囚鳥
病院の細長い廊下の突き当たりに、小さな病室がある。ベッドにはやせ細った少女が横たわっており、その肌は病的な白さを帯びていた。
ベッド脇のナイトテーブルには漫画本が散らばり、どれも深く折れ曲がった痕が残っている。今、少女はぼんやりと天井を見つめていた。長らく寝たきりの患者にとって、病院の天井はいつまで読んでも終わらない天書のようなものだ。意味は分からなくても、ときにはどうしても目を向けざるを得ないのだ。
窓の外に二羽のシンチラが舞い降りて、チュンチュンと何やら囀っている。少女は窓の外へ視線を向け、手をそっと差し伸べて指を二本立て、鳥たちが自分の手に乗ってくれることを願った。
だが、鳥にそんな少女の祈りが通じるはずもなく、彼女の方へ一瞬だけ目をやってから、それぞれの方向へ飛び立ち、広い空へと消えていった。
シンチラが去ったあと、少女の瞳は少しだけ翳りを増した。鳥たちは生まれながらにして自由に空を舞う翼を持ち、青空を心ゆくまで駆け巡ることができる。
一方で、彼女は翼を折られた一羽の鳥のように、病室という名の檻に閉じ込められ、ただ窓の外の空を眺めては、切なげにため息をつくばかりだった。
少女は窓の外へ伸ばしていた手を引っ込めなかった。屋外の陽光が彼女の青白い手を照らし、やがて身体にじんわりと温もりが広がっていく。太陽の光は体を温めてくれても、彼女の寂しい心までは癒してくれない。
彼女はさらに病室の扉へと視線を向け、何か別の期待を抱いているようだった。
「お姉ちゃん、いつ来てくれるの?」
「パタン」
見事な音とともに病室のドアが開き、そこに一人の少女が立っていた。手には包装されたままの漫画が握られている。
「鞠子お姉ちゃん!」ベッドの少女は彼女を見るなり、久しぶりの笑顔を浮かべ、先ほどの陰りはすっかり消え去った。
「優子!」鞠子は急いで病気の優子のもとへ駆け寄り、「元気にしてた? 医者さんや看護師さんの言うこと、ちゃんと聞いてた?」と問いかける。
「うん、元気だよ、お姉ちゃん。あのね……」優子は期待に満ちた眼差しで、鞠子の手にある最新刊の漫画を見つめ、まるで餌を待つ小動物のようだ。
「はいはい、これよ」と鞠子は『怪盗少女クロエ』の漫画を妹に渡す。優子は宝物でも手にしたかのように喜び、すぐに礼を言って、待ちきれない様子でページをめくり始めた。鞠子はベッドの端に腰かけ、漫画の世界に夢中になっている妹の横顔を静かに見つめながら、胸の内では苦い思いを募らせていた。
妹の宮野優子はこの病室にいつからいるのかさえ分からないほど長い間、ここに暮らしている。両親は手術費用を稼ぐため朝早くから夜遅くまで働き、優子に会いに来る暇もない。高校生になった鞠子自身も家計を助けるためにアルバイトと学校の両立に追われている。優子は『怪盗少女クロエ』という漫画が大好きで、毎回鞠子に最新刊を持ってきてもらうのを楽しみにしている。
しかし、その作者は体調を崩しがちで、しばしば休載してしまう。休載のたびに、鞠子は書店でほかの漫画を買うのだが、どんな作品が面白いのかよく分からず、適当に選ぶしかない。そして、鞠子が持ってきたどんな本でも、優子は興味がなくても必ず目を通すのだ。なぜなら、優子にとって漫画を読むことは、病の痛みをひととき忘れさせてくれる唯一の方法だからだ。
「もし私がいなくなってしまったら、優子はどうすればいいんだろう?」鞠子は妹の集中する横顔を見つめ、複雑な思いに包まれた。
彼女は俯いて右手の掌を見つめ、小さく呟いた。「ごめんね、美空。優子のために、私は生き抜かなきゃいけないんだ。」
そう、宮野鞠子もまた虚界の少女だった。では、彼女がなぜ虚界の少女となったのか――それは数日前にさかのぼる。
当時、彼女は優子に漫画を届けようと歩いている最中、道路脇で信号待ちをしていた。青信号に変わったのを見て、周囲に車が来ていないのを見極め、横断歩道を渡って病院へ向かった。
道路の真ん中まで来たとき、自動車レーンから猛スピードでGTRが飛んできた。突然現れたかのようなその車は、鞠子めがけて凄まじい勢いで迫り、彼女は身をかわす間もなく、ただ目を閉じて車にぶつかるのを覚悟した。
ところがしばらくしても、想像していたような激痛は走らず、目を開けると、自分が再び横断歩道の中に戻っていることに気づいた。そして、あのGTRは路肩のガードレールに激突して大破していた。
鞠子は恐る恐るそのGTRに近づき、フロント部分は完全に凹み、運転席の中は空っぽで、わずかな砂粒が散らばっているだけだった。
同夜、鞠子は風呂場で入浴しようと服を脱ぎ、着替え用の鏡の前で自分の身体を確認した。全身を隅々まで観察するが、どこにも異常はない。あのGTRはまっすぐ自分めがけて突進してきたはずなのに、避ける余地などなかったはずだ。それなのに、彼女は無傷のままここで湯を浴びている。
「もしかして、あれは私の幻だったのだろうか?」鞠子はとりあえずそう考え、浴室へ足を踏み入れて蛇口の水で身体を洗い流した。
すると突然、右手の掌に黄色い印が浮かび上がった。鞠子は驚いて蛇口の水量を最大に上げ、必死でそれを洗い落とそうとするが、いくら洗ってもその黄い印は消えない。
そのとき、浴室の明かりが一斉に消え、一瞬の闇に鞠子は戸惑った。
「停電かな?」
手をタオルで拭き、シャワールームから出てメインブレーカーを探そうとした瞬間、腰を二つの手がそっと抱きしめた。その手はすべすべとして滑らかで、明らかに女性の手だ。だが冷たさが尋常ではなく、抱きしめられた途端、鞠子は思わず身震いした。
その女性は鞠子の肩に頭を寄せ、耳元でそっと囁いた。「やっとあなたを見つけたわ。」
「あなた……誰なの?」不穏な気配に全身を包まれ、鞠子は振り返ることもできず、慌てて背後の相手に問いかけた。
「ふん……」女性は甘い吐息をひとつ漏らすと、すぐに手を離した。
浴室の照明も復旧し、鞠子が振り返っても、後ろには何もいない。
いったいさっきは何が起きたのか? あの女性はどうやって自宅に入ってきたのだろう? 戸締まりはしっかりしていたはずだし、浴室に人を隠せるような場所もない。
彼女は急いで風呂場を出て、リビングや寝室のドアや窓を調べたが、すべてきちんと施錠されていた。
「やっぱりあれは幻だったのかしら?」
深夜、鞠子は眠りから覚めた。枕元の時計は午前三時半を示しているが、身体はまったく動かない。以前聞いた話だと、こういう状態は俗に「金縛り」と呼ばれるらしい。
部屋の中は静まり返り、秒針の音すら聞こえない。鞠子は視線を彷徨わせ、気がつけば部屋のドアが開いているのに気づいた。
寝るときは確かに閉めていたはずなのに、どうして今さら開いているのだろう? もしかしたらあの女性の仕業? 彼女はどこかで私を見張っているの?
「ふん……」部屋から甘い吐息が聞こえ、鞠子ははっとした。「あの女性は確かに部屋の中にいる!」
それでも身体は動かせず、視界のなかに人の姿は見えない。不穏な空気が漂い、胸の奥がつかえたように感じられて、息が吸い上げられない。
「いったい私に何をしようっていうの?」と焦る鞠子。
しかし女性は特に悪意を持っているわけではなく、しばらく経つと鞠子の胸の緊張も和らいで、不穏な気配も消えた。どうやら彼女はただ騒がせてみただけで、すでに去ってしまったようだ。
女性が去ったあと、鞠子には強い睡魔が襲い、やがて瞼を閉じて夢の中へと沈んでいった。
夜が明け、鞠子が目を覚ますと、昨夜の「金縛り」のあとは何も起こっていない。部屋の周囲を確かめても、すべてが元通りで、ドアも閉まったまま。彼女は「金縛り」のあとそのまま朝まで眠り続け、起き上がって鍵をかけることもしなかった。
「やっぱり私の幻だったのかしら? 最近、どうしてこんなに幻が多いの?」と首を傾げる。
掌を広げると、黄色い印は依然として存在しているが、角の一部が欠けてしまっていた。
「この印はどうしてまだ残ってるの? いったいこれは何なの? 全てが偽物なのに、この印だけが本物ってどういうこと?」と疑念が湧く。
内心で戸惑いながらも、時計を見ればもう時間は遅く、授業に出なければならない。
学校へ向かう道すじで、鞠子は黄色い印を気にしながら歩き、どこか茫然とした表情を浮かべていた。今日は休日で、学校は生徒たちにさまざまな選択肢のある課外活動を用意している。生徒たちは自分の興味に応じて好きな講座を選択でき、さらに単位ももらえる。
生徒たちは制服姿で三々五々正門から校内へと入っていき、休日なのに登校することへの不満など微塵もなく、楽しそうに談笑している。きっと、自分の興味ある講座で、しかも単位までもらえるからだろう。
鞠子も人混みに紛れて校門へと進み、右手の拳を固く握り、黄色い印をしっかりと隠した。この印が何か悪いことを引き起こしそうな予感がしていたのだ。
「こんにちは、宮野さん」と校門で迎える先生が鞠子に声をかける。
「こんにちは、三原先生」と鞠子は素っ気なく返し、目つきは冴えない。
「何か悩みがあるみたいですね? 困ったことがあったら、いつでも先生に相談してください」と三原楓先生――学校の保健室主任――は鞠子の様子の異変に敏感に気づき、気遣って声をかけた。
「別に……」と鞠子は答えるが、視線は自然と右手へと逸れてしまう。
三原楓先生は鞠子の奇妙な挙動に気づき、さらに問い質した。「右手に何か問題があるのですか? 見せてもらえますか?」
「本当に何もないってば! 私のことなんか放っておいてよ!」と不機嫌に叫ぶ鞠子。すぐに逃げ出そうとする。
しかし、何かを隠そうとすればするほど、かえってそれが露呈してしまうものだ。
三原楓先生はすかさず鞠子の右手を掴み、彼女を引き戻した。
「離してよ! 早く離して!」と暴れる鞠子だが、三原楓先生はまるで聞こえないかのように平然としている。
「失礼しました」と小さく謝罪し、鞠子が固く握りしめた右手をゆっくりと開いてみると、掌の中には何もなかった。
「あなたの右手には何もありませんよ?」
「何もなんて、あり得ません!」と驚く鞠子。
「もし公の場で言いにくい困ったことがあったら、いつでも私の保健室に来てください」
「ありがとうございます、三原先生。でも、単に寝不足でちょっとイライラしてるだけなんです」と鞠子は三原楓先生に謝り、急ぎ教学棟へと向かった。
三原楓先生は鞠子の後ろ姿を見送りながら、内心ではなおも疑問を抱いていたが、これ以上追及することはなく、ただ黙って記録に留めた。
校内へ入ると、鞠子の気持ちもずいぶん楽になり、何度か深呼吸をして、少しでも落ち着こうとした。ところがそのとき、周囲のすべてが突如として凍りついた。風に揺れていた木の枝は動きを止め、空を飛んでいた小鳥も宙に静止し、道を歩いていた女子生徒たちも教室へ向かう足を止めた。
自分自身も動けなくなり、意識だけが残った状態で、胸の奥が詰まったように息が吸い上げられない。鞠子はふと、この状態が昨夜の「金縛り」と同じだと気づき、昨日のあれは「金縛り」などではなく、何かの力が時間を停止させたのだと理解した。
なぜ周囲のすべてが止まってしまったのか?
疑問が渦巻くなか、紫色のコートを羽織った紫髪の女性が忽然と彼女の前に現れた。
「宮野鞠子さん、こんにちは」と彼女は鞠子に挨拶した。
その言葉が終わるや否や、彼女は鞠子の右手を掴み上げた。女性の手は骨まで凍るほど冷たく、鞠子は一瞬で悟った。昨夜自分をからかった相手だ。
女性は鞠子の掌をゆっくりと広げ、「あなたは虚界の少女になったようですよ」と告げた。
「虚界の少女って、何ですか?」鞠子はようやく口が利けるようになり、思わず尋ねた。
「『王』に選ばれ、一度死んで蘇った少女のことです。あなたの掌にあるあの黄色い印こそ、『王』の証なのです」
死んで蘇る? ということは、あのGTRは本当に自分を轢き殺したのだろうか?
瞬間、頭の中に短い映像がフラッシュバックし、胃がぐるぐると煮え立ち、吐き気さえこみ上げてきた。
「なるほど、理解できたようですね」と女性は微笑んだ。
「ではこれからゲームのルールをお教えしましょう。虚界の少女となったあなたは、『王』の印を持つほかの虚界の少女たちを探し出し、彼女たちを倒してその印を奪い、自分自身が生き延びなければなりません。さもないと、あなたの印のエネルギーが尽きたとき、本当の二度目の死を迎えることになりますよ」と女性は淡々と語った。まるで何でもない日常の出来事のように。
ゲーム? この残酷な行為を彼女はただのゲームと呼ぶのか? 人命を何だと思っているのだろう?
女性は鞠子の疑念を読み取り、「そもそもあなたたちは一度死んでいるのですから、死はあなたの始点であり終点でもあります。あなたたちにとっては、ただ根源へと還るだけのことなのです」と説いた。
そして彼女は爪で鞠子の右手に呪文の一節を刻み込み、鞠子の頭には奇怪な詠唱が響き渡った。
「この呪文は異次元の空間を開きます。『王』があなたたちのために用意した戦場です。この空間に入れば、誰にもあなたの行動は知られません。それから、これも……」女性は懐からナイフを取り出し、動けない鞠子の右手にそっと差し込んだ。「あなたは『王』に選ばれた『狩人』です。これはあなたの武器。虚界の少女全員が『狩人』になれるわけではありません。なかには『逃亡者』もいます。彼女たちは武器を持たず、『狩人』の追跡に対しては素手で戦うか、逃げるしかありません。
『狩人」は『王』に謁見できる唯一の存在です。そして私は、あなたたち『狩人』の案内役。幸運にも『王』に会えれば、あなたは二度目の命を与えられます。ただし、二人の『狩人』が出会ってしまったら、互いに死ぬまで戦うことになります」
女性は指先で鞠子の顎をそっと持ち上げ、じっくりと彼女を観察した。やがて身をかがめて鞠子を腕の中にすっぽりと抱きしめ、鞠子の頭は彼女の胸板に預けられ、規則正しい鼓動を感じた。
彼女は鞠子の耳元でささやいた。「あなたみたいに可愛い子は私も大好きよ。こんなに早く死んでほしくないわ。ひとつだけ教えてあげましょう。この学校には虚界の少女がいるの。ぜひ探してみて。でも結局、見つかるのが『狩人』なのか『逃亡者』なのかは、あなたの運次第よ」
鞠子は抱かれながらも、身体は動かず、動くことも許されない。女性の体温は彼女には一切伝わらず、全身が恐怖に包まれた。
しばらくして女性は鞠子を解放し、背を向けて去っていった。凍りついていた時間も解け、鞠子が後ろを振り返っても、女性の姿はすでに消え失せていた。
女性が与えたナイフは黄色い印に吸収され、掌のなかへと溶け込んでしまった。鞠子は呆然とその場に立ち尽くし、これから一体どうすればよいのだろう? 本当に女性の言うとおり、他人を殺して『王』に会う資格を手に入れるべきなのか? それとも、黄色い印が消え、自分も根源へと還る二度目の死を迎えるのを待つべきなのか?




