3幕 多数決とは理不尽なものである
――作戦会議を経た結果が、今の状況だ。
水無月は美月と初香の手によって外に出された。そしてそこにいるのは、いつもよりもお洒落で髪型もばっちり決まっている一色である。
そんな一色が放った一言は、これまた予想外なもので――「俺と二人で、デートしよう」である。
現在進行形でどういう状況か理解していない水無月は、もはや一色についていくことしかできなかった。
「……本当に、なんなんだろうね」
というより、水無月には一色から逃げる選択肢がそもそも用意されていなかった。
何故なら、第一に水無月はお金を持っていない。しかも自宅の鍵も持ち合わせておらず、家に入ることは出来ないのだ。更に時間潰しに最適な携帯電話も家に置いている。
それらは初香たちが周到であったと言えよう。逃げ道を失くす――初香辺りが考えそうなことだ。
「……悪いな、色々と無理やりで」
「ホントだよ、もぅ…………」
そう言うと、水無月は言葉に迷う。そもそも誰かと話す気分ではなかったのだ。しかも相手が一色であれば余計に、何を話せば分からなくなる。
……だが、今日の一色は一味違う。
「良くニアッテルナ、ソノフク。カワイイヨ」
「待って、なんでそんなに片言なの!?」
「そんなことないだろ――良くニアッテルヨ」
「相も変わらず片言だけど!?」
器用なのが、前半はしっかりと一色の言葉なのに、後半が完全に誰かに入れ知恵されたと思わせるように、片言なところだろう。
誰の入れ知恵かは、はっきりしているが。
「でも、今日は絶対に逃がさないからな」
――そして一色は、水無月の手を握った。
普段の彼を知っていれば、その行動はあり得ないことである。もちろん、以前に水無月も自分から彼の手を握ることはあったが、彼からされるのは初めてだった。
「い、一色くん?」
「逃がさないための人間手錠だ。こうでもしないと水無月はすぐに逃げ出すから」
「…………強引だね」
「ああ、強引だな」
水無月は諦めたように、肩から力を抜いた。
――自分のためにしているということは、水無月も分かっていた。最初こそ突然のことで動揺したが、家に閉じ篭ってばかりの自分に嫌気が差し、強硬手段を取ったということだろう。
そう理解したうえで諦めたのだ。何があろうと、今日、一色がその手を離すとは思えないから。
「今の水無月に必要なのは圧倒的な気晴らしだよ――今日は面倒臭いこと、全部忘れて俺と遊んでもらう。これ、決定事項だから」
「……はぁぁぁ」
――水無月は毒気が抜かれたように、深いため息を吐いた。
……この行動、どこかで見覚えがあると思ったのだ。それは彼女の最愛の幼馴染の行動、更に言えば言動も似ていた。
ならば自分には逃げ出す術はない。何しろ十数年来の付き合いなのだから、分かり切っていた。
しかし、溜息を吐いている癖に水無月はあまり嫌な感情は抱いていない。だから諦めた様子を窺わせながらも呟いた。
「……本当に、しょうがないなぁ」
「――タメイキナンテ、カワイイカオニ、ニアワナイゼ」
「無理しなくて良いんだよ!?」
……誰の入れ知恵かは水無月も分かったようだ。
――そうして二人が向かう先は、駅であった。手を繋ぎながら到着すると、そこで水無月は一色に疑問をぶ付ける。
「ちなみにデートって、何するの?」
……生まれてこの方、男の子とデートをしたことがない水無月は、そんな根源的なことを質問する。
普段ならば一色は動揺するところかもしれない。もしくは返答に困るだろう。
だが今日の彼を舐めて貰っては困る。今日の一色千尋は、どこに出しても可笑しくないほどの男(雪彦談)だ。
「二人で楽しめるところに遊びに行く」
「……つまり、任せろってこと?」
「そういうことだ」
一色は懐から切符を二枚取り出し、それを中指と人差し指に挟んで見せて、キリッとした表情を浮かべる。用意周到こそ彼の性質を表す言葉だろう。
「し、周到だね――それでどこ行くの?」
「……虹北高原だよ」
それは一色が部活に入って間もない頃に行った高原だ。
それからも何度か足を運んだことはあるものの、少なくとも二人が行くのは数か月ぶりである。
「虹北高原……」
「それなら、のんびりできるだろ?」
「……強引なのに、そういうところは優しんだね」
水無月の状況を考えての選択に、彼女は久しぶりな笑顔を浮かべた。
――しかしながら、思考が状況に追いつくにつれて水無月は思い出す。
「(この前の電話のこと、聞きたいな)」
それは先日、一色が公衆電話から掛けてきた電話についてのことだ。あの時、時間がなくて良く分からない質問を一色は水無月に投げ掛けた。
その真意が良く分からず、水無月は一色にそれを尋ねたいのだが……自身の状況が状況なだけに、聞くのは容易ではなかった。それに加えて今日の一色は頻繁に話し掛けてくることも重なり、水無月の望みは適うはずもない。
「ところで水無月」
「え、え? な、何かな?」
少し無言で考えていた水無月に、一色が話し掛けた。
「その、強引に連れ出した俺が言うのもあれなんだけどさ――改めて。今日は俺も楽しみたい。水無月とゆっくりと話したいし、お前と遊びたい気持ちは本当だから」
「……うん――エスコート、お願いするね」
大真面目に一色がそう言うと、水無月はすぐに頷いた。
こういうところが一色の最大の魅力であると、彼は気付くことがあるのだろうか。些か疑問であるが、水無月はそうしてはっきりと言われた方が安心する。
ともあれ突然始まった美術部一年生の初デート。何もこれは唐突に決まったわけではなく、綿密に練られたものだ。
その綿密さは、作戦思考時間が二十四時間を越えるほどである。ほぼ一日を費やして、水無月のためだけに美術部の他の部員全員が意見を出し合って生まれた、水無月を笑顔にするための作戦。
その名を――
「ラブラブデートダナ」
「もう突っ込まないけど、絶対に海老名先輩からの入れ知恵だよね?」
「……察してくれてありがとう。もうやめるよ」
ラブラブデート大作戦(雪彦命名)である。
――互いに苦笑いを浮かべる一色と水無月は、到着した電車に乗り込む。先に一色が乗り、そして水無月が手を引かれて車内に入っていった。
……その時、水無月は気付いていなかった。自分の状態を――普段も少し震えるほどに悪化した手が、一切震えていないことを。
そうして一色主導のデートが始まる。
○●○●
「デートしかないだろ」
開始早々、雪彦はそう宣った。
――一色が放課後、先輩三人に思いの丈をぶ付けた後、その日の部活動は作戦会議になった。四人は椅子を円状に並べ、その中心に学校指定の一人用の机を置く。その上にはノートが開かれており、書記は一色だ。
開始早々、書きたくない単語が出たことで、一色は白けた目で雪彦を見つめていた。
「何を色ボケたことを言っているんですか」
「あぁ? 至って真面目だぞ」
「真面目にデートって……そもそも雪彦先輩って、水無月に距離を持たれてるんじゃ」
「や、やかましいぞ!? そんなの俺も知ってるわい、うわーん!!」
自分で言って泣き出す雪彦を、まるで可哀そうな人のように見るのは、美月と初香の二人であった。
雪彦は恥ずかしげもなく泣きながら、一色を指差した。
「だ、だからデートの相手はお前な、千尋」
「…………はい?」
唐突な役割の任命に、一色は呆気を取られる。
「まぁ順当だねぇ~。雪彦じゃ不安だし、女子同士でデートとは言えないし」
「いやいや、待ってください。なんで、デート案で話が進んでいるんですか!? 俺、そんな経験ないですし、そもそも――」
「……やかましいぞ、さっさとノートにデートと書かないか」
……美月は血の涙を流しながら、圧倒的重圧が溢れる声で一色にそう命令する。
――複雑な気持ちなのだ。水無月に基本過保護な美月は、例え相手が一色であろうとデートなど許せない。それはもう、血の涙を流すほどに。
だがその断腸の思いをしてまで、美月はこの作戦にはする価値があると判断したのだ。
「良いか、私は今回、私情を全て捨てて最善の結果を求める。例えそれが……お前と、虹の、仲が私よりも深まるとしても……っ」
「捨て切れてないじゃないですか。今にも俺に掴み掛かってきそうなんですけど……」
「……否定は出来ない」
ブルッと身体が震える。身の毛がよだつのも仕方がない。何しろ彼女は本気なのだから。
一色は渋々、ノートに「デート」という文字を書いた。
「んじゃデート路線で考えよっか! じゃあ次はデートプランだけど……」
「先に言っておきますけど、街を展望できて夕焼けが綺麗な高級レストランで食事、とか言ったら怒りますからね」
「が、学生らしいのが良いよね!!」
一色は先手を打ってそう言うと、初香は一筋ほど汗を流して考えを変えた。初香の目には、その背中に渡邊のようなオーラが見えたことだろう。
「……学生らしく、か。千尋の良いところをふんだんに盛り込める内容の方が良いよな」
雪彦はらしくなく、真面目な表情を浮かべ、顎に曲げた人差し指を当てながら考える。その姿は非常に絵になり、一色は少し感心した。
普段は残念性が浮き彫りになっているが、ひとたび真面目になればこんなにも格好いい人であると、今になって再認識した。
「あん、何見てんだ?」
「……いえ、特に深い意味は」
「お前、まさかまた俺を弄ろうとか考えているな!? ゆ、油断も隙もねぇな、おい!!」
盛大に勘違いしているところも、雪彦の恒例と言えよう。一色はあくまで雪彦のことを珍しく尊敬していたのだが、わざわざそれを彼に伝えることはなかった。
「ちひろんの良いところ――料理上手、面倒見が良い、冷静、知的、絵が上手い、話し上手」
「恥ずかしいから止めてください。あと、最後のは流石にあり得ないです」
口下手が良いところだ、と思う一色であるが、それに反して初香はプクッと頬を膨らませた。
「嘘なんてついてないよ! だって私、ちひろんと話していてすごく楽しいもん! ツッコミ的確だし――あ、ツッコミが上手いのも良いところだね♪」
「分かりましたから、もうやめてください……っ」
良くもまぁ、恥ずかしげもなく、そんなことを言えるものだ。一色はそう思いながら、それを振り払うようにノートに意識を向ける。上手く図式を作ってノートを整理する。
「って、貴音先輩からの意見が全く出てないですね」
「……なぁ、一色。私が、そんなデートに詳しい女だと思っているか?」
「…………話を、戻しましょう」
一色は触れてはいけないものだと理解し、美月から目を背けた。
あれに触れることは危険である。触れれば情け容赦なく噛み付かれ、死ぬまで離されないことは言うまでもない。
「ま、美月は異性に全くモテないから仕方がな――」
彼が最後まで台詞を言うことはない。何故? そんなもの、普段の彼らを少なからず知っているのならば……
「貴様ぁ、言ってはいけないことを言ったなぁ!?」
――雪彦が失言し、美月は彼に飛びかかった。
華麗な動きでその首を捉え、羽交い絞めにする。いつも通り過ぎて一色は笑うことさえしないのであった。
「ぐぉぉぉお……」
普通に生活していれば絶対に出さない声を出す雪彦と、普通に生活していれば絶対にしないプロレス技を繰り出す美月を傍目にするのは後輩二人だ。
一色と初香は顔を見合わせて――
「二人で考えよっか! お兄ちゃん、解放されて生きてたら戻ってきてねー」
「おまえらぁ、だすげろよ……っ!」
雪彦は初香と一色に助けを求めるが……触らぬ神に触れたのは彼自身である。
――雪彦の苦し気な声を傍目に置きながら、一色と初香は話し合った。
「とりあえずデートで決定なのは、もう諦めてね。それと相手はどう考えても、ちひろんが適任だから」
「……まぁ、俺が一番話さないといけないですから。でもデートって一括るられると、ちょっと気恥ずかしいというか」
「……じゃあ一度予行演習に放課後――」
「あ、結構です」
初香の言うことが安易に予想できた一色は、手の平を横に振って断る。
すると初香は……引き攣った笑みを浮かべていた。
「ほ、ほぉ? 割とモテる初香ちゃんの申し出を棒に振るんだー、へー」
「……あの、なんで近づいてくるんですか?」
「なんかね、女としてのプライドを損なったっていうか――デートの日に、こーちゃんに失礼がないように鍛えるって今、決めたのー」
……ぬるりと近付き、一色の腕を絡め掴む。そして一色に顔を近づけ、とてつもない至近距離で話し出した。
「ち、近いですが」
「これくらい近くないとダメでしょー? それにちひろんには、女の子を褒める力が足りてないから――デートなんだから女の子は褒めないとね? さ、私の良いところをざっと、二十個ほど言おっか!」
……一色は自分が失言したことに気付く。しかし既に撤回するには手遅れで……部室は、とても混沌とした雰囲気になるのだった。
プロレス技を掛けられる雪彦と、女の子との接し方の英才教育を受ける一色は、互いに苦しそうな声を上げるのであった。
……ちなみに、この不毛な時間は、
「……何をしているんだい、君たちは」
――心配になって様子を見に来た渡邊まで来るまで続いたという。時間にして一時間ほどを無駄に過ごした彼らだった。
○●○●
作戦会議は続く。学校から舞台は一色家になる。理由は簡単で、学校から一番近い上に適しているからだ。
駅の近さで言えば最も近いのは美月の家であるが、彼女の家は最寄駅から徒歩でそれなりに歩く。しかし一色家は駅から近い場所にあるのだ。それが理由で彼の家に行くことになった。
一色手製の夕食を平らげ、少しだけのんびりと時間を過ごす。そしてリビングで再びノートを広げて作戦会議は再開した。
ソファーに一色、初香が座り、床に雪彦と美月が座る。一色の膝の上には訳も分からず参加している和那が座っていた。五人の中心には机があり、机の上にはノートと人数分のマグカップにはそれぞれ温かな紅茶が注がれていた。
「さて、続きだな」
「おー」
「……和那、なんでいるんだ」
一つ違う点は、和那がしっかりと参加しているというところだろうか。
一色家に長女である和那が居て可笑しい理由は一つとしてない。なおかつ美術部員と浅くない親交があるのだから、彼女が輪の中に入るのも当然だ。
しかし内容が内容だけに、一色は先輩たちが和那の悪影響になることを危惧していた。要は兄心である。
「なかまはずれ、やだ」
「……そう言われると――すみません、良いですか?」
「良いけど、やっぱりちひろんは和那ちゃんに甘いねー」
「話、進めますよ」
若干無理に話を進める。
――学校では決まったことと言えば、デートをすること。そのデート役は一色が務め、女の子との接し方については、初香の英才教育が施された。
しかしデートの内容は全く決まっていない。雪彦で言うところのデートプランは未だ、白紙のままであった。
「学生らしい……っていうか、千尋と虹ちゃんに合ったデートか。あんまり騒がしいのは合わなさそうだな」
「そだねぇ。どちらかといえば熟年夫婦がのんびりと休日を過ごす、みたいなデートが似合ってそうだよね」
「言いえて妙だな、それは」
「何を勝手に妄想を膨らませてるんですか。失礼過ぎませんか?」
そうやって反論しながらも、実のところでは図星なのだが。それを口にすることはない。
すると一色の隣にいる和那はノートを覗き込む。
「ねー、なんのおはなししてるの?」
「えっとねー、デートプランを話してるんだよ?」
「……デートってなに?」
「女の子と男の子が楽しくお出かけするの。今はどこに行くかを考えてるんだよねー」
和那の疑問を、初香は懇切丁寧に教えていた。余計な情報を与えるなと一色は思うが
……和那は理解したのか、兄の腕に抱き着く。
「おにいちゃんとデートしたい!!」
「……はぁ、また今度な――海老名先輩、余計なことを教えて」
「えー、聞かれたから教えただけだよ? ねー、和那ちゃん」
「ねー」
水無月以外とも随分仲良くなったものだ。一色はそう思っていると、和那は何か閃いたのか、挙手した。
「はい、かずな、おもいついた!」
「……はい、言ってみろ」
「おっきな公園がいいとおもう!!」
「大きな公園? そんなとこ、行ったことは――」
一色の家の近くには大きな公園はなく、あっても大きいと表現するほどではない。しかし和那は大きく身振りをしながら「大きな」と表現した。
つまり一色も知っている何処かというわけだ。和那とほぼ行動を共にしているから、そんな場所は限られていて……すぐに答えは出た。
「虹北高原のことか?」
「あ、それ! まえに行ったとき、すごくたのしかったよ」
和那は子供らしい満面の笑みでそう言った。
……しかしながら名案であると一色は思う。少なくともここまでで最も優れた意見が最年少のものということに、落胆もしているが。
「俺は虹北高原がベストと思いますけど……先輩たちはどう思いますか?」
「問題あるまい。あそこなら行き慣れているし、のんびりとできるからな」
「じゃあ決まりってことで」
一色はノートに虹北高原と書き、そこに赤丸を付ける。すると、
「……だれがデートするの?」
「…………」
和那はそもそもそれを知らなかったからか、そんな質問をした。
一色は非常に困った。何分、和那は兄離れが出来ていない。ここで自分と水無月が出掛けると知れば、付いて行く言うに違いない。それはもちろん良い。いつもならば一色も快諾した。
しかし、もしも和那が付いてきた時、それこそ「熟年夫婦の孫の世話」になりかねない。
だからこそ今回に関しては最も避けたい事態である。そう瞬時に考え付いて、即座に適切な回答をしようとした――その時、奴は動いた。
「ちひろんとー、こーちゃんだよ?」
「「――」」
一色兄妹は固まる。もちろん同じ理由であるはずがない。
和那は合宿の時、兄と水無月があまりにも仲が良いことに嫉妬し、喧嘩をした前科がある。ただ話していただけでそれなのだ。それをデートすると知れば――面倒な事態になることは明白である。
「おにいちゃん、またこーちゃんと……」
「待て、勘違いするな。これは必要なことであって、決してやましい気持ちがあるわけではなない」
……言い訳の仕方が、まるで浮気が白昼の下に晒され、妻に詰め寄られる旦那のようである。しかも納得がいかないのは、一色の隣で初香がニヤリと笑っているところだろう。
「でも、デートするの?」
「そ、それは……するけど」
「だったらかずなもする!!」
和那は兄の腕に引っ付いてそう断言した。
「……恨みますよ、海老名先輩」
「えー、なんのことかさっぱりだよー――とりあえず、ちひろんは和那ちゃんのご機嫌取りに行ってらっしゃい♪」
初香はわざとらしく口笛を吹いて、嘘を付く。そしてソファーから立ち上がって、一色兄妹をリビングの外へと追いやった。
そこで一色は気付く――初香の一連の言動が、この場から一色を追い出すための行動であったということを。
「まあ作戦会議は私たちにお任せしなさい! あ、和那ちゃん、お兄ちゃんのこと好きにしていいから、出来ればたっぷり時間稼ぎしておいてねー」
……リビングの扉が閉じられる。その前に立ち尽くす一色は、引き笑いを浮かべながら、諦めに似た感情を抱いていた。
「……嫌な予感が鳴り止まないな」
「おにいちゃん!!」
――ともかく、少しでも早く和那を説得しなければ、デートプランが凄まじいいことになる。そのことが理解できた一色は、和那を自室に連れて説き伏せるのであった。
その代償は……決して少なくない。
○●○●
「あの人たち、生きていることを後悔させる」
「いきなり何を物騒なことを言ってるの!?」
――電車に揺られていると、突然一色が物騒なことをボソリと呟いた。
……作戦会議の時のことを思い出して、とても腹立たしくなったのだろう。腸が煮えくり返るほどとは言わないが、少なくとも崖から一度突き落としたいと思うほどには怒っているようだ。
「あぁ、気にしないでくれ。最近の発作だから」
「発作って……もしかして、先輩たち?」
「…………言わぬが花って良く言うだろ」
「うん、もう言わなくていいから落ち着こうね」
意味を違えていることを理解しながらも、一色はそう思うしかなかった。
――苦笑いを浮かべる水無月であるが、実際のところいつも通りとはいかない。
話せば返答は来るが、しかしいつもの水無月ならば所狭しと話しかけてくる。だが今日に至っては、会話の主導は一色であった。
つまり、いつも通りではない。そう分かっているからこそ、一色は自分から話し掛けることに努めていた。
「水無月、ちゃんとご飯は食べてるか?」
「……お父さんみたいなこと聞くね。それか美月ちゃんみたい」
一色の口下手な質問に、水無月はそう思ったことを口にした。
「あんまり食べてないと思う、かな? 食欲がないし、動いていないから……家に引き篭ってるからなぁ」
「……じゃあ安心だな。今日はちゃんと動くから、お腹が空くぞ」
「ってことは、一色くんがお弁当を用意してくれてるってことかな?」
「……察するな」
少し照れ臭そうに顔を背けた。しかし一色は水無月の目元を見て、少し気分が落ちてしまう。
……その目の隈を見た時、一色はやるせない気持ちになる。寝不足の理由に頭痛やストレスがあることなど、考えるまでもないからだ。
――一色たちが考えた計画で、彼女の問題が改善するという保証はない。だからこその不安が募る。
もし失敗したらどうしようと、心根ではそんな気分でたくさんだ。
……そんな時、一色は昔、渡邊に言われた言葉を思い出す。
――何かを変えるためには、時には自分が、相手が傷つく覚悟を持たないといけない。あの時はそのことを否定的に思っていた一色であるが、今はその言葉の真意が良く理解できた。
「……今日は、なんでも、わがままを言ってくれて構わないから」
「そんなの、悪いよ。こうして今も、無理やり外に連れ出してくれたんだから、わがままなんて」
「良いんだよ。俺はわがまま言われることに耐性があるし……それに、水無月のわがままなら、たぶんわがままって思わないから」
……些細なお願い程度で済む、とはっきり言わない。だがそれを理解したのか、水無月は、
「……善処はするね」
そう、やんわりと肯定した。
「……そういえば、どうして虹北高原なの?」
「和那の意見を尊重した、そうなった」
「……和那ちゃんがこの状況を許さないと思うんだけど」
「――代償は、大きいってだけ言っておく」
和那を納得させた条件は、自分を優先させるであった。その数、なんと十回。それも一色と和那の交渉の結果であって、かなり少ない数だ。本当の数は……一色は想像したくもなかった。
「水無月、今度から和那にしばらくそっけなくされるかもしれないけど、気にするなよ」
「……気にはするけど、頑張る」
――ガタンゴトンと電車は揺れる。一定の揺れは人を眠たくさせる妙な魔力を持っているものだ。
その例は水無月にも違わず、なおかつ彼女は最近不眠気味だ。そのこともあってか強烈な睡魔に襲われていた。
「……眠たいのか?」
一色はそれを悟ると、気遣うように尋ねた。すると水無月は一度は首を横に振るが、次第に意識を途切れさせて……気付いた頃には、眠ってしまっていた。
虹北高原までの電車は二時間弱かかる。既に乗り換えは済ませているため、後はこの電車に乗り続けていれば、いずれ到着する。
一色は水無月を寝かせてあげようと決めると、鞄の中から薄地のブランケットを取り出し、彼女に被せた。
――と、その時。水無月は一色の肩に頭を預けた。
「……仕方ないな、本当に」
肩に水無月の温もりを感じながら、一色は車窓から外の眺めを見た。
そうして思い出すのは、立てたデートプランについてだ。後半、和那との交渉のせいで作戦会議から離れた一色なのだが、その間にも着実にプランは組まれていった。
愕然としたものだ――悪ノリが過ぎて、自分の言動さえも表現されていた。それはもう恥ずかしい台詞の数々は少女漫画を彷彿とさせるものばかり。
一色はそれを添削しようとするものの、それを許さないのが美術部の先輩方だ。そうして一色不在の間に決まったプランは決行のものとなり、残りはほとんど一色の意見を取り入れたものばかりだ。
「そうでないと俺が死ぬ。恥ずか死ぬ」
それほどまでに前半のデートプランは凄まじいものだ。まず序盤から手を繋ぎ続けるというところから始まり、電車の中では彼女に肩を貸す。ここまで予定通りなのが逆に怖い。
そしてここからなのだが……デート内容自体は普通なのに、目立つのが言動の命令だ。
確実に初香が噛んでいることは間違いないが……そもそも律儀に守る必要がないことに、一色はいつになれば気付くのだろうか。
「……どうしたものか」
どこで何を話すのか。そこについては予定は立てていない。むしろそのことは美月たちは全て一色に丸投げしたのだ。
つまるところ流れに身を任せろということだ。
一色は水無月を見る。その表情は歪んではいない。むしろ安らかとも言えるのではないか。
――彼女が笑顔を取り戻す。前を向いて歩くための作戦だ。少しでも彼女の心が安らぐこと。それが一色たちの願い。
どうなるかは分からない。分からないが……
「……まずは、自分が楽しまないといけないよな」
そのことがちゃんと分かっているのは、一色の成長に他ならない。
水無月と接することは、一色にとって楽しいことなのは間違いない。だからこそ、一色は今日を目いっぱい楽しむ自信があった。
……一色はコートのポケットから一枚の紙を取り出す。その表面には今日のデートの予定がこと細かに書かれていていた。そしてその裏面には、
「……分かってますよ――肩の力、ちゃんと抜きますから」
……楽しんで来い。その一文が書かれているのを見て、一色はクスッと笑った。
車窓から見える青空は澄んでいる。一片の雲もないものの、一色にはやはりそれが灰色にしか見えない。
でも……それでも一色は、
「――綺麗な青空だな」
それが綺麗だと、そう思っていたのだった。




