1 春先の子の泣き声
ゴーヴァン公爵家にも春が訪れた。
3月の終わりにゴーヴァン公爵夫人であるヴィヴィアが男児を出産した。
子供の名はノエル。
ゴーヴァン公爵家の嫡男の誕生に王都の館にとどまらずモーガンの屋敷でも祝いの声が沸きだった。
王都の館にて出産をしたヴィヴィアはようやく起き上がれるようになり、生まれたばかりの赤児を抱き上げた。
「ノエル」
ぽつと名を呼ぶとヴィヴィアはじわりと熱くなるのを感じた。
ようやく会えた。
生まれた瞬間、泣き声を聞いてこの子だと思えた。
ノエルを想うと心の中でポッカリ穴が空いたような心地がして、ようやく埋まった感触がする。
赤児はとてもおとなしい子だった。
泣く時はお腹が空いた時、おむつが気持ち悪い時。
「こんな手がかからない赤児ははじめてです」
乳母が赤児を褒める。
ヴィヴィアの育児をサポートするために雇われた女性である。
「ですが、若様の面倒はしっかりさせていただきます」
乳母はでれでれになりながらノエルを見つめた。
乳母のいう通り、ノエルは赤児にしてはいい子すぎるのが気になる。
たまに周りをきょろきょろして警戒しているように見えるのは気のせいだろうか。
「奥様、新しい本を見つけてきました」
ノエル=アンジェが本を持ってきてくれた。
ヴィヴィアの侍女見習いのノエルである。子供が生まれたら混乱するためどうするかまずノエル自身に相談した。
「私はお子様と同じ名前で光栄ですが、奥様に変な気を使わせるのはいやです。改名しても構いません」
思い切りの良い決断にヴィヴィアは慌てた。
「あなたも大事なノエルだから、ノエルの名を奪いたくないわ」
色々考えた結果、複合名を考えた。
同じ名前の重複があまりに多く、複合名にしているのは珍しくない。
この国にもそうした名前の者はおり、海外には複合名がもっと多い国もある。
ノエル=アンジェ・マルタ。
それが彼女の新しい名前として登録された。
元の階層は苗字を持たない階級層である。
職業柄や地名で苗字ぽく名乗る者もいるが、戸籍上では苗字はない。
正式な苗字を認められるのは貴族が手続きして苗字を与えられた者、苗字のある者の家族になるかのどちらかである。
マルタは、クリスが苗字手続きをしたレディアンジェのパティシエの苗字である。
彼は快くシエル・ノエルを養子に迎えてくれた。
ノエルは照れ臭そうにしていたが、ヴィヴィアが自分の為に用意してくれた名前を喜んでいた。
彼女に名前を変える誘導をして心苦しさはあるが、当の本人は喜んでいるとシエルとケイトに言われて安心した。
ノエル=アンジェが持ってきた薬草学の本を手にとる。
最近勉強はご無沙汰だが、乳母とノエル=アンジェが赤児をみてくれるので自分の時間が持てる。
「すぅ」
ヴィヴィアが勉強し始めると見計らったように眠りについた。
「あれ、若様はおねむですか?」
ノエル=アンジェは首を傾げた。
せっかくおもちゃを持ってきたのになと残念そうにぽんぽんと肩を叩く。
まるでヴィヴィアの勉強の邪魔をしないように静かにしているようだ。
ありがたいのだが、不安になる。
「ヴィヴィア」
仕事を終えたクリスはヴィヴィアの元を訪れた。
まずはヴィヴィアの頬にキスをする。
そしてノエル=アンジェの側で眠っているノエルを見る。
「せっかく寝ているのだから起こさないでおきましょう」
ヴィヴィアはしぃっと人差し指を唇にあてた。
ケイトがお茶の準備をしてくれる。
軽食を出されて、少し遅めのランチとなった。
「お祝いの品に関して相談したいのですが」
エレノアはじめ、交流を持ち始めた貴族からもお祝いが次々と届いた。
クリス経由で知り合った殿方はクリスにお願いして、ヴィヴィアは夫人令嬢のお礼を考えることになった。
そこで少しクリスの知恵を借りたい。
「イボンヌ殿下からもお祝いが届き何を返せばいいのか思い至らず」
クリスは困った表情を浮かべた。
相手は王女である。差し障りのないものをと考えたが、クリスの意見を聞いてからの方がいい。
「わかりました。彼女の好みのブティックからカタログをもらってきましょう」
「助かります」
クリスはヴィヴィアの手を握った。
「もっと私を頼っていいのですよ。あなたは出産後でまだまだ体力が回復していないのだから、仕事は私に任せて休んで欲しい」
大事にされていると伝わってくる。
「と、言いながらあなたには辛い話をします」
シシリア・ルフェルの件。
その名を聞きヴィヴィアの頬が強張った。
今まで忘れたわけではない。
ヴィヴィアの妹、そしてヴィヴィアを胎児ごと殺そうとした罪人に堕ちた妹。
長い間、彼女はゴーヴァン公爵家の牢屋に幽閉されていた。
公爵夫人を、腹の中にいた跡取りに危害を加えようとした。
このゴーヴァン公爵家の館で。
クリスはゴーヴァン公爵家の特権を使い、シシリアを自分で処罰することを決めた。
その前に取り調べである。
彼女がどのようにして逃げ出したのか。
どうやってシュバルツと手を組んだのか。
シシリアが知る限りのことを自白させた。
夢見がちな少女に賢者メドラウトをけしかけると彼女はコロッと絆された。
メドラウトは少しずつ精神作用を促す魔術でシシリアの自白を誘導した。
粗方情報を得た頃にはシシリアは精神症状をきたし以前の活発さを失った。
このままおとなしくなればいいか。
クリスはそう思ったが、仮にもヴィヴィアの妹であることを思い出して病院を探し出した。
堅牢な城壁を持った精神病院である。
精神疾患により重犯罪を犯したものが収容される。
シシリアはそこで治療を受けるように手配した。同時に、一生退院できないように。
仮に治癒しても、どんなに反省を口にしても、決して外に出すことは許されない。
正気に戻った後がシシリアの地獄だろう。
それがシシリアに課された罰である。
思えば彼女も犠牲者だろう。
あの歪んだ価値観のルフェル子爵家の愛玩令嬢として育たれ、搾取令嬢ヴィヴィアへの見下しを当然と認識して増長してしまった。
だが、彼女にだって身の程を振り返る機会はあったはずだ。
家の外での治癒魔術の活動の最中、学園での他の令息令嬢との交流、聖女偽造事件が露見した時。
親の価値観から離れて自分で考える機会はあった。
少なくとも家族に支配されて満足に外へ出られなかった昔のヴィヴィアよりもよほど機会に恵まれていた。
自業自得だ。
それなのに、ヴィヴィアに危害を加えようとした。全てヴィヴィアが悪いと最後まで叫び続けた。
ルークほどではないが、シシリアを見ていて不愉快だった。
ようやくシシリアの件から解放されたとクリスはヴィヴィアに微笑みかけた。
「はい、シシリアのことは仕方ないと考えてします」
ヴィヴィアには異論はなかった。
「私の家族のことでクリスに手をかけさせて申し訳ありません」
クリスは首を振った。
「私はあなたの夫です。あなたを守る義務がある」
だから気にしないで欲しい。
そういうとヴィヴィアは嬉しそうに笑った。
「ふぎゃ」
赤児の泣き声がして二人は一斉に同じ場所をみる。
「あらら、若様。お腹すいたみたいです」
おむつを確認してノエル=アンジェはヴィヴィアに報告した。
ヴィヴィアは笑いながら、ノエルを抱き上げた。




