刺殺
少女・遠山凛はある不測の事態で謎のマスク少女に刺され、命を落とすはずだった。だが彼女は病院のベッドで奇跡的に目覚め、傷一つない体で現実とは思えない出来事をただの悪夢だと信じる。しかし高校キャンパスでその孤独な謎の少女・シャオ・シャンヤと再会した瞬間、世界の残酷な真実が彼女の眼前に徐々に明らかになる。
無辜の少女たちは異空間で、謎の「王」が支配する命を賭けた殺戮ゲームに巻き込まれる。現実世界では東京で原因不明の失踪事件が頻発するが、犯人の痕跡すら見つからない。そして15世紀に滅ぼされべき存在だった血魔族が静かにその影を現し始める。
虚界と現実の二重の脅威に立ち向かい、少女たちの反乱と絆の物語が幕を開ける。
朝、早朝
街は賑やかな人々で溢れ、出勤時間が近づくにつれて、誰もが足早に歩いている。うっかりぶつかってしまっても、互いに軽く会釈し、服を整えるとまた急ぎ足で進んでいく。
この人混みの中でも、ひとりだけゆっくりと歩む少女がいた。せわしない流れの中で、彼女はどこか浮き上がったように見えている。
少女は遠山凛といい、熊本の実家から東京の女子高校へ合格したばかりだ。この街で過ごす時間も少しずつ増えてきたものの、大都市のあらゆる景色にはまだ目を輝かせてしまう。
そのとき、彼女は一軒の店の前に立ち止まり、ショーウインドーに並ぶ手作りの品々に視線を奪われた。店内の店員は、楽しそうな様子の客に気づき、席を立ってそっと迎えに出た。
「こんにちは、何かお探しですか?」と店員が尋ねる。
遠山凛は答えず、ただ首を振った。
しかし店員の顔には失望の色はなく、おそらく彼女がウィンドウショッピングをしているだけだと察していたのだろう。それでもサービス精神から、ひと声かけてみただけだったのだ。
ほどなくして彼女は別の書店へ。ショーウインドーに並ぶ数々の本が、彼女の目を引いた。
そのとき思い出したのは、毎週欠かさず追っている漫画が更新されているはずだということ。ポケットからスマホを取り出し、画面をそっとタップする。スマートフォンを手にしてまだ日が浅いせいもあり、操作はとても慎重だ。
彼女はSNSを開き、『怪盗少女クロエ』というマンガの公式アカウントを見つけた。これは遠山凛が中学時代に夢中になっていた作品で、罪深い街で正義を掲げ、悪を裁く仮面の少女の物語だ。
トップページをめくると、公式ツイッターには「最新巻好評発売中」という文字が躍っていた。それを見た瞬間、彼女の眉間に寄っていた皺がふっと緩んだ。
漫画の作者は体調の都合でしばしば休載し、いつ永久休載になってもおかしくないような状況が続いていたのだ。
「よかった……。作者はまだ描き続けてくれてるんだ。今度、最新刊を買いに行かなきゃ」と、遠山凛は心の中で呟き、スマホの画面を消した。
そんな喜びに浸っていると、ふいにすぐそばで奇妙な音が聞こえた。あたりを見回すと、その音は近くの路地裏から響いてくる。
遠山凛が覗き込むと、両側には古い住宅の剥げかけた壁が立ち並び、道幅は狭くて、朝九時ごろにもかかわらず、遠くの高層ビルに遮られて陽の光は届かない。外は明るいのに、路地の中は暗く覆われ、まるで二つの世界が交わらないかのようだ。
路地の入り口に積まれた段ボール箱が、不気味に揺れている。薄暗い雰囲気と相まって、そこにはじわりと恐怖の気配が漂っていた。
サラサラ……サラサラ……
箱から漏れる音は、まるで尾を振るガラガラヘビのようなもので、次の瞬間にはヘビが飛び出してきて襲いかかってくるのではないかと思わせる。
遠山凛の胸もドキドキと高鳴ったが、好奇心が恐怖を押しのけ、彼女は路地の入口に立ち止まってじっと様子を窺った。
すると突然、段ボールの山から一匹の生き物が勢いよく飛び出した。その姿は素早く、しなやかで、遠山凛は思わず驚いて後ずさりし、尻もちをつきそうになった。
心を落ち着かせ、改めて路地の中を覗き込むと、白い猫が一匹いるのが見えた。その猫は遠山凛の方へ歩み寄り、短く、けれど切羽詰まったような声で鳴いた。まるで遠山凛を急かしているかのようだ。
まだ少し動揺が残っていたものの、彼女は白猫を怖がらせたくない一心で、そっとしゃがみ込み、手を差し伸べた。
白猫は遠山凛の善意に気づいたのか、一歩ずつ慎重に近づいてきた。そして彼女の匂いをクンクンと嗅ぐと、警戒を解いて頭で手のひらをこすりつけ、まるで先ほどの狼狽を謝っているかのように見せた。
さらに再び、短く、せわしなく鳴き始めた。
「何かあったの?」と遠山凛が優しく問いかけると、白猫はまるで言葉を理解したかのようにコクリとうなずき、数歩進んで振り返った。そして遠山凛に、自分について来るように促す。
暗い路地の中を眺めながら、遠山凛の胸には言い知れない不安がよぎる。それでも白猫の切なる呼びかけに心を引き戻され、好奇心に突き動かされて、彼女は決意を固め、白猫のあとを追った。
白猫の姿は路地を縫うように動き、遠山凛はその後をついていく。明るい外から暗い内へと移ったため、目が暗闇に慣れるまで、彼女はとても慎重に歩いた。
路地の静寂と薄暗さが遠山凛の心をざわつかせ、彼女は思わず胸の前で小さな拳を握りしめた。それは緊張や不安を感じるたびに、自分を励ますための遠山凛なりの習慣だった。
白猫もそんな遠山凛の様子に気づいたのか、数歩進むごとに立ち止まっては振り返り、遠山凛が追いつくのを待ってくれた。それにしても幸いなことに、それが黒猫ではなく白猫だったおかげで、暗がりの中でもその姿はなんとか見分けられた。
ある場所に差し掛かると、白猫の歩みが徐々に緩んだ。そこは通り沿いの飲食店の厨房から出る生ごみ置き場で、ゴミ箱の腐敗臭と店の油煙が混じり合い、複雑なにおいが辺りに漂っていた。そのせいで遠山凛の鼻は少し苦しくなってきた。
白猫は一つの下水溝の蓋のそばで立ち止まり、中からは微かな音が聞こえていた。それは彷徨い、助けを求めるような、静かな路地の中にぽつりと響く声だった。
下水溝の蓋には小さな隙間があり、遠山凛がそちらを覗き込むと、音の主が見えた。それは一匹の子猫だった。
実は白猫は自分の子どもと一緒に、食べ物を探しに生ごみ置き場へやって来たのだ。ところが蓋の隙間から子猫が誤って落ちてしまい、母猫だけでは助け出すことができず、人間の力を借りようと外へ出てきたのだった。以来、白猫は子猫の様子を気にかけながら、何度も路地を行き来し、善良な人に助けを求め続けた。すでに何度となく失敗し、遠山凛に出会うまで、何度も何度も彷徨っていたのだ。
「そうか、あなたは自分の子どものために……」
遠山凛は白猫の頭を撫でて、その勇気ある行動を励ました。愛おしい手のぬくもりを受けた白猫は、下水の中の子猫に向かって呼びかけ、体力を温存して救助を待ち続けるよう促した。子猫も母猫の言葉を理解し、次第に鳴き声を弱めていった。
そこで遠山凛は袖をまくり、下水溝の蓋を開ける準備を始めた。
農村育ちの遠山凛は、幼い頃から友だちとさまざまな活動に参加し、学校の体育の成績も抜きん出ていた。東京都内の大学に合格できたのも、スポーツ推薦のおかげだ。
だから自身の力にはかなり自信があり、両手で隙間をしっかり掴んで少し力を込めると、蓋はあっさりと持ち上がった。幸い、この蓋はそれほど重くもなく、開けると中には確かに子猫の姿があった。
しかし子猫は、思わぬ訪問者に怯えているようで、遠山凛に向かって鋭い声で鳴き、毛を逆立て、背中を弓のように丸めていた。
「もう大丈夫よ」と遠山凛が穏やかに呼びかけると、不思議なことに子猫の心は静かな温もりに包まれたかのように動きを変え、すぐに鳴きやんだ。
子猫はゆっくりと遠山凛の方へ近づいてきた。下水溝の深さ自体はそれほどでもなかったので、遠山凛はそっと抱き上げ、白猫の母親のそばへそっと下ろした。白猫は遠山凛の足元でしきりにスリスリと擦り寄り、親しみを示したあと、子どもを連れてそそくさと去っていった。
「ちょっと待って」
遠山凛は何かを思いつき、去ろうとする白猫母子に軽く声をかけた。母子は呼びかけに応じて立ち止まり、振り返って遠山凛を見つめた。遠山凛はリュックから小さなパンを取り出し、包装をそっと破って、それを白猫母子に差し伸べてみた。
「きっとお腹が空いてるでしょう?どうぞこれをお持ち帰りください」
子猫は小さく二度ほど鳴き、空腹を訴えた。白猫の母親は遠山凛の手元をそっと嗅ぎ、そのままぱくりと一口でパンを奪い取ると、子どもとともに路地の奥へと消えていった。
「これからは、ちゃんと子どもを見守ってあげてね」
白猫母子の後ろ姿を見送りながら、遠山凛は胸の内でほっと安堵した。助けを必要としていた母親に、自分の子どもを取り戻す手助けができてよかった。もし自分が何もしなければ、あの子猫はいつ救われるのかもわからないままだったかもしれない。
遠山凛は腕時計に目をやり、時刻は九時三十分。登校の集合時間である十時まではまだ余裕がある。
そのとき、路地の静けさを急に破るような足音が響いた。黒い影がいくつか、路地の奥から猛然と現れ、前方を俊敏に逃げる一人の少女を追いかけている。追われる少女は黒い服に黒いマスクをし、身のこなしは非常に軽やかで、明らかに訓練を受けた者のようだ。
急な出来事に遠山凛は茫然と立ち尽くし、頭の中は真っ白になった。とっさに脇へ避けようとしたが、身体はまるで魔法にでもかかったかのように、少女の行く手を遮ってしまう。閃光のように飛び込んできた事件に脳がフリーズし、何をすべきかまったくわからなくなってしまったのだ。
ほどなくして、少女が迫ってきた。小麦色の肌に黒いマスクをしたその姿は、遠山凛が愛読するマンガ『怪盗少女クロエ』の主人公クロエによく似ていた。
「どけ!」と叫ぶ仮面の少女の声には、息切れと焦りが滲んでいる。
しかし、この場の圧倒的な雰囲気に遠山凛は完全に動揺し、少女の言うとおりに従おうとしても、身体が言うことをきいてくれない。
少女はますます迫ってくる。
「どけ!」と少女は苛立たしげに繰り返した。
少女は走るのをやめず、もうすぐ遠山凛にぶつかってしまう。
一瞬のうちに、遠山凛の脳は激しく駆け巡り、そして冷酷な行動を起こした。
反対側の手で、青白く光るナイフを抜き、目の前に立ちふさがる、まだ事態を理解していない無辜の少女めがけて、一気に刺し込んだ。
チュッと鈍い音が響き、冷たい刃が遠山凛の温かい肉体に突き刺さる。激しい痛みが瞬時に全身を襲い、彼女は信じられない思いで俯き、腹部に深々と刺さった刃と、たちまち染み広がる鮮血を見つめた。
「私を恨まないで」
これが少女が姿を消す直前に放った最後の言葉であり、遠山凛が耳にした最後の音でもあった。
やがて少女と追手たちの足音は遠ざかり、遠山凛の身体は崩れ落ち、傷口から流れる血が地面を赤く染めた。
遠山凛の意識は次第にぼんやりと霞み始め、今日は学校への初登校の日。やりたいことも、会いたいクラスメイトも、もっと仲良くなりたい友だちもたくさんいるというのに、彼女の命はこの一日だけで終わろうとしている。
この暗い路地では、誰も助けてはくれないだろう。そう思うと、遠山凛の胸は一気に悲しみに沈んだ。
無力感に打ちのめされ、絶え間なく出血する遠山凛。どれくらいの時間が過ぎたのか、体温がどんどん奪われ、意識が体内から抜け落ちていくのを感じる。
五感も次第に失われ、視界はぼんやりと霞み、焦点が定まらなくなる。そんな朦朧とした視界の中で、彼女は謎めいた黒衣の人物を目撃した。
黒衣の男は片隅に立ち、孤独で無力な遠山凛を静かに見守っていた。
遠山凛は彼に助けを求めようと口を開いたが、喉まで出かかった言葉はついにひとつも紡ぎ出せず、そしてその謎の黒衣の男は忽然と姿を消し、ついには視覚機能すら失われ、目の前は漆黒の闇だけとなった。
どれほど時間が過ぎたのか――やがて遠山凛の耳に、かすかな声が届いた。
「見て!人が倒れてる!」
「早く病院へ運んで!急いで!」
遠山凛は、想像していたほど不幸ではなかったらしい。やはり彼女を見つけてくれる人はいたのだ。
「おい!大丈夫か!」
「救急電話をかけるぞ!」
彼女を見つけた通行人たちが、必死に助けようとしている。だが遠山凛は、最後まで残っていた聴覚以外の感覚機能をすでにすべて失っており、通行人の呼びかけや救急車のサイレンが響いても、もう何の反応もできなかった。
「もう、私は助からないのかも……」
絶望的な思いが遠山凛の胸の奥底から湧き上がり、やがて彼女の意識は混沌へと陥った。




