3幕 二人三脚、五人六脚
美術部の机の一つに、五人が囲むように座っていた。
その机の中心には 何も描かれていない真っ白な紙が一枚置かれている。そしてその周りには様々な画材……鉛筆や漫画を描くためのペン、着色用の色鉛筆や水彩絵の具など、一通りが揃っていた。
「概ねのルールは前とほとんど同じです。時間は一人十五分程度で、交代制で一枚のイラストを描いていく。各々好きなものを描いてもらって構いません」
「まんまイラストバージョンってわけだね。順番はどうするの、ちひろん」
「順番は前回と同じです。俺、海老名先輩、雪彦先輩、貴音先輩――最後が、水無月だ」
「……私が、最後で良いの?」
「もちろんだ。むしろ最後が水無月でないと意味がない――前もそうだったからさ」
一色はそう断言して、鉛筆を手に取った。
――彼の中で描きたいものはたくさんある。前回の絵画リレーの時は無難に背景を描いていたのだが、今回は違った。
「ほぉ、千尋がキャラクターを先に描くか……ってか、速筆だな、おい!」
「ほへー、アニメーションコース顔負けの速さだねぇ」
海老名兄妹は同じような反応をしている通り、一色の手速さは尋常ではなかった。
イラストに関しては一色の得意分野であり、しかも何を描くかも明確に決まっている分、迷う必要がないのだ。
……一色は時々顔を上げて、何故か美術部員を見る。そしてすぐに紙に視線を下した。
「どんなキャラクターを描くんだろ……楽しみだね」
水無月は純粋に一色の描く絵が気になるのか、ワクワクとした心境であった。
……最初は人の輪郭線ばかりで、どんなキャラクターかは分からない。だが次第に一色が何を描こうとしているのが理解できた。
「……この短期間で四人も描こうとするとは――一色、私たちを描いているな?」
「……流石に気付きますよね」
一色は手を動かしながら、美月の言葉に頷いた。
……一色は自分以外の部員を描いていたのだ。それぞれに髪型など特徴があり、気付くのは容易だった。
残り一分になる頃には、それぞれの特徴を捉えたイラストチックな四人が完成している。下書き程度であるが、しっかりとクオリティーの高い四人が笑っていた。
……しかし一色は、自分を描こうとしない。
「……自分を描かねぇとは、どういうことだぁ? 千尋よぉ」
「自分は描けないですよ。鏡で見る時間もありませんし――そこは描きたければ、ご自由にどうぞ」
「お、言ったねー――じゃあ次は私の番だね♪」
一色の持ち時間が終わり、次は初香の出番となる。
……しかしながら一色は不安だ。何故なら前回のリレー絵画では、初香は等身大の一色を描いただけではなく、それをやたらと個性的に描いたのだ。
どう個性的に描いたかと言えば……どこかの漫画に出てきそうな、突拍子もない設定がある一色だ。それが妙に上手いのが複雑であったと、当時一色は思ったものだ。
しかも今回、一色の作った流れが、完璧に自分を描かれるものである。しかも一色がお好きにどうぞ、と言ったのだ。
――初香がそれを見逃すはずがない。
「設定はクリスマス、雪の降る夜。煙突のある家では、ちひろんを除いた皆でパーティーをして楽しんでいました」
「突然何を……」
初香が何やらぶつぶつと呟き始める。
……これは初香が創作をする時の癖のようなものだ。この癖が起きた時の初香の集中力は凄まじいものである。
「……ちひろんは私たちにプレゼントをくれるサンタさん――よぅし」
初香は、一色に負けず劣らずの速度で絵を描き始めた。
一色が手を付けなかった背景を凄まじい速度で描き始める。それは煉瓦で出来た西洋風の建物の内部で、屋根は煙突がある。
それを大まかに描き終えると、次は屋根から入ろうとした一色を描き始めた。
……無論、サンタ服を着ている。
――この間、初香は一度も一色の顔を見ていない。見ずに、一色をイラストとして再現していた。
これは何気に凄いことで、初香が普段からどれだけ一色を見ているかの裏付けであるが……一色はそれよりも、絵の中で自分が遊ばれていることに、苦笑いを隠せなかった。
煙突の穴から入るのは良いが、一色は途中でお腹が突っ掛かって、暖炉の中で顔だけ出しているのだ。そしてそれを笑うのは、彼自身が描いた四人である。
「俺としては純粋に笑ってるつもりで描いたんですが」
「それじゃあ面白くないでしょ~? こういうのは分かっていることから逸れるのが、面白いんだよ!」
「……そっすね」
一色が砕けた敬語を使うなど、絶対にない。しかしそう適当に言い返すことしか、今の彼は出来なかった。
「……ちひろんっぽく、ここは苦笑いでいっか」
初香は暖炉の中の一色の表情を描き足す。
――複雑なのが、一色の再現度が異常に高いことだろう。特徴を捉え過ぎているほどに、イラストの中にいるのは紛れもなく一色であった。
その表情もいつも彼のような、表情変化に乏しい苦笑い。
「……絵柄を俺にしっかりと合わせるところが凄いですね。流石はアニメーションコース」
「チーム制作が多いからねー。誰かの絵柄に合わせるのなんて、苦じゃないんだぜ♪」
一色が賞賛すると初香はにへへと笑い、嬉しそうに親指を立てた。
初香は気分が上がったのか、一色の下書きを描き終わらせて背景に手を出す。そこまで背景を描き込むわけではないのか、どちらかと言えば可愛らしい雰囲気だ。
一色の描いたキャラクターの頭身も、実際に比べたら低めであるから良く調和している。
……一色はその作業効率を見て、是非自分のアシスタントに欲しい人材であると思った。
「そこまでだ、初香」
「ちぇー、せっかく楽しくなってたのになー」
美月が時計を確認しながら、初香を止める。
一応背景も大まかには描かれてはいるが、しかし初香的にはまだ描き足りないらしい。
……だが、初香が手を出した割には、今回はまだまともなイラストだ。前回の作品である「おとぎの国のアザゼル」に比べれば、大抵の作品がまともに見えるだろうが……。
「さぁて、次は俺の番か――真面目かふざけるか。虹ちゃんはどっちが良いと思う?」
雪彦は紙を受け取り、難しい表情を浮かべながら水無月にそう尋ねた。
「そ、それを私に聞きますか……ふざけた方が海老名先輩っぽいと思いますけど」
「――んじゃ、そっち方向でふざけるか」
雪彦は水無月の意見を聞いて、舌舐めずりをしながらイラストに集中し始めた。
……雪彦はまず家の外に大きな木を描いた。
「……普通だ」
「普通だねぇ」
「意外に普通なんですね」
「普通過ぎてつまらん」
「――俺を普通って言うんじゃねぇ!! これから変わるんだよ!!!」
……何を怒る必要があるのか、正直理解に苦しむ。
雪彦が普通であることを嫌がる理由はさて置き、彼はすぐに立派な大木に手を加えた。
――目を描き、口を描く。それだけならファンタジー的なイラストの方向になっただろう。しかしあろうことか……雪彦はそれを、リアル調で描き始めた。
「…………まさか、ホラーで来るとは」
「それだけじゃねぇ!! ここでジャパニーズホラーの代名詞、品子でお馴染みの井戸を煙突で見立てて……」
更に煙突の上に、萎びれた真っ白い服、前髪で顔が隠れた女性を描き始めたのだ。
……家の中で楽しんでいるが、傍には恐怖が忍び寄っている。それまでのどかだった作品が、雪彦のせいで途端に恐怖の一枚に変化してしまった。
「うわぁ、これはないよ……私とちひろんの絵の結果がホラーなんて……」
初香が本気で兄に引いている中、怖いものがあまり得意ではない水無月は、その絵を決して見ないようにしていた。
――描いている内容はともかく、雪彦も異様に再現度が高いのである。特に大木の化け物の気持ち悪さは相当である。
「……きっと、雪彦先輩の深層心理はいつもドス黒いんでしょうね」
「違いないな」
「……お、俺、選択肢間違えた?」
――ようやく気付いたらしい。
割と序盤から失敗した雪彦であるが、残念ながらこのリレーイラストには消しゴムを使うことは許されない。
使うとしたらペン入れをした後だけだ。故に雪彦が描いてしまった恐怖は、そのまま継続して残すしかない。
「……仕方ない、ここで一人、癒しを追加して……」
雪彦は少し気分を落としながら、室内にもう一人追加で人を描き始める。
小さな子供のようで、着物を着て中途半端な長さの髪を、後ろで二つ結いにしてまとめている。
口元のほくろが特徴的であり……それはどう見ても座敷童の類で、なおかつ――
「――人の妹を勝手に妖怪にしないでください」
それは明らかに、一色和那であった。
一色は白い目で雪彦を睨みつけながら、そう文句をぶつけた。
――洋風の建物にサンタクロース、それに加えて座敷童。外はホラー空間が広がっているというアンバランスさが、何とも言えない。
座敷童と化した和那は、暖炉の中で宙づりになっている一色を心配しており、そういう細かい再現は流石雪彦とも言えるか。
「……でも和那ちゃん、可愛い」
「それは……まぁ認めるところなんだけどな――っていうかあいつ、座敷童の恰好似合いすぎだろ」
水無月の言う通り、その衣装は似合っている。が、それを素直に喜べないのが兄である。
――しかし雪彦も芸達者なものだ。本格的なホラーを描いたかと思えば、次に描くのは可愛らしい少女である。その上、ファンシーな動植物も描けるという幅広さは、一色も尊敬を隠せない。
「…………」
決して口には出さないが。
「……よし、雪彦、私と交代だ」
「おう」
雪彦はイラストを美月に渡す。
……しかしながら、そこにある世界観は既に決まったのも同然であった。幾ら美月であろうと、これ以上のことは出来まいと、誰もが思うだろう。
――だが、彼女は一味違う。
「――雪彦、お前は天才だな。前の絵画リレーの時はお前を貶したが、今回は賞賛しよう」
「……み、美月っ」
……馬鹿の感性は、どうやら同じであったようだ。
「お前の心はドス黒いとは言ったが、しかしこのギャップは素晴らしい!! よくぞ私にこのバトンを渡してくれた!! ――お前の後は私が継ぐ!!」
「美月、お前最高の女だぜ!!」
「「「…………」」」
その茶番を目の当たりにしている後輩三人組は、それぞれ引き笑いを浮かべているのであった。
しかし、美月の手は動く。創作意欲が刺激されたのか、雪彦が描いたホラー要素をより強めていくのだ。
……のちに水無月はこう言った――美月ちゃん、ホラーものが大好きなの、と。
おどろおどろしいほどの線を加えて、臨場感を際立たせる。……彼女は後を控える水無月のことを考えていないのか。
しかし描き込む速度が異様に早いから、数分でそれは完成する。無駄な線は何一つないからか、鉛筆だけでも絵自体に汚れは見えない。むしろペン入れをする必要がないほどだ。
それぞれの作画力の高さが顕著に表れていた。
「……わ、私、あの後に何を描けば良いんだろうね、あはは」
「気を確かに持て、あんなものは所詮、絵に過ぎない……けど、恐ろしいのは間違いないな」
一色は目の前で進められていくホラーイラストを前にすると、もうそうとしか言えなかった。少なくとも一色には、あの世界を穏やかなものに変えるのは不可能である。
「ここを、もっと、もっと怖くして……っ」
……机にかじりつくように絵を一心不乱に描く美月の姿も、もはやホラーである。
目を見開き、その瞳は完全にどこか別世界に行っている。恐らく今なら魔王などと言っても、美月には聞こえないであろう。
この中で美月に引いていないのは、雪彦くらいだ。
「おぉ、流石美月だ! 恐怖ってもんが良く分かっていやがる!!」
「雪彦、空は真っ黒の方がより恐ろしさが増すと思うんだが――」
……一色は時計を見る。
美月は興奮のせいか気付いていないが、既に持ち時間は過ぎてしまったのだ。
一色はこれ以上絵を可笑しな方向に持って行かせないため(若干手遅れだが)、美月を止めた。
「時間です、貴音先輩」
「……ちっ、あともう少しで恐怖の一枚が完成したというのに……」
「――完成させてどうするんですか。水無月の出番が無くなるでしょうに」
一色はそもそもこの企画、誰のためのものだったかを思い出して欲しいと思った。
……一色は美月からイラストを取り返して、水無月の前に置いた。
「水無月、頼む。この絵をどうにかしてくれ」
「あはは……なんか、前の絵画リレーの時も同じようなことをお願いされたね」
――途端に広がる緊張感。それは水無月からのもので、本人が一番緊張している様子だ。
「……前に、進むって決めたから」
水無月は目の前の筆を握ることに戸惑う。
……授業中、文房具を持つ時は手の震えは以前と比べて幾分かはマシになっていた。だが、まだ筆を持ったことはない。
だから躊躇いを隠せない。未だ恐怖心は残っているのだ。
「……っ」
意を決し、水無月は筆に手を伸ばした。今回は水彩絵の具で絵を描くようだ。
机の上に置かれている筆に指先が触れた時――その右手は小刻みに震え始めた。
「…………っ、前に比べたら、全然マシだよ……っ!」
それでも水無月は、なんとか筆を持つ。
だが、絵を描こうと思うと、水無月の頭には彼女を否定する人たちの言葉が浮かぶのだ。
お前の絵には価値がない。いい加減、現実を受け入れたらどうだ。
そんな心の無い言葉が彼女の頭を通り過ぎると、頭痛がして手も震える。
「私は――絵が、描きたいんだ!」
水無月は震える中で筆先を水で濡らそうとする――その時、筆が手から離れて床に落ちそうになる。
……水無月にとって、物を床に落とす音は、恐怖の音だった。何度も耳の中に残る音を聞くと、現実が突き付けられるから。
だけど、
「……大丈夫だ、水無月」
「あ……」
筆が、床に落ちることは決してなかった。
彼女の手を、誰よりも早く一色が握っていたからだ。震える手は握られることで、震えが収まる。
「絵を描こうと思うんじゃない。お前は、絵が描きたいと思うから、描くんだろう?」
「……うん」
「――じゃあ一緒に描こう。震えるなら、俺が……俺たちがちゃんと支えるから」
一色はそう言うと、美月、初香、雪彦と順番に目を配らせた。
「そうだねぇ~。こーちゃんのためなら仕方ないなー」
初香は悪戯な笑みを浮かべながら、片手を繋がれた手を覆うように掴んだ。
目を細め、反対の手で水無月の頭を優しく撫でる。
「初香先輩……」
「……ゆっくりだよ、こーちゃん――そうでしょ、二人とも」
「そうだ、虹。ゆっくりで良いんだよ――絵は、楽しんで描くものだ。描きたい絵を、楽しんで描いてこそ絵には命が宿る……だったか?」
「お、虹ちゃん語録が板についてきたな、美月」
そして三人で繋がれた手を、美月と雪彦も同じように掴んだ。
……五人の手が、一度に繋がる。
「……あぁ、もう――涙って、どうして枯れないのかなぁ。ずっと前に一生分泣いたって思ってたのに、昨日から泣かされっぱなしだよ」
そんな水無月の目には、また涙が浮かぶ。
……昨日と同じ、嬉しい涙だ。心地の良い涙を浮かべるのは、高校生になってから経験したことだった。
――昔のことを、水無月は覚えている。自分の母親が自分の前で、一度だけ流した涙。その時は自分のせいで母を泣かせてしまったと水無月は思った。
涙は辛い時に流すものであると思っていたのだ。
しかし、あの時、水無月繭七は嬉しいから流す涙だと言った。まだ子供だった水無月は、その意味が良く理解できなかったが……
「(――今なら、良く分かる。皆が私のことを大切に思ってくれているから……どうしようもなく嬉しくて、感情の行く先で流すのが、涙なんだ)」
水無月は笑う。
――今、水無月はどうしても絵を描きたかった。
こんな自分を見捨てずに、引きずり出してくれた皆……幼馴染の美月やそんな彼女が信頼する雪彦、いつも変わらず接してくれた初香――そして、水無月を何度も救い出してくれた一色。
「……皆が笑顔になる、絵が描きたいな」
線は綺麗には描けない。だけど、今の水無月には線を引く必要はない。
だって、そこには確かな線があるのだから。一色が、初香が、雪彦が、美月が描いた線があるのだから、水無月はそれに色を描きたかった。
震える手? そんなもの関係ない。例えどれだけ震えようとも、今の水無月の願望はそんなもので止まるはずがない。
大好きな人たちの笑顔が見たいから、絵を描きたい。
――それは水無月の原点と何も変わらない。
……水を切り、パレットの上で絵の具を筆に馴染ませる。それを厚紙の上に描かれたイラストに一筆、塗りたくった。
ペタペタと、ゆっくりと。
「……まずは、肌を塗って……」
肌を大まかに塗り終えると、次は髪の毛だ。何分、時間が十五分しかないから、急ぐしかない。
一色と和那と美月には黒く髪を塗り、雪彦と初香と自分にはそれぞれ違った茶色を塗りたくる。時間があれば塗り込みたいが、それも今は諦めた。
とにかくイラストを完成させないといけない。
「人が塗り終わったから……次は」
「ほら、背景色の絵の具、全部出しておいたぞ」
「ありがと、美月ちゃん!」
美月から渡されたパレットの上には、これから使う絵の具が適度に乗せられている。水無月はそれを受け取り、懸命に色を塗った。
――きっと彼女は、絵を描く事に夢中で気付いていないだろう。
「外が怖すぎるから、空は敢えて快晴にして……」
……もう、誰も――水無月の手を握っている人が、いないということを。
その手は、決して震えていない。絵を描くと必ず震えていた水無月の手は、今は一切震えることがなかった。
それを見て、美月は口元を抑えて息を呑む。雪彦も初香も、鼻先を真っ赤にして視線を逸らした――その光景があまりに懐かしいから、涙腺が緩んだのだ。
油断すれば泣いてしまう。だからやせ我慢をする。
「家の中はオレンジ色を主体にして……って、あれ?」
……その時、水無月は自分の手を見て、目を丸くした。
「私……絵が、描けてるの?」
「ああ、そうだよ――今はその絵を完成させよう。手の震えとか、どうしてだとか関係なくさ。……俺、その絵の完成形が見たいな」
「う、うん!」
水無月は一色にそうお願いされて、とりあえずは絵を描く事に集中した。
――何か月ぶりだろうか、と。
こんなにも絵を描く事が楽しいのは、いつぶりだろうか……そう水無月は思っていた。
色を……自分の心を塗りたくる作業を、心の底から楽しいと思ったのは――きっと、水無月繭七が亡くなってから初めてだった。
ないことを彼女は、本当は知っていた。絵を見て欲しい人がいないのだから、そう思ってしまっても仕方がない。
だけどそれを認めるのが嫌で、時期が重なり過ぎて……自分の本当の色を、忘れてしまっていたのだ。
「(――一色くんに、色を教えてあげたい)」
彼の秘密を、水無月は知っている。色が見えないこと、過去のこと……一色が抱える辛いものを、彼女はどうにかしたかった。
ならばどうすれば良いのだろう。
……なんて答えは、一つしかない。水無月もそれを分かっている。
「(私は、絵を見て欲しい。見て、感動して欲しかった――一色くんを感動させるためには、私が楽しんで描かないとダメ)」
前はそうしないといけないと思っていた。一色に縋っていたからだ。
……今も根本は変わらないのかもしれない。一色のことを頼り過ぎている自覚も、水無月の中には確かにあった。
――それでも一色は受け入れた。水無月虹を知り、本音をぶつけて……その上で受け入れたのだ。
「(でも――今ならそんな絵が、描ける気がする)」
時間を忘れ、色を塗ることだけに集中した。周りの音も、今の水無月には聞こえない。
――ふと、一色は水無月よりも彼女の描く絵を見つめた。
そこに映るのは、本来は黒と白だろう。事実、それは変わらない。
だけど――その時、一色の目に色が広がった。
「…………っ」
その久しぶりの感覚に、一色は口元を抑えて嗚咽を漏らす。
「――で、出来た!!」
……その時、水無月はバッと顔を上げて、そう言った。少しばかり額に汗が滴っていて、それだけ集中していたことが目に分かる。
出来たイラストを、水無月は持ち上げて見つめる。
「……見せて、くれないか?」
一色は、それをもっとじっくりと見たかった。一色たちが描き、水無月が彩ったそのイラストは、さぞ面白可笑しなものだろう。
世界観は相変わらずめちゃくちゃであるに違いない。何しろ全員の価値観をぶつけ合わせて出来た作品であるのだから。
「うん!」
水無月は笑みを浮かべて、それを一色に渡した。
――予想に違わず、それはハチャメチャなものだ。可愛らしさに秀でた建物に比べ、外は殺伐としている。しかしその時間帯は何故か朝で、外の場違い感が中々にシュールになっていた。
キャラクター一人一人の再現度は高く、罠に嵌められたと思いたくなるサンタクロースの一色は暖炉の中で宙づりになっていて、それを和那が心配して。
――皆、それでも笑顔を浮かべていた。
……誰もその絵の意味は考えていないだろう。
だが、一色は思う――外は怖いことでたくさんだ。いつ何時、自分たちに襲い掛かるかも分からないことで、時にはビクビクと殻に閉じ篭ることもあるだろう。
だけど……それでも内は、いつでも笑顔で満ちていると。笑顔を浮かべて皆で立ち向かえば、どんなものでも怖くないのだと。
だから一色はこの絵をこう称した。
「――温かい、作品だな。そうしたのは、水無月の力だ」
「わ、私?」
水無月は突然自分のことを引き合いに出され、少し困惑する。
……しかし、一色はこの絵を最後、一つにまとめ上げたのは水無月であると確信していた。
「おどろおどろしい雰囲気は、水無月の快晴の発想でシュールなものになった。それで恐ろしさは半減して、より中の穏やかさに拍車が掛かっているよ」
一色は完成した絵を、水無月に向けて差し出した。彼女はそれを戸惑いながらも受け取り、じっくりと見つめる。
「……変な絵」
「そだねー、それは間違いなくそうだよ」
「……だけど、何故だか心休まるな」
「違いねぇな」
水無月の傍から絵を美月たちが覗き込むように見て、そう称した。
――水無月も、同意見であった。イラストから視線を外し、水無月は一色の顔を見た。
「……もう、大丈夫みたいだな」
「……ううん、そんなことない。きっとまた、辛いことがあったら同じことになるかも」
「だったら、その時はまた皆でどうにかするよ――そうですよね」
一色は美月たちの方を見てそう尋ねる。
三人は何も答えず、ただ……笑顔を浮かべて、それを肯定した。
「――だったら、もう大丈夫だよ……っ」
……水無月は、そうして綺麗な笑顔を浮かべた。
――一色は、この笑顔が見たかった。影も曇りもない、水無月に一番似合うこの笑顔を見るために、一体どれだけの回り道をしたことか。
一色も回り道をしていたし、水無月も回り道をしていた。だから余計に時間が掛かってしまったのかもしれない。
……だけど今なら、そうして良かったと彼も彼女も思っていた。そうでなければ、本当の意味で分かり合えていたかもわからないから――……
「――おい、一色。いつまで私の虹に色目を使っている」
…………しかし、そんな良い雰囲気も、美月のせいで破壊された。
「……は?」
流石の一色も、まさかこの流れで美月がそんなことを言うとは思いもしていなかった。
ひたすらに気の抜けた声を出してしまう。
「何故。私が今までお前に手を出していなかったのか……知っているか?」
「……そういえば」
――水無月に対してかなり親密なスキンシップをしていたことを知られている割には、美月が大人しかったことに、一色は今になって気付いた。
……貴音美月は、ひたすらに我慢をしていたのだ。一色相手だからここまで我慢を出来たものだ。これがもし雪彦であったならば、既に天に召されていても不思議ではない。
それでも美月が自分を抑えていられたのは、全てが解決することを願っていたからだ。
そしてそれが解決した今――彼女を抑えるものは、何一つとしてない。
「デートの時ならばまだしも、貴様は登校時も虹と手を握りぃ!! あまつさえ、虹から服の裾を握られてぇ!! かっこいいところを見せて!!!」
「ちょっと待て、何であんたそれを知って――」
「見ていたからに決まっているだろ!! 私を置いて早くに出る虹に気付かんとで思っていたのか!?」
……正論である。
なおかつ野生の勘が凄まじい美月が勘付くことは、至極普通のことだ。
――一色は冷や汗をかいた。
「覚悟は、決まったか?」
「…………決まってないので、見逃してくれませんか?」
「――決まってなくても関係ないのが私だぁぁぁ!!!」
一色は叫び声が響いた瞬間に、廊下に向かって駆け出した。
「まてぇぇぇ、不届き者めがぁ!!」
美月はそれを超える速度で、逃げ走っていく一色を追いかけた。
……部室に残された海老名兄妹と水無月は、ポカンとしている。その中で海老名兄妹が互いに口を開いた。
「おぉぉ、ちひろん、足速ーい。……美月ちゃんはもっと早いねぇ」
「はぁ、しゃーねぇなぁ。このままじゃ千尋が死んじまうから、助けに行ってやるか」
「お、お願いします! じゃないと一色くんが!!」
水無月は本気で一色を心配してか、雪彦に頭を下げるのであった。
……雪彦と初香が少し駆け足で部室から出ていき、水無月は一人になる。
「……本当に美月ちゃんは馬鹿なんだから――一人ぼっちの部室、か」
しかし、水無月は今、一人とは感じなかった。
一人になって筆をもう一度握る。だけどもう、手が震えることはない。むしろ、他の描きたいものがどんどんと浮かんでくる。
だけどそれは一人で描くものではなく――一色が居なければ描けないものだった。
校庭では一色と美月が、壮絶な鬼ごっこをしていた。捕まれば最後、命はない本物の鬼ごっこである。
「……一色くん」
――その名を呟くと、水無月の心がトクンと鼓動を打った。
「あれ、変だな……。顔、熱いな」
室内に熱気が篭っているのだろう。水無月は部室の窓を開けると、そこから真冬の風が入ってくる。
……それでも変わらない。未だに顔は熱く、胸の鼓動は鳴り止まない。
先ほどまで一切起きなかった現象に、水無月は胸を抑える。
「――一色ぃぃぃぃぃぃ!!!」
「もう、諦めてくださいっ!!」
……遠くで軽く声が聞こえた。
だけど水無月の耳には、それはきっと入っていないだろう。
「……これはもう、病気だね。あはは」
――自覚はしていた。いつからかは、水無月にも分からないだろう。
本当にいつの間にか、水無月は病に伏せていた。
「……早く、絵が描きたいよ」
それは本音だ。水無月は今すぐにでも絵を描きたいと思っている。そう……
「――一色くんと一緒に、たくさん絵が描きたいよ」
困った顔で、頬を紅葉のように染め、水無月は冬風に当たりながらそう呟いた。空を見上げると、彼女の目に夕焼け空が広がっていた。
……その綺麗な空を見上げながら、水無月は一人、その余韻に浸り続けた。
おや、色恋沙汰の匂いが……(8章にてようやく)




