人食
鞠子の最初の授業まで、まだあと三十分もある。彼女はその場に立ち尽くしていた。
頭の中で蘇る恐ろしい映像に、今も心臓が高鳴る。あの女の言葉はすべて本当だった。しかも、学校の中には虚界少女たちが存在しているというのだ。
虚界少女たちは互いに殺し合い、相手の刻印を奪ってこそ生き延びられる。自分に、他人の命を奪う覚悟があるだろうか?
もし誰かを殺さなければ、刻印が尽きた瞬間に死んでしまう。自分が死んだら、優子はどうなる?両親は優子の治療費だけで心身ともに疲れ果てているのに、さらに自分まで失ったら、きっと壊れてしまう……。
そのとき、鞠子のそばを何人もの少女たちが笑いながら談笑しながら、教室棟へと向かっていった。だが今の鞠子には、彼女たちの明るい笑顔さえどこか恐ろしく感じられる。次の瞬間、誰かがにこやかな顔でこちらへ駆け寄ってきて、「見ちゃったよ、あなたが虚界少女なんでしょ? 殺してあげるね」と言われるかもしれないのだから。
掌にある刻印を眺めながら、鞠子の胸中は不安でいっぱいだった。
ふと、校門のところで出会った受け付けの先生・三原楓のことを思い出す。彼女は「何かあったら保健室で助けを求めなさい」と言ってくれた。ならば、彼女に頼んで欠席届を書いてもらい、とりあえずここから逃げてしまおう――。
しかしすぐに考え直す。一時だけなら逃げ切れたとしても、一生隠し通せるわけがない。頻繁に欠席ばかりしていては、いつしかみんなに異変に気づかれ、かえって身元がバレてしまうだろう。
そう思ったとき、ひらめいた。虚界少女どうしは刻印で互いの正体を確かめ合っているのだとしたら――だったら、刻印をうまく隠す方法を見つけてしまえばいいのではないか! そうすれば、ほかの誰にも見破られずに済むはずだ。
鞠子は足早に走り出した。右手の拳をきつく握りしめ、周囲の様子を慎重に窺いながら――あの女は、この学校に虚界少女がいると口にしていた。もし彼女が狩人なら、絶対に見つかるわけにはいかない。それに、校門で三原楓は「私は刻印が見えない」と言っていた。彼女はきっと、虚界少女ではないはずだ。
保健室では、三原楓が資料を整理していた。そのとき、急な開け閉めの音が響き、宮野鞠子が息を切らせて飛び込んできた。顔には強い恐怖と不安の色が浮かんでいる。
「宮野さん? どうしたの? こんなに息切れして」
「三原先生、友達の手が切れていて……包帯とガーゼを貸してください!」鞠子は焦った様子で訴えた。まるで一刻も猶予がないかのように。
「落ち着いて、すぐに出すわね」三原楓は素早く棚を開け、救急用品をまとめて鞠子に渡した。
「ありがとうございます、先生! じゃあ、失礼します!」鞠子は必要なものを手にして、保健室を後にした。
「気をつけて、転ばないようにね」
救急用品を手に入れると、彼女は次に校内の売店へと向かった。売店の店主は六十を過ぎたお婆さんで、生徒たちは皆「椿おばあちゃん」と呼んでいる。足腰が少し不自由だが、孫娘も同じ学校に通っていて、昼休みのような忙しい時間帯には孫が手伝いに来ることも多いそうだ。
幸い今日は休日で、登校している生徒はそれほど多くない。おばあちゃんは一人で売店に座り、ラジオを聴いていた。
「こんにちは!」鞠子は店内に向かって声をかけた。
「若い子、何かいる?」
「赤インク、ペン用のを一本ください」
「わかったわ、ちょっと待ってね」
椿おばあちゃんは椅子から震える手でゆっくりと立ち上がり、奥の棚へと少しずつ近づいていく。赤インクは高い位置に並べられており、おばあちゃんの背丈ではどうしても届かない。普段の登校日なら、孫が代わりに取ってくれるのだが、今日は孫もいない。
届かないとわかると、おばあちゃんは道具置き場へ行って脚立を取りに行く。売店はガラス越しに生徒たちと隔てられており、生徒はカウンター内には入れないので、鞠子は外でじっと待ち続けるしかなかった。
鞠子は窓の外に立ち、時折周囲をきょろきょろと見回す。内心は焦っているものの、あまり急かすのも悪い。年配の方は急かすと転んでしまったりするからだ。
しばらくして、おばあちゃんが赤インクを持って戻ってきた。鞠子は窓口に料金を差し出し、おばあちゃんはそれを受け取ってレジを開け、お釣りを出そうとした。ところが鞠子は手を振って断った。
「お釣りは結構です、失礼します!」
鞠子はそう言うと、風のように外へと駆け出した。
「危ないわよ、若い子!」椿おばあちゃんが遠ざかる鞠子に呼びかけるが、彼女の足取りは一向に緩む気配がない。
鞠子は人ひと気けの少ない一室へと移動した。普段はほとんど誰も来ない部屋だ。彼女は右手に包みと赤インクを持ち、手際よく作業を進める。ほどなくして、赤インクと包帯を使って、右手が怪我をしているように見せかける偽装が完成した。
自分の“力作”を眺め、鞠子の気持ちもずいぶん落ち着いた。これなら誰かに会っても、ただ手を怪我しただけと思われて、余計な詮索はされないはずだ。
鞠子はゆっくりと立ち上がり、左手で服についた埃を払った。これからは右手をできるだけ使わず、本当に怪我しているように見せなければならない。
鞠子は中学時代、右手を骨折したことがある。ちょうど試験期間中で、授業のペースに遅れないよう、左手での筆記を必死に練習した。今では左右どちらでも器用に書けるようになった。
携帯電話で時間を確認すると、授業開始まであと二十分。会場は校舎の中でも西洋風の建物にあるマルチメディア教室だ。
教室へ向かう途中、電子ノート片手に道を探している少女がいたが、鞠子は急いでいたため彼女には気づかなかった。
校舎の入り口で、淡い赤毛の女の子を見つける。クラスメイトたちと楽しそうに話しながら歩いている。愛想のよい笑顔、潤んだ大きな瞳がきらめいている。
「美空、相変わらず元気だなあ」鞠子は美空の方へ小さくつぶやいた。
鞠子と美空は同じ高校の同級生だった。家計を助けるためにアルバイトをしなければならず、三年間を通じて友人もできず、部活動にも参加せず、毎日放課後はひとりで病院へ行き、優子の世話をしていた。一方、美空は学校きっての優等生であり、人望も厚かった。
成績は同じく優秀でも、鞠子はいつも人混みから距離を置いていた。すべては妹のためとはいえ、寂しさを感じることもしばしばだった。だからこそ、ずっと美空に憧れてきたのだ。幸い二人は同じ大学に合格し、ここでなら、美空と友達になり、楽しいキャンパスライフを共に過ごせるかもしれない。
美空の腕には水晶の腕時計が光っている。鞠子が高校で初めて彼女を見たときから、それはずっと彼女の手についていた。聞くところによれば、これは美空の亡くなった父親が遺したものだという。父は配達員で、美空の誕生日に腕時計をプレゼントしようとしていた。ところが、ある日の配達中に交通事故に遭い、車ごと崖下へと落ちてしまった。現場からは、未遂のまま残されたその腕時計だけが見つかり、ほかには何も発見されなかった。
鞠子は思わず美空の方へ視線を向けたまま、ぼんやりと考え込んでいた。すると、前を行く美空がこちらに視線を感じたのか、ふと振り返ったが、特に何も見つからない。
「美空、どうしたの?」
「なんでもない、気のせいかも。さっき誰かに見られてた気がして」
「美空をこっそり見るなんて、もしかして密かに好きなの?」
「美空みたいな高校時代の優秀な子なら、きっとたくさんの人が密かに恋してるよね。羨ましいなあ」
美空の周りに集まった少女たちが話し始めた。
「好きな人?」美空はうつむき、何かを考え込むような表情をする。
それが本当に“好き”なのかはわからないけれど、美空の胸の内には、ずっと気にかかっている人がいる。
高校時代、彼女が特別に意識していたのは、宮野鞠子という女の子だった。当時、美空はクラス委員兼クラブの部長で、成績も人望も抜群だったので、ほとんどの学校行事を任されていた。担任もクラスメイトも彼女に大きな期待を寄せていた。担任教師は「うまくやれば、学校推薦枠をもらえるよ」とも言ってくれた。
美空は家庭の事情をよくわかっていた。推薦枠で良い学校へ進学できれば、将来の生活に大きく役立つ。だから断ることなく、毎日クラスとクラブの両方で忙しく働いていた。
鞠子を見かけたのは、高校の校門の前だった。バックパックを背負って校庭を駆け抜けていた鞠子が、突然一人の少女とぶつかった。だが鞠子はその子を起こすこともせず、謝ってすぐに立ち去ってしまった。それを目にした美空が、自らその少女を介抱したのだ。
その少女は美空にこう告げた。「私を倒したのは、三組の宮野鞠子。変わった子で、友達もいないし、部活にも入ってない。毎日放課後はバタバタと学校を出て、何をしているのかわからないみたい」
しかし、鞠子の去っていく背中を見つめながら、美空は別のことを考えていた。友達がいなければ、人間関係の煩わしさに縛られることもない。自由な鳥のように、誰の目も気にせず大空を翔けることができる。一方で自分は、日々の些末なしがらみから抜け出せずにいるのだ。
だからこそ、芹沢美空は宮野鞠子に憧れ続けてきた。彼女にとって、鞠子は決して変わった子などではなく、心から追い求める自由の魂だった。
「美空、どうしたの?」一人の少女が美空の様子の異変に気づき、そっと肩を叩いた。
「ああ、なんでもないわ」美空は微笑んで答えた。
「じゃあ、先に教室に入ってるね! 後でね!」
「またね!」
少女たちと別れ、美空は再びさっき視線を感じた方向へ目をやった。そこには鞠子が木の陰に隠れ、そっと胸を押さえていた。
なぜ美空が自分を見つめた途端、無意識に身を隠してしまうのだろう? 自分でも理由はよくわからない。
マルチメディア教室に着くと、すでに学生がかなり集まっていた。今日の授業は、学内で最も有名な竹内先生による現代文学の講義だ。知的で品のある女性教師で、文学的な深みとユーモアを兼ね備え、学生からの人気が非常に高く、毎回開講と同時に満席になるほどの盛況ぶりである。
鞠子は教室の隅に座り、次々と入ってくる人々を眺めていた。そのとき、隣に一人の影が現れ、教科書を机に置き、そのまま静かに腰を下ろした。鞠子がそちらへ視線を向けると、薄紅色の髪の少女がそこにいた。
鞠子は一目でそれが美空だと気づいた。隣に座る姿を見て、思わずぽかんと口を開けてしまう。
「どうしたの? ここに誰かいるの?」美空が尋ねた。
「えっと……あの……」鞠子は一瞬、言葉に詰まり、しどろもどろになった。
「やっぱり……誰かいるの?」美空の瞳が少し翳り、教科書を手に取って立ち上がろうとする。
「いいえ、いません」鞠子は慌てて言い直し、美空を引き留めようとした。
美空はそれを聞いて、再び腰を下ろした。
「あなたは……」美空は鞠子を見つめ、「高校三組の宮野鞠子さんですね」と言った。
「はい……そうです」鞠子は驚いた。まさか名前まで知られているとは。
「私は芹沢美空と言います。ここで会えるなんて、嬉しいわ」美空は穏やかな笑顔を見せたが、鞠子の顔はなぜか真っ赤になってしまった。
授業開始までまだ少し時間があったので、二人の少女は雑談を始めた。鞠子は、美空が片親の家庭で育ち、父親が事故で亡くなり、今は母と二人で暮らしていることを知った。母親は多忙で、重い腰痛持ちなので、卒業後は早く良い仕事を見つけて、母の負担を少しでも減らしたいと願っているという。
鞠子も、自分と妹・優子の物語を語った。妹のことを聞いた美空は、すぐに深い同情と励ましの眼差しを示してくれた。その温かさに、鞠子は胸がじんと熱くなる。
「家族のために、私たちも頑張らないといけないのね」
「そうね、本当に」
「あなたの手? 怪我してるの?」美空は鞠子の包帯を巻いた右手に目をやった。
「ああ、料理をしてるときに誤って手を切ってしまって、ちょっと応急処置しただけよ」鞠子は即座に答えた。
「そうだったのね」美空は鞠子の包帯と赤インクで偽装された血痕をじっくり見て、納得したようだった。
定刻になると、授業開始のベルが鳴り、教室は一瞬で静まり返った。竹内先生が教壇へ上がり、出席番号を尋ねると、美空が手を挙げて前に出た。
竹内先生は授業で使う資料を美空に渡し、クラスメイトに配布してもらう。続いてプロジェクターを起動し、授業が始まった。
授業の内容は近現代文学。比較的地味で退屈なテーマだが、竹内先生の巧みな語りによって、まったく眠くならないどころか、むしろとても面白い。
鞠子は竹内先生の軽妙な語りに耳を傾けながら、時折隣の美空を横目で観察する。美空は左手で頬杖をつき、もう一方の手で素早くメモを取っていた。
鞠子も左手でノートに要点を書き留めていたが、久しく左利きの練習をしていないため、なかなか思うようにいかない。授業が進むにつれ、竹内先生のペースについていけなくなってきて、せっかちな性格もあって、何度か「怪我したふり」の右手で書き直そうとしたが、結局ぐっと我慢した。
「では、一人の学生にこの問題を答えてもらいましょう」竹内先生はクラスとのインタラクティブなやり取りに入った。
「では、クラスの出席番号で決めましょう」竹内先生はにっこりと笑い、パソコンでランダムに番号を選ぶソフトを起動した。画面の数字がくるくる回り始めると、教室中の空気が一気に緊張する。
竹内先生が一瞬で停止ボタンを押し、最後に止まった番号は二十四番――つまり宮野鞠子の番号だった。鞠子は少し戸惑い気味だ。
「宮野さん、この問題を答えてください」竹内先生は呆然とする鞠子に問いかけた。
唐突な質問に、立ち上がった鞠子は完全にとっさの状態だった。
「先ほど魯迅の『狂人日記』についてお話ししましたね。では、教材の続きを読み進めてください」
「えっと……あの……」
「歴史を調べてみます」隣の美空が鞠子に助け舟を出した。小声でヒントを与え、鞠子はその指示で内容を導き出した。
「歴史を紐解いてみると、年代すら定かでない。歪んだページのひとつひとつに『仁義道徳』と書かれている。夜も眠れず、真夜中までじっくり読んだら、文字の隙間からようやく見えてきた。全体を通して、ただ一つの言葉が繰り返されている――『人食い』だ!」
美空のおかげで、鞠子は無事に竹内先生の抜き打ちチェックを乗り越え、胸を撫で下ろした。ところが、席に戻ろうとした瞬間、足元が滑って転びそうになる。とっさに「怪我したふり」の右手で地面を支え、すぐに右手を押さえたが、やはり一拍遅れてしまった。その様子は、隣にいた美空の目の前で完璧に見届けられた。
「大丈夫?」美空が心配そうに尋ねた。
「ええ……大丈夫です」鞠子は照れくさそうに笑い、席へ戻った。
「素晴らしい。宮野さんはきちんと話を聞いていましたね。魯迅といえば中国を代表する文豪で、皆さんも馴染みがあるでしょう。中学校の授業でも彼の作品を学びました。今回の『狂人日記』は彼の最初の白話小説で、中国の文学雑誌『新青年』に掲載されました。この作品では、魯迅が“狂人”の視点を通して、封建的な礼儀作法がいかに“人食い”の本質を持っているかを暴いています。宮野さんが先ほど暗唱したのは、まさにその中でも最も有名な一節であり、本文の核心となる部分です」
「人間が人間を食べるの?」美空はその言葉を噛み締め、視線を自分の右手へと落とした。
授業がようやく終わり、学生たちは教室を出て校門へと向かう。一方、鞠子は逆方向へ――人通りの少ない裏門へと進んだ。だが彼女は知らない。美空がそっとその後を追っていることを。
教室棟の裏門を抜け、側門へと向かおうとしたそのとき、突然、背後から手が伸びてきた。鞠子が振り返ると、芹沢美空が立っていた。彼女は鞠子の右手をしっかりと掴み、まるで命綱をつかむかのように。
「宮野さん、あなたの右手は……?」美空が疑問を投げかけた。
「右手?」鞠子が聞き返す。
「あなたの右手、全然怪我なんかしてないじゃない。どういうことか教えてくれませんか?」美空は冷ややかに言った。
鞠子は嫌な予感に襲われ、すぐに美空の手を振りほどこうとした。しかし美空はなおも鞠子の右手を固く握りしめたまま離さない。
「離して!」鞠子が叫んでも、美空はまるで聞こえないかのように無反応。
鞠子は思い切り後ろへ引くと、勢い余って床に尻餅をついた。巻いていた包帯も一緒に落ち、右手の掌には黄色い刻印が露わになった。
「あなた、やっぱり『虚界少女』だったのね!」
まさか、美空が例の女が言っていたあの虚界少女だったなんて? 鞠子はその結果に驚きを隠せない。でも、授業中には彼女の体に刻印なんて見当たらなかったはずだ。
美空は右手を広げてみせた。肌はきれいに整い、刻印の痕跡は何もない。だが、化粧水で拭き取ると、角にわずかに残っていた黄色い印が現れる。しかも、その痕はほんの一部にすぎないため、コンシーラーで簡単に隠してしまえる程度だった。そして今、刻印がほとんど残っていないということは、彼女自身が虚界少女としての命をほぼ終えつつあることを意味しているのだ。




