こうから不気味な声が聞こえてきた。感情のこもらない、ただ機械的に繰り返される声だ。
「生き延びろ、必死で生き延びろ。」
「あなた、誰?」と凛がもう一度尋ねても、返事はなく、相変わらず同じ言葉が続くばかり。
「生き延びろ、必死で生き延びろ」
数回繰り返されたあと、ようやく新たな声が加わった。
「生き延びろ、必死で生き延びろ。『王』に会うために、必死で生き延びろ。」
この言葉を最後に、声は途切れ、電話からは切れた後の「プープー」という音だけが響くようになった。
「誰かのいたずらなんじゃないかしら?」と内心では腑に落ちなくても、今のところはそう考えるほかなさそうだ。
テレビのほうへ戻ると、ニュースはすでに終わり、アニメが再放送されていた。凛はその番組に興味がなかったので、テレビを消した。
音が消えると、家の中は一気に静かになり、外の虫の声だけがときどき室内へと忍び込む。
ニュースで報じられた事件の影響もあり、人々は屋外での活動を控えているのだろう。
リビングでひとりきりの凛は、まるで世界に自分だけが取り残されたかのような気持ちになった。
「だから小姨がルームメイトを探してくれたんだわ。一体どんな子なんだろう?」と考えながら、浴室でシャワーを浴びたあと、凛はリビングから隣の階段を上って二階へ。そこが自分の寝室だ。寝室は階段を上がった左手側にあり、右手側にはもうひと部屋空いている。そちらが、これから来るルームメイトの部屋だ。
そのドアはいまもぴったり閉ざされたまま。凛は扉をじっと見つめながら、ルームメイトとの楽しい共同生活を思い描いていた。ここ数日、奇妙な出来事が多すぎたから、せめて新しいルームメイトとは、少しでも楽しい思い出をつくりたい――。




