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こころのいろ  作者: 如月心
第8章 木漏れ陽で咲いた向日葵の花
54/69

1幕 温もりを取り戻すため

お待たせしました、8章の始まりです。

 朝、目を覚ますと一色千尋の腹部には違和感があった。

 それは何かといえば、妙に重いのだ。しかも視線の先の布団が、膨れ上がっている。


「……はぁ。そうだった」


 ――水無月とのデートが終わった後日の朝である。

 一色は昨日のことを思い出して、少しばかり意気消沈していた。

 ……思い出すは、数々の言動。それらは全て、水無月のことを想っての言葉であったが、冷静に考えてみると、それはどれもが雪彦が言いそうなものばかりであった。


 事実、デートプランの紙に書いていた、雪彦が考えたであろう台詞の数々の大差ないのである。むしろレベル的に言えば一色の言った数々の台詞の方が高難易度のものばかりだ。

 ――結論、一色は今すぐにでも消えたい気持ちになった。


「……あぁぁぁ、俺は、何を気障なことばかりを……っ。し、死んでしまいたい……」

「――ダメ!! おにいちゃんがしんんじゃったら、かずなもさびしくてしぬもん!!」


 ……重みの原因である和那が兄の呟きを聞いて、飛び起きた。

 …………水無月とのデート終わり、一色に待っていたのは、和那の相手……だけではなかった。

 一色は視線を和那から自室の床に向ける。……そこでは海老名兄妹が雑魚寝をしていた。


 今は安らかに眠っているが、昨晩の二人は、それはもう凄まじいウザ絡みをしていたというわけだ。内容は言うまでもない。


「……和那、今のお兄ちゃんはもうお兄ちゃんじゃない。一色千尋という仮面を被った恥ずかしい生き物なんだ――今日はもう、ずっと寝る」

「じゃあかずなも一緒に……」

「んじゃ、私も……」

「ナチュラルに布団の中に入ろうとしないでください、海老名先輩」


 いつの間にか起きていた初香を、一色はしっしっ、と追い払う。


「ひっどーい! ちひろんのために色々頑張ったのに、この仕打ち……うぅ、悲しいよぉ」

「……人が強く言えないことを良いことに――どうすればいいですか?」


 一色も随分と甘くなったものだ。

 すると初香はニンマリと笑みを浮かべ、


「ちひろんが笑顔で居てくれるなら、それでもう十分だよ!」

「……あざといのは寝起きでも変わらないんですね」


 わざとらしいが、しかし嘘は一つも言っていない。それが理解できるから、一色は無下にも出来ず、そうぶっきらぼうに言うのだ。


 ――一色もそれなりに面倒臭かったが、しかし水無月の事を考えればまだマシだと言える。何せ、水無月の方には……美月がいるのだから。


 一色は時間を確認するために携帯電話を開けると――メールが二十五件ほど届いていた。


「…………」


 とりあえずその一通を開けてみる。それは水無月からのもので……


『一色くん、美月ちゃんがやばい、助けて、このままじゃあ私、美月ちゃんの玩具にされちゃう!!』

「……一通目でこれか」


 一色は残り二十四件のメールを読む気がなくなる。

 とりあえず結論を知りたくて、一番最後に来たメールを確認する。時間はなんと、十分ほど前だ。それを開けると、


『――私、穢された……もう、お嫁にいけません』

「何があった!?」


 その間の二十三件のメールは、一色は決して開くことが出来ないのであった。


「……ふむ、美月ちゃんはここまで相当我慢していたからねー。虹ちゃん成分が枯渇して、どれだけ供給しても足りないんだよ――ここは初香ちゃんも、ちひろん成分を過剰摂取してみよっかな? あ、責任は取るから安心してね?」

「安心できませんから――和那、あの人がお兄ちゃんを奪おうとしているぞ」

「――ほんと?」


 子供とは思えないほど、低い声音に初香はビクリと冷や汗を掻いた。

 ――一色にとって和那は取り扱いの難しい武器である。持て余す時が大半だが、こうした状況では何よりも頼りになる。

 特に初香を相手にするならば、和那の存在は強い抑止力になるのだ。諸刃の剣とはまさにこのことである。


「そ、そんなないよ!? 和那ちゃんと私の仲でしょ!?」

「……こーちゃんの方がすき」


 その一言で、初香は再び倒れ込むのであった。

 ――昨日、実は美月と初香と雪彦は、準備室にいたのだ。予想以上に作業に手間が掛かり、やっとの思いで終わらせた頃に足音が聞こえ、急いで準備室に隠れた。


 そうして二人の会話を聞いていたのだ。

 ……聞いてしまえば、最後は想像が出来るだろう。


『うぅぅぅ、こーちゃん、よかったぉ』

『くそ、なんて良い話なんだ……っ! 千尋も虹ちゃんも、一生俺の仲間だからなぁ!!』

『こぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!』


 ……このように、大号泣の三人が後になって二人の前に現れ、美月が水無月を、海老名兄妹が一色を連れ去ったというわけだ。


「……とりあえず、朝食は作っておくので起きたら学校に行ってください。和那もだぞ」

「「はーい」」

「……ところで雪彦先輩はこの騒ぎの中でも起きないんですね」


 未だ寝ている雪彦を見て、一色は少し白けた目で彼を見た。


「ま、一度寝るとギリギリまで起きないからね――縛っておこう」


 初香はそう言うと、タオルで雪彦の足と手を縛りあげたのだった。

 ……一色はそれを見て苦笑い浮かべ、自室から出てリビングに向かう。っと、その時、携帯電話から着信音が鳴った。


『朝早いけど、一緒に登校しよう!』


 メールは水無月からで、内容は簡潔だ。

 現在、美月は幸せで完全に寝落ちしてしまっている。だから水無月もようやく自由を手に入れたのだろう。

 一色は水無月からのメールを簡潔に「了解」と返した。


「……今日も良い天気だな」


 リビングの窓から、空を見上げる。朝日が差し込んで眩しいほどだ。

 ――今日を持って、十二月に突入する。月初めは、実に清々しい朝であった。


○●○●


 人数分の食事を用意し、身支度を済ませる。それでも登校するにはまだまだ早い時間なのだが、一色は構わず家を出た。


 ……外に出ると、とてつもない寒さに一色は驚いた。扉を開けた瞬間、冷気の凄まじい風が入ってきて、つい一色は家に戻りたくなるが……しかし、玄関先に人が立っていたため、それをしなかった。

 その人とは、


「水無月?」

「え、えへへ……待ちきれなくて、歩いて来ちゃった」


 防寒対策が完璧な、制服姿の水無月であった。

 制服の上には学校指定のコートに、橙色のマフラーと手袋を着けていて、見るからに暖かそうである。

 メールのやり取りをして三十分も時間が経っていないことを考えると、メールをした時には家を出て一色家に向かっていたのかもしれない。


 一色家と水無月家は歩いて三十分ほど家が離れている。駅でいえば一駅区間ほどしか離れておらず、歩いて行ける距離なのだ。


「こんな寒いのに、良くやるな」


 一色は寒そうに身震いしながら、水無月の傍に駆け寄った。

 ……防寒対策が完璧な水無月に対し、一色は少し薄着気味だ。コートは着てはいるものの、あまり生地が厚いわけではない。一色はマフラーを着けてこなかったことを後悔した。


「ずっと引き篭もってたから、歩きたい気分だったんだよ! ……それに、歩いたら恥ずかしいのも無くなるかなって思って」

「……無くなったか?」

「ううん。残念だけど、まだちょっと恥ずかしいよ」


 水無月は照れながら、困ったような笑みを浮かべながら話す。

 ……水無月にそんな反応をされたものだから、一色もプイと視線を逸らしてしまった。


「「……………………」」


 そして、二人の間に流れるのは、気まずい無言。デートの時も同じようなものがあったが、昨日と今日ではその性質はガラリと違った。


 先日のものは水無月に元気がなく、あまり良い意味ではない無言。しかし今日は……互いに恥ずかしいという感情が先決した結果の無言だ。

 心地悪いにもかかわらず、何故か居心地は良いという。一色は反応に困った。


「き、昨日はありがとうね! 一色くんには、すごく助けられちゃったよ!」

「あ、ああ。別に大したことじゃないけどな」


 ……なんなのだ、この初々しい付き合いたての恋人のような雰囲気は。この場面で美月と遭遇すれば、一色の命は無いにも等しい。


 幸い美月は水無月の部屋で幸せそうに眠っているから、その心配はないが。


「……はぁ。お互いに気にするのは止めよう。こんなんじゃ、今日の放課後に何を言われるか、分かったもんじゃない」

「そ、そうだね。……主に初香先輩に」


 実に良く分かっている二人であった。

 ――ともあれ、一色と水無月は駅に向かう。


 一度割り切ってしまえば、そこからは二人とも雰囲気はいつもに近いものであった。内心では互いに思うところはあることは間違いない。


「実は水無月のメール、最初と最後しか見てないんだ。途中が怖くてな」

「…………読まなくて良いよ――すごかったよ、昨日の美月ちゃんは」


 とても遠い目をしながら、達観した口調で水無月は話す。自分のことなのに、自分のことではないように、そう話すのだ。

 それを目の前にして一色は悟った――これは聞いてはならないことであると。


「聞いた俺が悪かった。聞くまでもなかったな」

「察してくれてありがと」


 水無月は微妙な笑顔を浮かべながら、そう言った。

 ……普段よりも遥かに早く家を出ているからか、乗り合わせた電車も人が少ない。


 一色と水無月が電車で学校に向かうこと一時間弱。その間は世間話をして過ごしているのだが、どうにも平和すぎる時間だったからか……嵐の前の静けさのような気分になる。


「……なんだろうね、平和すぎて嫌な予感がするの。なんかこう、とてつもない大嵐が来るんじゃないかって」

「止めろ、そんなことを言ったら本当に起こるんだぞ」


 伏線というものは、案外簡単に回収されるものだ。事実、この後に二人にはそのような結末が待っているのだが……想像できるはずもないだろう。


「――はふぅ」


 不意に水無月は口元に手を当てて、欠伸を漏らした。


「……眠いだろうな。貴音先輩のせいでほとんど眠ってないんだろ?」

「あはは、目の前で欠伸したら気付くよね。……ううん、一色くんなら、そうじゃなくても気付いてくれるか」


 水無月はそう苦笑いをすると――一色の肩に、頭を乗せた。

 ……一色千尋は困惑する。今更何に困惑するのだ、と言われても可笑しくないのだが、それでも困るものは困るのだ。


 先日は「水無月のために恥は全て捨てる」という覚悟の元、らしくもない言動を繰り返し務めた。事実、一色は理想的なデート相手を全うし、今の水無月は自然な笑顔が戻りつつある。

 だがしかし――今は素面だ。理性の枷が全力で掛かっている状況下でこんなことをされては、嫌でも胸が高まるというもの。


 少なからず意識をしている水無月が相手ならば尚更だ。


「水無月、ちょっと……距離、近くないか?」

「んんー、そんなことないよー。普通だよ、普通」

「待て、お前の中の普通の基準って、絶対に昨日で――」

「……ダメ?」


 水無月は上目遣いで、ダメ押しのようにそう言った。

 実に海老名初香のような殺し文句だ。大半の男子はそれで封殺されることは確定的だ。

 しかし……、


「――ダメに決まってるだろ、いい加減にしろ」

「痛いっ」


 相手が悪い。理性の塊である一色に、そのような色仕掛けが通用するはずがない。

 一色は水無月の額を指で弾き、少し悪い笑みを浮かべた。水無月はそれで一色の肩から離れ、額を抑えて一色を恨めしい目で見つめた。


「うぅ、女の子に手を上げるなんて、酷いんだー」

「いたいけな男子に、そんなわざとらしいことをするから悪い」

「……いたいけな男子はもっと動揺すると思うけど」

「――残念だな。美術部に入って、俺はそういう動揺に慣れたんだ」


 一色は胸を張り、ふふんと笑う。彼としてはその反応で水無月が突っかかってくることを予想していたのだろうが……予想に反して、水無月は嬉しそうであった。


 一色の隣でニコニコと笑う。それに一色は、妙に居心地の悪さを感じた。


「な、なんだよ。そんなに笑う要素あったか?」

「あるよ。……嬉しいなーって思って。一色くんと出会ってから、どんどん私の前でいろんな表情を見せてくれるようになったから――だから、自然に私も笑顔になるの!」

「…………」


 ――一枚上手なのは水無月の方であった。

 ここが一色の中で、彼女が誰よりも厄介な点である。狙ったわけではなく、本音から思ったことを口にする。より関係性が深くなった今だからこそ、水無月の無意識な武器は強力な破壊力を持っていた。


 一度それが発動すれば、一色は否応なく照れてしまう。現に今、彼は照れの真っ只中だ。

 しかし、それで終わる一色ではない。このまま水無月の天然に敗北するのは、一色の中の謎のプライドが許さなかった。


「……い、一色くん? ど、どうしたの、突然」

「……別に。気にするな」

「き、気にするよ! なんで、突然……て、手を握って」


 ――対抗のため一色は水無月の顔を見ないように、彼女の小さな右手を握った。突然の手繋ぎに水無月は動揺する。


 先日はずっと握っていたが、それとこれとは話が別だ。先日の一色は使命感のようなものから、手を握っていた。そのことを理解しているからこそ、水無月は彼の今の行動に動揺する。


 ……手を握るということは、つまり一色自身が手を繋ぎたいと思っていることに他ならない。


 いや、実際には違うが、水無月がそう勘違いしても可笑しくなかった。


 ……天然に弱い一色に対し、水無月はわざとらしい行動に弱い。根本の部分で似ている二人であるが、表面的な部分は本当に正反対である。


「……今日は、寒いからな」

「さ、寒いか……なら、仕方ない、のかな?」

「あぁ、仕方ない。仕方ないから…………俺、何やってんだ」


 こちらの台詞である。


 しかし、一度繋いでしまった手を、逆に離す機会がなくなってしまった。一色も水無月も、どちらも手を離そうとはしない。


 何故なら握りたくない理由が思い付かないから。故に二人は……


「「…………」」


 顔を真っ赤にしながら、無言でその後の電車を乗り続けた。

 周りには通勤中の社会人や、年老いた年配の方々がいる。二人の姿を見て、やけに生温かな目を送っていた。


 ……一つ、どうしても言わせて欲しい――……なんなのだ、その初々しい付き合いたての恋人のような雰囲気は、と。

 しかしここにはそのことに触れる二人の知人は、誰一人としていないのであった。


○●○●


 気まずい電車を降車して、二人は肩を並べ通学路を歩く。


 流石に通学路では手を繋ぐことはしていない――が、水無月は一色の服の裾を引っ張っていた。その行動、無意識なのだろうが、面食らう人間には相当の攻撃力を誇る一撃だ。

 そうして歩く時も、電車の中と大して雰囲気は変わらない。心地悪くはないものの、話さないことが落ち着かない二人であった。


「――やぁ、おはよう、二人とも」


 ……そんな時、突然後ろから声を掛けられた。

 突然のことに一色と水無月は立ち止まり、ビクッと身体を震えさせる。

 そして水無月はパッと手を離し、恐る恐る後ろを振り返ると……


「――わ、渡邊先生に、さーちゃん先生……お、おはようございます」

「……妙に良いタイミングで話し掛けてきましたね。おはようございます、先生たち」


 そこには、いつも通りに笑う渡邊と、ニヤニヤと意地悪く笑う咲良が居た。


「はは、それは勘ぐり過ぎだよ」

「と言いつつ、話し掛ける機会を窺っていたのは本当だけどね――あと水無月ちゃん、咲良先生でしょ?」


 咲良はわざとらしく声を大にして、そう指摘した。……しかし水無月は少し気まずいのか、「はい」と小さな声で呟いた後、何も言えない。


 ――たくさん迷惑を掛けたことの罪悪感が残っているのだろう。特に自分から距離を取ってしまった手前、何を話せば良いのか思い付かないのだ。


 しかし、水無月は逃げたりはしない。少し躊躇い気味に下を俯いていたが、次の瞬間、


「あの!」


 バッと顔を上げて、渡邊と咲良の目を見た。そしてそのまま頭を下げる。


「迷惑をお掛けして、本当にごめんなさい!!」

「……水無月さん」


 渡邊は、水無月の突然の行動に目を丸くする。しかし大して驚いている様子はない。

 どうして水無月が謝るのかも、どんな心境かも理解しているのだろう。渡邊はふと腕を組んで、少し考えるように唸る。


「う~ん……この場合、僕は水無月さんを怒れば良いのかな?」

「そうね。怒るべきところは怒るべきじゃないかしら」


 渡邊の言葉に、咲良はそう言った。すると渡邊は……口元で柔らかい笑みを作って、水無月の方を見据え、その上で叱咤を待つ彼女に言葉を掛けた。


「君の状況は、滝色さんから聞いた。僕なりに事情は把握しているし、休んだ理由の体調不良も本当のことだから怒ることはない。……それでも怒るとしたら――一色くん、そろそろ僕の課題、出そうか?」

「……え?」


 ……突然、矛先が自分に向いたことに、一色は呆気を取られて情けない声を出してしまう。


「え、ってないだろう。君、早々に課題を完成させているのに勿体ぶって提出してないだろう? 課題が終われば次の課題を次々に出すのが僕の方針だ。つまり君、サボっているってことだよね?」

「いや、待ってください。そんな理不尽な――」


 他の生徒がまだ誰も完成させていない上に、事情を知っているのだ。一色は渡邊がそんな風に突いて来るとは思ってもいなかったからか、素で困惑していた。


「良いかい? 僕の方針は基本スパルタだ。一色くんはスパルタのし甲斐があるからね」

「ちょ、ちょっと待ってください! な、なんで一色くんが怒られているんですか!?」


 水無月は我慢できず、一色と渡邊の間に入り、そう聞いた。すると渡邊はわざとらしくポカンとした表情を浮かべ……


「いや、だから特に怒ることがないから……」

「ありますよ! 先生たちが心配しているのに、何も相談しなかったし、学校もずっと休んでたし! それに――」


 水無月が自分の非を次々と並べる。すると、


「――それを水無月ちゃんは反省している。だから玲は怒ることがないのよ」

「……で、でも」


 咲良は渡邊の言いたいことを代弁する。その言葉に水無月は呆気を取られるも、すぐに食い掛かった。


「だ、だから私が怒られるのが然るべきで……」

「――悪いってことを反省して、その上で謝れる子に、どうして怒らないとダメなの? そもそも怒ってもいないもの」

「って、御子に代弁されたけど、そういうことだよ。むしろ水無月さんが謝るべきはクラスメイトや……君が大切にしている、仲間たちにだろう」


 そう言うと、渡邊と咲良は二人の間を通り過ぎて行った。

 一色と水無月は、先を歩いていく渡邊と咲良を見送るように見つめた。


「……渡邊先生らしいな」

「そうだね。……一色くん、私たちも行こう!」

 すると水無月は一色の制服の裾を引っ張り、学校に向かって歩き出した。




 歩いていると、次第に校舎が見えてくる。

 昨日に学校に来ている二人としては、十数時間ぶりの校舎だ。しかしそんな中、水無月は異様な緊張感に包まれていた。


 ……本当の意味での、久しぶりの登校。周りにはチラホラと生徒が歩いていて、水無月は不安そうな表情で一色を窺い見た。


「い、一色くんどうしよう! なんだか、敵地に向かう新兵みたいな気分だよ~」

「お前にその人の気分が分かるのか? ……まぁ言ってることは分からないことはないけどさ」


 情けない声で、そんな意味不明なことを言い出す水無月を見て、一色は頭を抑えた。

 ……一色は水無月の背中を押す。


「わわっ」


 水無月はその勢いのまま門を越えて、学校の敷地の中に入った。

 門の前から一色が、敷地の中から水無月が互いに視線を合わせる。


「敵地も何も、ここは俺たちのホームグラウンドだろ」


 一色は苦笑いを浮かべながら水無月にそう言って、自身も敷地の中に足を踏み入れた。

 そして水無月の隣に立つと、


「ほら、味方に伏兵がいるかもしれないし……」

「もし居たなら、俺と海老名先輩で見つけ出すから安心しろ」

「――そう言われたら確かに、何でか安心しちゃうかも。美術部で怒らせたら怖いトップツーだもんね」

「…………」


 一色は口が開いても「お前もな」とは言えなかった。

 確かに初香と一色が怒ったら怖いだろう。だが、誰よりも怒らせてはならないのが自分であるというのは、水無月はきっと分かっていないことだ。


 ――ビュッと、少しばかり強い風が二人を襲う。校門の方から吹き抜けた風に煽られるように、一色と水無月は前を向いた。


「…………っ」


 そしてそこに立っている人……人たちを見て、水無月は息を呑んだ。

 言葉を失ってしまったのだ。


「……久しぶりですね、水無月さん。作品の調子はいかがですか?」

「……絵画コースの」


 その者たちに、一色は見覚えがあった。

 ……水無月が専攻する絵画コースの教師の数名がそこにいたのだ。


 水無月のことを白けた目で見ていて、彼女は途端に居心地が悪くなる。一色はそれに気付いて、すぐに水無月を庇うように、教師と彼女の間に立った。


 ……少なからず一色とも因縁があるからか、教師は訝しげな顔付きになった。


「水無月に何か御用ですか?」

「御用も何も、私は彼女のコースの担当教師だが」

「……体調の心配の前に、作品の調子を聞くことが、そんなに大切ですか?」


 一色は少しばかり棘のある言い方をすると、口を開いた教師が少し眉間に皺を寄せる。

 ……一色はふと思った――プライドが高い人間であると。


「(もし今、罪悪感がある表情を浮かべたなら何も思わなかった。だけど今の反応は明らかに……反論されたことにイラついたんだ)」


 それを見抜いたからこそ、一色は特に声を荒げることはせず、冷静に、淡々と話す。


「まぁ別にどうだって良いです――俺たちは用事があるので、失礼します。あと遅れましたが……おはようございます、先生方」


 一色は水無月の手を引き、教師たちの前から立ち去ろうとした。

 その横を通るとき、チラリと彼らの顔色を見ると……大よそ生徒に向けるような視線ではない。

 酷く歪ませたそれは、今すぐにでも誰かを罵倒しないと気が済まないようなものだ。そんな内なる暴力性を隠しきれておらず、そして彼らは……行動に移した。


「――水無月さん、コンクールに出さないのは結構ですが、君は留年するつもりですか?」


 ……それを聞いて、一色はピタリと足を止めた。

 それを好機と思ったのか、途端に教師は活気付いて話し続ける。


「君の不出来な作品でも、コンクールに出せば単位はもらえるよ。一年生の採点基準は甘いからね――でもそれも出来ないなら、もはや君はこの学校に居続ける意味があるかね?」

「そ、それは……っ」


 水無月は何も言い返せない。

 ……事実、水無月は絵が描けない。手の震えが止まらなくなる前に描いていた絵は、本人の手によって破り捨ててしまったのだ。

 故に現状、水無月がコンクールに出す作品はなかった。だから水無月は何も言えず、また悲しそうな顔を浮かべてしまった。


「……水無月、あんな言葉、耳を貸す必要はないよ」


 ――そんな水無月に、一色はそう言葉を掛けた。

 水無月の目を見据えて、決して教師の方は見ない。その態度に納得がいかないのか、教師の矛先は一色に向かった。


「目上の者に対して君は言葉が過ぎる。クリエイティブな道に進むのに、まずコミュニケーションは必須だろう? 明らかに社会能力が欠如しているね、君は」

「……目上も何も、互いに利にならないのに、話す必要もないでしょう」


 しかし一色は、そんな煽りを気にすることもなく、淡々と言い返した。


「や、やせ我慢だね。事実を言われて、怒らない体を見せているのかい?」

「……何のことを言っているんですか? 発想が斜め下過ぎです――あなたたちの言葉はどうでも良過ぎて、心に全く響かなくらい安っぽいんですよ。それに一々反応するほど餓鬼じゃないです――反抗期でもないんですから」


 一色は最後、鼻で笑いながらそう言った。


「……良いんですか? 他の生徒から注目の的ですよ」

「……っ」


 一色がそう指摘すると、周りには少なからず生徒が彼らに視線を向けていた。

 ……元よりあまり絵画コースの教師の評判は良くない。それでもこの学校が開校してから最も歴史の長いコースだから、強く言える者は中々いないだけだ。


 簡単に言えば嫌われている。もっと悪く言えば、誰も彼らに関わりたくないのだ。

 だから絵画コースの生徒は年々減少傾向にある。人気は音楽系のコースに流れて、近年では歴史の浅いサブカルチャーコースと生徒数が横ばいになっているほどだ。


「……あと、コンクールのことは心配しなくても良いですよ――ちゃんと出して、結果を出しますから」

「……結果を出す? 彼女が? ――無理だ。水無月のレベルでは、コンクールで落選は確実だ」


 ……一色はそれを否定する言葉が喉元を過ぎるも、口には決して出さない。

 彼らを前に感情的になるわけにはいかないのだ。そうすれば弱みを見せ、何を言われるか分かったものではない。


 ――一色は目の前の教師たちに酷く落胆しながら、鞄の中から向日葵学生コンクールのチラシを取り出した。


「俺たちで、結果を出します」

「一色くん……」


 水無月は教師たちを前に、堂々と構える一色を不安そうに見つめていた。

 ……まだ具体的なことは何も決まってはいない。本当にそんなことが可能なのかも分からず、そして何より――水無月自身、絵を描けるかどうかも未確定なのだ。

 だけど一色は水無月のことを信じて、そう断言していた。


「……おんぶに抱っこか。お前らしいな」


 教師の一人が、そんな暴言を吐いた。

 しかし一色は――


「そうですね。俺らがしていることは結局、足の引っ張り合いです」


 ……それを認めた。

 教師は少なからず呆気を取られる。また反論をされると思いきや、まさかあっさりと認めるとは思ってもいなかったのだ。


 言葉に詰まり、表情を何一つ崩さない一色に、どこか恐怖さえ覚えていた。


「そ、それのどこに意味がある!?」

「意味はあんたたちが見出すんじゃない。俺たち二人が見出すんだよ」


 ……無暗に否定する彼らに、一色の敬語が崩れる。

 別に、感情的になったわけではない。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。


 ただただ――残念なのだ。哀れみのような感情だ。一色はただ、視野が狭く否定ばかりが先決する彼らに、ひたすら落胆しているだけだ。


 そしてそれをわざわざ諭す気にもならない。……諭すとは、好意を持っていてこその行為だ。一色が彼らにそんなものを抱くはずもない。


「俺には足りないものがあって、水無月には足りないものがある。自分ではどうにもできなくて、だから足を引っ張り合って、足りないものを補うんだよ――それを無駄だとは言わせない」


 ただ冷静に、教師たちを黙らせることだけを考えていた。

 彼らを黙らせるものは何だろう、と。一色は考えていた。


 言い負かすだけなら簡単だ。こうやって公然の前で恥をかかせてやれば良い。だが、それでは彼らのしていることと何ら変わらない。

 ならば彼がすることはただ一つで……


「――俺と水無月は、このコンクールで結果を出します。少なくとも入選は必ず」

「……必ず入選する、だと?」

「ええ。俺と水無月なら、絶対に可能です――なぁ、水無月」


 ……一色は最後、水無月の方を向いてそう聞いた。

 ……水無月は不安に満ちた表情だ。


 一色の言っている言葉には実際、根拠はない。絶対に上手く行くとは限らない、グラグラの橋を渡っているのと同じだ。


 ――なのに、一色は自信に満ち溢れていた表情をしていた。自分の言った言葉を、信じて疑っていないのだ。

 水無月の目を真っすぐ見つめ、決して離さない。


「……わたし、は」


 その強い目が、水無月の口を動かせる。

 何も言えなかった心に熱が篭り、握る手が強くなる。


 ――一色くんは、私に力をくれた。心の中で水無月は、そう思った。

 だからこそ、そこまで信じてくれる一色に、水無月は報いたかった。ここで彼の言葉を否定してしまえば、それは信頼を裏切るのと同じだ。

 ……水無月は決めたのだ。


「私は――」


 覚悟は決まった。だからこの後、自分が何を言いたいのかも決まった。

 それは弱音でも否定的な言葉でもない。


「――絶対に、絵を楽しんで描きます!」


 見返す言葉ではなく、否定させないという決意。

 つまり一色の言葉に同意する言葉であった。


「……だから、胡坐をかいて待っててください。私は……もう、逃げたりなんてしません」


 ……水無月の瞳に、強い色が灯る。

 それに負けるように、教師たちはたじろぐ。


「そ、そんなこと、出来るはずが……」


 ……ない、とは言えなかった。

 少なくとも彼らの前で、否定する言葉を言うことは出来ない――何故なら、そんなものは一色千尋と水無月虹には全く通用しないから。

 ……二人は教師たちに背を見せて、校舎の方に歩いていく。教師たちのことは決して見ることはなかった。


「……強くなったね、一色くん、水無月さん」


 ――その光景を陰から見守っていた渡邊は、校舎へと歩く二人を見つめてそう呟いた。

 彼は一人、物陰から様子を見計らっていた。彼のクラスの生徒が、騒ぎを嗅ぎ付けて報告したのだ。

 校門の近くで、水無月と一色が教師たちと一触即発であると。

 そして急いで現場に向かい……この場に自分が必要ないことを悟った。


「……そうだ、一色くんと水無月さんは、彼らに立ち止まる必要はない。彼らのことなんて考える時間が勿体ない」


 渡邊は、そっと眼鏡を外した。

 ハンカチでレンズの汚れを拭き取り、しかし眼鏡を再び掛けることはなく――絵画コースの教師たちを睨みつけるように見ていた。


「……僕は僕にしか出来ないことをする。君たちが笑顔でいれるため――約束を果たそう」


 そうして渡邊は、眼鏡を掛けないまま、自身の研究室に向かう。

 ――その表情は、きっと誰も見たことはない。

 優しくて笑顔が絶えず、人気が高い渡邊玲からは考えられないほどの――怒りに満ちた、そんな表情なのだから。

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