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こころのいろ  作者: 如月心
第8章 木漏れ陽で咲いた向日葵の花
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4幕 渡邊玲の役目

 とある日の放課後、渡邊玲は用事があった美術部の部室に向かっていた。

 用事と言うのは、一色が漫画の教室に忘れていった財布を届けに来たのである。そして特別棟の三階に上がると……そこには珍妙な光景が広がっていた。


「……君たちは、何を――」

「静かに」


 ――美月と初香と雪彦が、串に刺さった三色団子のように、部室の扉の前で中の様子を窺っていたのだ。


 そして渡邊が声を掛けた瞬間、美月は彼の口を手で抑える。無駄がなく、物音さえ立てないその動きは、達人のようだ。


 渡邊は察したのか、小声で美月に話し掛けた。


「何を見ていたんだい?」

「……見たら分かります」


 美月は部室の中を親指で指差した。そして先ほどと同じように三人で団子のようになりながら中の様子を見る。三人とも、若干ニヤニヤとした表情を浮かべていた。


 ……渡邊は気味が悪いが、気にはなるのか、言われた通り中を窺うように覗いた。

 そこには――


「んー、何にしよっか。私と一色くんの共通の好きなものの方が、創作意欲は湧くよね」

「好きなもの――料理、とか?」

「そうだけど、それだと一緒に作りたくなるだけだよ――あ、今度一緒に作ろうよ!」

「良いけど、話が脱線してる。あと、距離が近い」

「えー、そんなことないよ。普通だよ?」


 ……一色と水無月が、大きなキャンバスの前で互いに画材を持ちながら、そんな会話をしていた。


 ――渡邊は実は、一色から何も話を聞いていないのである。今学期の課題の全てを終わらせている一色は、実は暇を持て余している。だから渡邊は個人的に特別課題を一色に渡そうと思っていたのだが……


『すみません、忙しいのでちょっと……』 


 と、言って断られたのだ。一色の言うことだから、渡邊も嘘だとは思っていなかったが……。


「あれは、二人で絵を描いているのかい?」

「ええ、そうです――向日葵学生コンクールに、千尋と虹は一緒に作品を出すのですよ」

「……た、貴音さん?」


 渡邊は驚く。別にコンクールに出すことに驚いているわけではなく、美月が一色のことを名前で呼んだからだ。

 これまでは彼のことを一色と呼んでいたにも関わらず、まるで我が子を呼ぶように千尋と呼んだのだ。これで驚くなと言う方が無理な話である。


 何より、渡邊からすれば一色と水無月が仲睦まじくしているのに、それをニヤニヤと見つめていられる美月に違和感を覚えていた。


「まぁ、渡邊先生の気持ちもわかりますよー。私たちも最初は付いていけなかったですし」

「……変わり方が突然なんだよ、美月は――あぁ、それにしてももどかしい。でも初々しくて、ついニヤニヤしちまう」


 ……そうして話すのを止め、また部室の中を覗きながら三人はニヤニヤするのであった。

 ――彼らの中で何があったかは、渡邊も到底理解することは出来ない。……仲が良くなることは良いことなので、咎めはしない。ただ、知的好奇心が強い渡邊は、強くモヤモヤとするのであった。


「一色くんは、もっと距離感を詰めてくれても良いと思う! そんなにイヤ……かな」

「嫌じゃないけど、貴音先輩になんて言われるか……って、そうか。今はそうでもないな」

「むしろ私が嫉妬しちゃうくらい甘々だからねー」


 部室の中からそんな会話が聞こえ、余計に渡邊のモヤモヤは大きくなるのであった。

 ……しかし、それは置いておくとして。渡邊は中の様子を見ると、つい目頭が熱くなってしまう。何せ、これまで壁にばかりぶつかって、傷だらけであった大切な生徒たちが、手と手を取り合って一つのことに挑戦しているのだ。


 ――渡邊も、向日葵学生コンクールのことは知っている。そしてそれが、今の一色と水無月に一番必要としていることも、理解していた。

 ……泣きそうになっていると、屈んでいる生徒三人が、彼の顔を見てニヤニヤしていた。


「……なに、その顔は」

「いえいえ、存分にお泣きくださいよ、渡邊先生」


 雪彦はニヤニヤを止めずにそう言う。渡邊は若干イラッとしたが、それを何とか抑えた。

 しかし……渡邊の珍しい弱みを逃すほど、この三人は甘くはない。


「鬼の渡邊でも人の心はあったってことだな」

「これを機に、俺たちに対する睨みを少しは抑えて――」

「……調子に、乗るな」


 渡邊は美月と雪彦の顔を鷲掴み、ギチギチと力を込めた。すると面白いほどに雪彦と美月は絶叫を出そうとする……が、室内の二人に聞こえないように器用にも声を抑えていた。

 絶叫するのを我慢する二人を見て、初香は笑うのを我慢する。……あそこで渡邊に何も言わなかった初香は、本当に狡猾な少女だ。


「……でも、良かった」

「よ、良くない音がしてるので、そろそろ手を離してくださいっ」

「お、俺の顔がぁぁ……」

「僕のモノローグを止めないでもらえるかな」


 渡邊は溜息を吐いて、二人を解放する。

 ――もう心配は要らないと安心したのだ。そう悟って、渡邊は初香に用事の物を渡した。


「悪いね、海老名さん。それを一色くんに渡しておいてもらっても良いかな?」

「ちひろんの財布……直接渡せば」

「そんな無粋なことはしないよ――それに実は、今から用事があるんだ。どうしても外せない用事がね」

「――デート、ですかぁ?」


 すると初香はわざとらしくそう聞いてくるが……渡邊はそれに頷いた。


「そう。だからあまり時間が無くてね」

「……ふむ。じゃあ受け取りました――よろしくお願いしますね」


 初香は何かを理解したような表情を浮かべ、渡邊から一色の財布を受け取った。

 それを確認すると渡邊は部室を背にして、廊下を歩いていく。それを三人は見送った。


「……デートって雰囲気でもねぇな」

「……ううん、渡邊先生にとってはそれと同じくらい、大切な用事――時代遅れのお馬鹿さんを、懲らしめるんじゃないかなー?」


 初香はそう言うと、再び部室の中を覗き込んだのだった。

 ……美月と雪彦は顔を見合わせる。


「……そういえば渡邊先生、どうして眼鏡を付けてなかったんだろうか」

「さぁな。……大した意味はないだろ」


 二人はそう解釈するのであった。

 ――渡邊は特別棟から離れ、研究棟に向かう。

 そこには彼の研究室もあるのだが、その場所は建物の一番奥だ。しかし渡邊はその途中で足を止めた。


「……さて」


 渡邊が足を止めたのは、研究棟の絵画コースの部屋である。サブカルチャーコース増設に伴い、大幅に場所が狭められたのが、実は絵画コースの部屋であった。

 そのこともあってか、絵画コースの教師はあまりサブカルチャーコースの人間を良く思っていない。

 そんな敵地のような場所に何の用があるといえば――そんなもの、一つしかなかった。


「落とし前は、つけてもらうよ」


 渡邊は真剣な表情でそう呟いて、扉を勢い良く開けた。

 そして教室の中にズカズカと踏み込んでいく。室内には絵画コースの教師が大抵在住しており、渡邊は好機であると感じた。


「……なんですか、渡邊先生。突然、ノックもなしとは失礼ではありませんか」

「……僕としては、礼儀を使う必要性を感じなかったもので――お話しがあって、参上させていただきました」


 そして、それらの教師を前にして、渡邊は堂々たる態度のまま……


「――僕の大切な生徒を傷付けたことについて、少しお話しはよろしいでしょうか?」


 隠せない怒りは、声に滲み出ていた。

 ――ハンムラビ法典にはこういった一節がある。目には目を、歯には歯を。


これはやられた分だけやり返せ、という意味で捉えられがちだが、原初の意味では少し異なる。実際には過度の報復を防ぐための法なのだ。

……だが、渡邊は敢えてその意味を間違った方で解釈した。


○●○●


 研究棟にある渡邊の研究室には珈琲の香りが充満していた。と言っても、本格的に淹れたものではなく、あくまでインスタントのものだ。


 ……研究室にある向かい合わせの小さな机の上には、大きなアルバムが乗っている。そしてそれを差し出すのは、水無月の父親である滝色であった。


 ――水無月が学校に来なくなって少しして、渡邊は水無月の保護者に連絡した。滝色も状況は把握していたのか、日程を合わせて学校に出向いたのだ。


 そして少しばかり学校での水無月のことを話した後、会話は件の水無月の状況の話題に触れる。

 ……その時、滝色は鞄からアルバムを取り出し、机の上に置いたのだ。


「……これは?」


 渡邊は滝色に尋ねる。どれだけ勘の鋭い渡邊であろうと、それの正体を看破することは出来るはずもない。

 滝色は目を細めながら、アルバムの表紙を指でなぞった。その表情は懐かしむような儚げなものであった。


「私の妻……虹の母が一番大切にしていた宝物です」

「……中身を見ても、よろしいですか?」

「ええ、もちろん――そのために肩を痛めてまで持ってきたのですから」


 滝色は苦笑を浮かべ冗談を口にしながら、渡邊に見るように促した。

 ……渡邊はアルバムの中身に目を通していく。最初に目に入ったのは、幼稚園児がクレヨンで描き殴ったような、人と思わしき絵だった。

 それで渡邊は合点が一致する。


「水無月さんが小さい頃に描いた絵、ですね」

「ええ――生前の繭七のために、虹が毎日描いていた絵をまとめたアルバムです。それでもほんの一部なんですよ?」

「これで、一部ですか」


 渡邊は手にドスっと圧し掛かる重みに苦笑をした。


「ええ。幼稚園児の時から小学生五年生になる直前まで描いていた毎日欠かさず描いていましたからね」

「……まるで、水無月さんの成長の証のようなものですね」


 渡邊はページを捲りながら、このアルバムのことをそう表現する。


「一枚毎にどんどん絵が上手くなっています。……奥様はさぞ、幸せだったことでしょう。こんなにも想ってくれる子供や、あなたのような夫に囲まれていたのだから」

「……そうだと、私も嬉しいです」


 滝色はなお儚い表情が消えない。

 ――消えるはずがない。娘が今、あのような状態なのに、父親である自分がどうにも出来ないことが不甲斐なくて仕方がなかった。


 ……だが、今の滝色に出来ることは、娘に手を差し伸べることではない。差し伸べても、彼女が本当に望んでいる手は、父親のものではないのだ。


「……私は虹を見守る立場です。妻とそう約束して、今までもそうしてきました――あの子はすぐに自分で背負い込むんです。そこは妻に似てしまったんでしょうね」

「我慢、ですか」


 渡邊にも、思い当たりがある。水無月と同じくらいに何事にも我慢して、一人で傷付いてしまう生徒を。


「でも、虹はあまり強くないんです。優しい子で、他人を思いやれる正しい心を持っていて……だからこそ、誰かの心のない言葉に人一倍傷付いてしまう」

「……心のない言葉」


 ――渡邊は理解した。滝色が娘の状況を、思っていた以上に把握していることを。

 彼の今言った言葉はつまり、水無月を追い詰めた人間がいるということを意味している。そして渡邊も、その目星は大体付けていた。


「……私は、許せないんです。許されるのならば、娘を追い詰めた人間を晒し上げたい気分です。……でも虹はそれを望まない」

「……ええ、水無月さんは絶対にそんなことを望まないでしょうね」


 ――渡邊はアルバムを閉じた。


「――お願いします、渡邊先生。これ以上、虹が傷付かなくても済むように、あの子を助けてください」


 ……滝色は深く頭を下げて、そう懇願した。


「また、あの子が笑顔で絵を描けるように、どうか!」

「…………」


 ……渡邊は思った。それが出来れば、どれだけ良かっただろうと。

 渡邊は良く理解している。自分が水無月の深いところに足を突っ込むことが出来ず、ただ見守ることしか出来ないということを。


 それを歯がゆくも思っている。

 ……だが、滝色の願いは、きっと渡邊がするべきことではない。


「――僕の受け持つ生徒の一人に、水無月さんととても親しい子がいます」

「……え?」


 受諾でもなく、拒否でもなく……突然、何の関係もないことを話し始めたのだ。滝色は驚いて、つい顔を上げた。


「非常に優秀で要領が良い子なんですが、水無月さんと同じですぐに自分一人に背負い込むんです。……でも、――一色くんは、とても優しくて、人の痛みが分かる素晴らしい人間です」

「……一色くん、か」

「知っているんですね」


 渡邊は滝色の反応から、そう予想して尋ねた。すると滝色は頷いて……


「少し前に一度会いました。虹を家まで迎えに来てくれた時に。……あなたの言う通り、真面目そうな好青年でした。良く家で虹が話題に出していましたから、興味はあったのですが――どこか、雰囲気が繭七に似ています」

「奥さんに、ですか」

「ええ。特に微笑なんかは映し鏡のようですよ。……きっとあの子も胸中ではたくさんのことを考えて、思い悩んでいると思います」

「……その通りです」


 渡邊は一度会っただけで、そこまで見抜いている滝色に感心した。


「……僕は、水無月さんを救えるのは一色くんだと思います」

「彼が……ですか?」

「はい。……明確な根拠があるわけではありません。彼女を心配している人はたくさんいて、それに優劣を付ける気もありません――ただ、彼女の本質を一番知りたいと思っているのは、きっと一色くんです」


 何度も間違い、すれ違い……自分が傷付いたとしても、一色は水無月のために出来ることをしようとしていた。


 例え拒否されても、一色は逃げない。周りはそれを贖罪であると思うのかもしれないが……渡邊は一色の行動が後悔から来るものだとは思っていなかった。


「彼は手先が器用ですが、人との関わり合いは不器用なんですよ。だから何度も失敗して……でも自分が傷付いても、目を背けることだけはしません。だから――彼の視界には、いつだって水無月さんがいます」


 渡邊はアルバムを両手で持ち、それを滝色に差し出した。


「……どうかお願いします。これを、一色くんに見せてあげてください。彼こそが、これを見ないといけないと思うんです」

「……それは、虹のためになりますか?」


 滝色は、渡邊を試すようにそう言った。

 ……結果は完全には予想出来ない。人と人とのことだから、それは当然だ。どこかで計算違いが起きて、予想から大きく逸れるのが人である。


 ――そもそもそれに答えはない。答えなど必要ないのだ。

 予想することの出来ない行動……それは確かに怖いことだ。だが、今の一色たちに必要なのは、恐れないこと。恐れるばかりに前に進めなくなるくらいなら、傷付いてでも前に進む。そう教えたのは他の誰でもない、渡邊自身だ。


 ……渡邊は、自分の大切な生徒を信じて、


「――必ず、なります」


 そう断言した。


「――そうですか。なら、私は渡邊先生を信じます」


 滝色は涼しげな笑顔で浮かべ、渡邊からアルバムを受け取った。

 ……滝色は席を立ち、鞄を肩に掛ける。渡邊も同じように立ち上がり、研究室の外まで見送る。

 ――滝色が去る間際、渡邊は一つ言い忘れていたことに気が付いた。


「僕は、僕にしか出来ない方法で水無月さんの力になることを約束します。あの子が無暗に傷付けられない環境だけは、僕が必ず実現します」

「……あなたが言うと、必ず何とかしてくれそうだと思ってしまいますね。……不思議と」

「それが僕の売りですから」


 渡邊は不敵に笑むと、滝色はニコリと笑って、渡邊の前から立ち去った。

 ……彼が去った後、渡邊は肩の力を少し抜いた。


「……さて」


 その視線の先には、絵画コースの研究室がある。そこの表札を鋭く睨み付けて、


「少し考えながら動くとしようか」


 そう呟いて、渡邊は研究室から中等部の校舎の方へと向かう。

 ……事を起こすには、まず必要なものは情報だからだ。彼らを追い詰めるには、それだけの武器が必要なのだ。


 ――今、持っている武器だけでは弱い。彼らを排斥できたとしても、それだけでは酷く傷付けられた水無月の心と天秤が合わないのだ。


 ……渡邊玲を本気で怒らせればどうなるか、この学校で身を以て知っているのは美月と雪彦ぐらいのものだろう。


 ――その本質は常に正しく、理路整然と問題点ばかりを突いていく。そして相手は何も言えず、ただ説得力ある正論を前に、何も言えないようになってしまうのだ。


 ……一色たちが水無月のために動くように、渡邊も彼女のために裏で動く。

 そうして裏から子供たちを支える――それこそが渡邊玲が掲げる、理想とする教師像なのだ。


美月の態度の変化についてのエピソードは今回は割愛しました。

次回より渡邊先生のターンでございます。

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