エピローグ それはいつかの、どこかの物語
「や、やばいです、先輩――じゃなかった、先生!! 絶対にこれ、原稿間に合わないですよ!!」
……墨の香りが充満する室内に、若い女性の声が響いていた。
本棚が幾つも置かれているその部屋には、幾つも作業台が置かれている。そこに何人かの人が座り、ひたすら原稿用紙にペン先をぶつけていた。
ガリガリと紙を削る音が聞こえ、鬼気迫る表情でそれをしている。
「落ち着け。担当は妹が引きつけてくれているよ」
「それでも一時間くらいしか止められないですよね!? うぅぅぅ、ここ最近ずっと徹夜で、お肌がぁ」
「――人は数日寝なくても死なない。これ、俺のキャッチフレーズ」
「――漫画家全員が一度はそれを口にしてますよ!!」
二人の会話が室内に木霊すると、周りでクスクスと笑いが生まれる。
……少しばかりの心のゆとりが出来たからか、焦ったようにペンを動かすことはなくなった。焦ってミスをすれば、それこそ洒落にならないのだ。
原稿を落とすとは、プロとしてあるまじき行動。そもそも仕事の早い彼がこんなにも追われているのは、別に理由がある。
「――日下部霊先生のせいだ。あの人が無駄に仕事を押し付けるから。リアルの名前を暴露してやろうか」
「あのー、先生? 今はお願いだから手を動かして――って手が早い!?」
アシスタントの一人が彼にそう声を掛けようとするが、心配無用である。彼は話しながらでもアシスタント三人分の速度で作画が可能だ。
「……っていうか先生、連載を何個も持ち過ぎなんですよー。そろそろ一つに絞りましょうよ! それに私の原稿も手伝ってくれるし……」
「……まぁ、、高校からの付き合いだからな。後輩の世話を焼くのが先輩の役目だろう――大丈夫、いざとなれば最強の助っ人軍団を呼ぶから」
「……突然の呼び出しで、どうしてあの人たちは来れるのか、本当に不思議でなりませんね――あ、景気付けに音楽流しましょう。先輩たちの新曲、スマフォの中に入ってるんですよ!」
女性のアシスタントがスマートフォンを操作して、曲を流し出す。それはとても気分が上がる激しいロックミュージックで、その瞬間、彼の目に火が灯った。
「お、お兄ちゃん! もう私じゃ手に負えないよ!!」
――その時、作業部屋の扉が開く。
高校の制服を着た美少女が涙目になりながら流れ込み、更に扉の前には彼の担当編集の女性が立ち塞がっていた。
「さぁ、先生! 原稿をもらいに参上しましたよー」
「……お願いします、あと三十分だけ。それだけあれば最高の出来でお渡しします」
「……ほぅ。後で私は上司に怒られるんだけどー、それに見合うものはくれるのかね? 先生くん」
「――何でも一つ、言うことを聞く権利で」
「にひひ……はい、分かりました! じゃあ三十分くらい妹ちゃんをお借りしまーす!!」
そうして昔から変わらない悪戯な笑みを浮かべながら、編集は彼の妹を連れて部屋から退出する。
――それと変わるように、もう一人の女性が室内に入ってきた。
「ひ、ひろくん、大丈夫だった!?」
「……あぁ、代償は少なくないけど、とりあえず三十分は時間を稼げたよ――皆、ここが正念場だ。無事に終わったら焼肉を奢る」
『――先生、マジかっこいいです!!』
彼の一言で、アシスタントのやる気が爆発する。
……しかしそれとは裏腹に、彼は一息ついた。実はもう、彼のすべきことは全部終わっているのだ。あとは全てアシスタントの仕事なのだが……彼はアシスタントの持つ原稿を一枚取った。
「……先生、平均睡眠時間三時間なのに――俺たちが不甲斐ないのがいけないんだ!!」
「って言ってる君の手が一番遅いんだよ! ほら、さっさと手を動かす!! あ、先生はゆっくりとそれを仕上げておいてくださいね? ……先輩は先生が無理をしないように、見張っといてください」
「はーい――って言われてるけど先生、休み気、ないよね?」
女性がニッコリ笑いながらそう言うと、彼は顔が引きつる。
……仕事をしていないと気が済まないのだ。周りが動いているのに、自分が動かないことが無性にそわそわするのだ。
「……先生って、お前も先生だろ――原作者様」
「一応カラーは仕上げたよ? 今回は巻頭カラーだから、張り切っちゃった!」
「……それはどうも――皆にミルクティーでも淹れて来てもらって良いか?」
「うん、任されました! ――この作品も、もう十九巻超えたんだねぇ。私たちのデビュー作!」
女性は山積みにされた同じタイトルの漫画の一冊を手に取って、そう呟いた。
「デビュー作が今もずっと続いているからな。……お前がそれからも次々と良い案を担当に見せるから、それが全部採用されて掛け持ち連載していること、忘れるなよ?」
「あ、あはは――でもひろくんなら出来るよね?」
女性は彼を信頼しきったようにそう言うと、彼は顔をそっぽ向ける。
「……ほら、早く紅茶を淹れてきてくれ。ハチミツ入りのミルクティーじゃないと、俺はもう今すぐに寝るから」
「――はーい、分かりましたよー」
そう適当な声であしらいながら、女性は部屋から出ていく。
……彼は漫画を手に取り、その表紙を見つめる。次に発売する二十巻で、彼らのデビュー作は完結するのだ。
それが少しばかり物悲しく、だが描きたい世界を描き切った満足感で満ち溢れている。
――今の描いている原稿は、記念すべき最終話の原稿。だからこそ一切の手も抜けないのだ。
「……っし、気合を入れるぞ」
「で、出た! 先生の鬼作画!! あの日下部先生も苦笑いの速度が出るぞ!!」
「む、無茶しないでください、せんせーい!!!!」
「――お前ら、うるさい」
そうして、和やかな雰囲気が流れる。
――机の上に山積みにされた漫画。彼らのデビュー作で、テレビアニメ化までされた、心打たれる感動的な物語と称されている。
心の隙間を人と人との繋がりで埋めて、大きな人の輪を作って笑顔を浮かべるその作品は、根強い人気を誇っている。
その作品の名前は――
ものっすごい蛇足な気もしますが、もしかしたらの未来の物語としてご想像ください。
次回の更新がいつになるかは分かりませんが、そこから番外編となります。時系列はバラバラとなりますが、一応春夏秋冬の物語となります。
それでは、またの更新をお待ちください!




