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こころのいろ  作者: 如月心
第6章 知らない色を、知るために
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9幕 当たり前で、掛けがえのない想い

 美月は、今まで彼が座っていたところに座って、肩の力を抜いた。


「――お疲れさん」


 ……そんな彼女に話しかけるのは、柱の陰から姿を現した雪彦と初香であった。

 その姿を見て美月は少し驚くものの、先ほどのことで疲れたのか、特に反応することはなかった。


「趣味が悪いぞ。ずっと聞いていたのか?」

「詳しい話は流石に距離が離れすぎてて聞こえなかったけどな――ほら、これ。長話で疲れただろ」


 すると雪彦は美月に飲料缶を渡した。それは美月の好きなチョコレートココアで、美月はそれを受け取ってプルタブを開ける。


「……初香がここにいるってことは、もしかしてお前が一色をここに仕向けたのか?」

「そのとーり! 雪彦から美月ちゃんが飛び出したって連絡が来たから、ちょちょいと上手く誘導したまでさ! はは、偉いでしょー? 褒めて甘やかせてくれたっていいだよ~?」

「……それがなかったらしていたかもな――いや、でもありがとう。お蔭で話したことは話せたし、話すつもりがなかったことも話せたよ」

「……そっか――はぁ、最後は美月ちゃんにいいところを持っていかれたなー」

「お前のお膳立てがなけりゃ、こうやって美月と千尋が話せる時間も出来なかっただろ? ……よくやったよ、初香は」


 雪彦は珍しく初香のことを素直に褒めると、初香はにんまりと笑みを浮かべた。

 ……美月は深く、感謝していた。海老名兄妹には特に、感謝をしてもし足りなかった。

 こんな状況の中でも決して態度を変えることなく、普段通り騒がしく、いつでも水無月が帰ってこられる場所を守ってくれていること。水無月のことだけでなく、一色のことも気にかけてくれていること。

 ――不意に美月は二人を抱き寄せた。


「おおおおお、お前、急に何してんだ!?」

「わぉ、美月ちゃんのハグは珍しい。っていうかお兄ちゃん、動揺しすぎ」

「……うるさい、今はこうさせてくれ」


 どうして彼女がそうするのか、海老名兄妹にだって理解は出来ない。

 自分だけじゃない、他の皆も自分が作った美術部を守ることに必死になってくれる。それは何よりも嬉しいことであり、そして何よりも――自分がしてきたことが、無意味ではなかったと、そう思わせてくれるのだ。

 だから感極まってらしくない行動をしてしまう。この後、これをネタにどれだけ弄られるかもわからないが……今は二人を抱きしめ続けた。


「……しゃーねぇなぁ。ったく」

「後でこれをネタに出来るなら、安いものだよ♪」


 そんな風に軽口を叩く二人は、満更でもない表情を浮かべるのであった。


○●○●


 ……夜になった。これだけ時間が経てば気持ちの整理はついて、落ち着きも取り戻した。

 俺は、リビングでアルバムを開ける。


 一ページ目は……恐らく水無月が一番最初に母親のために描いた絵だろうか。クレヨンで描かれたのは恐らく両親の顔だ。つい微笑んでしまう微笑ましい絵であると同時に、園児が描いたにしては非常によく描けていると思う。それに滝色さんの特徴はとても捉えられていると思う。

 ……それからしばらくは同じような絵があると思いきや、時たま風景のような絵も織り交ぜられたり、水無月の想像で描かれたものなどもあった。


 何よりも特徴的なのは、ページを追う毎に水無月の絵は上手になっている。少しずつであるがその変化が手に取るように伺えた。

 ……ふと、俺はその時、気付いた。


「……もしかして、裏に何か書いてあるのか?」


 大体の絵が同じサイズの画用紙に描かれたもので、それをクリアファイルに二枚ずつ、裏通しをくっつける形でポケットに入れられている。だからアルバムの中の絵を取り出すことが出来るのだ。

 ……薄目で見ると、色の塗られていない部分に何かが透けて見えた。俺はアルバムの絵を一枚、取り出して見て見ると……そこには水無月ではない字で、何かが書かれていた。


「……これは――」


『この日の絵を見せた時、虹はいつも以上に自信満々だった。どうやらいつもよりも上手に描けたようで、しかもそれを先生に褒められたらしい。それを褒めてあげると虹はまた喜んで撫でてとせがんでくる。うちの娘は可愛い過ぎる件について、今度滝色くんと語ってみよう!』


 ……そこにはそう書かれていた。これは、繭七さんの日記のようなものなのだろうか。その日あったであろうことが書かれていた。

 気になって、次の絵を取り出して裏返す。するとそこにも同じように文章があった。


『今日は美月ちゃんと一緒に虹が来た! 美月ちゃんは小学生になってから成長が著しいようで、日に日に美人さんになっていく。しかし中身が見た目に追いついていないというところは相変わらず、美月ちゃんのある意味の魅力かな? それにしても美月ちゃんはおいておいて、虹は特別可愛い』


 ……置いとかれている貴音先輩に同情を覚えた。

 ――一度見てしまえばどうしようもなく、俺は絵をじっくりと見た後でその絵の裏の日記を読んだ。


『今日は虹の小学校の入学式。行けなかったことが本当にどうしようもないくらい申し訳なくて、今日はちょっとブルーな気分。でも入学式のことを楽し気に話してくれる虹を見てそんな気分は吹き飛んだ!! しかも今日は私の側で絵を描いてくれて、もう母親冥利に尽きるとはこのことだね!』


『なんと今日、虹が絵のコンクールで受賞した! 努力賞だけど、他は虹よりも上級生ばっかり。やはり私の娘は才能の塊だよ!』


『今日はしょんぼりだった虹。どうやらお友達と喧嘩してしまったそう。絵もそのせいか、青色が目立った。そんな顔を見たくないから、とっておきの仲直り方法を伝授!! とりあえず抱き着いて謝れば大抵は許してくれるよね。証拠は滝色くん』


 ……毎日毎日、よくここまで色々と違うことを描き続けられると思った。

 それだけ彼女は、本当に毎日が楽しかったのだろう。


 ――そしてアルバムの全てが美しかった。どんな絵にも色はあり、俺もその絵を見て感動してしまった。絵を見て感動して、裏の文章を読んで笑ってしまって……親子の愛がこれほどまでに詰まったものなどないくらいに、そのアルバムは素晴らしいものだ。

 ……だけど、アルバムの終わりを知っているからこそ、少しずつページを捲る速度が遅くなる。


『ついに虹が金賞を取った! その絵は今度見せてもらうけど、今日の絵もすごく上手。虹は色を使い方がとっても上手で、本当に将来は画家さんになるんじゃないかって思わせてくれる。そうなったら、忙しくて私に絵を描いてくれなくなるかな? ……嬉しいような、寂しいような。そんな複雑な気分になった一日でした』


『最近の虹は少しずつ大人になってきた。背も高くなってきてそろそろ抜かれることを覚悟した方が良いのかもしれないね。最近では滝色くんと料理を一緒にしているようで、将来は半端ない女子力を手に入れることは間違いないね――あぁ、おうちに帰って二人のごはん食べたい!』


 ……アルバムが半分を切る。アルバムは複数冊あるらしいが、多分これはそれをある程度寄せ集めているのだろう。だから時間経過が近かったり、遠かったりしていた。


『待ちに待った退院! 今回は長かった分、自宅が愛おしい!! 退院祝いで今日はなんと! 虹がご飯を作ってくれた! それを一口食べて驚き――虹は料理の才能があったか。天は二物を与えずというけれど、虹の場合は可愛い、絵が上手い、なおかつ将来性抜群と隙がない』


 ……一枚一枚をしっかりと見て、そうしてアルバムは終わりが見えてくる。残り数枚となるアルバム。絵はそれまでよりも遥かにレベルが上がった。

 それまで一切の弱音がなかった繭七さんだったけど、ある一枚には彼女の悲壮感ある心境がつづられていた。


『日に日に、自分の命が削られているような気分になる。滝色くんにどれだけ幸せだって言っても、やっぱり死ぬのは怖い。私は何か、間違ったことをしたのかな? どうしてこんなに生きたいと思っているのに、生きる時間が短いんだろう。そんな風に思っている時、虹は抱き締めてくれた。……本当に良い子に育ってくれた。だから最後まで、残された時間を悔いが残らないように過ごすって決めた』


 ……そして、最後のページを捲る。最後のページには満面の笑みの家族三人が描かれていた。

 ――それが最後、水無月が母のために描いた一枚。それを見て、胸が熱くなった。


「最後の最後で、家族三人の絵を貰って……嬉しかったんだろうな」


 最後のページに日記が描かれているはずもない。俺は繭七さんならばこう思うと想像した。

 ……だけどその予想は外れた。絵の裏には、文章があった。だがそれはこれまでの繭七さんの文字ではない。

 これは恐らく、滝色さんのものだ。


『……繭七は最後まで幸せだったと、僕は思う。だって腕の中で僕たちの逝った繭七は満ち足りた表情をしていたのだから。そんな表情をされたら、苦言の一つも言えないじゃないか。……本当に繭七は勝手だと思うよ――必ず君との約束は守る。だから君も、僕たち二人をそこで見守ってくれたら、嬉しいな』


 ……全てを見終わり、俺はソファーに背中を預け、天井を見上げた。

 ――どうすれば良いんだろう。見て、読んで、結論は何一つ出ない。どうすれば良いかなんてわからない。

 貴音先輩の話を聞いても、アルバムを見ても、答えは同じであった。

 ……確かに俺は、水無月の気持ちが少なからず理解できる。目に問題を抱えているから、彼女の抱える気持ちは痛いほど理解できた。


 理解できて、それを水無月に話せば彼女は笑顔を浮かべてくれるだろうか。共感をするだけならば誰にだってできる。

 ……水無月はそれを求めているのか。あいつが本当に求めているものはなんだ。

 あいつが描いたあの線だけだった絵に、答えがあると思う。だけど俺が出来るのはあれが限界だ。何を描こうとしたというのも、描いていた本人しか分からないのだから。


「……俺は、どうしたんだ。水無月には笑顔になってほしい。それはどうしてなんだ」


 分からない。


「どうして水無月は、あんな状態になった後でも、俺に縋っていたんだ」


 分からない。ただ、水無月は俺に何かを求めていたはずなんだ。そうじゃなかったら、手が震えるようになった後でも部活に来ていたことに説明がつかない。


 水無月は俺に甘えていると言っていた。俺に、あいつにそう思わせる何があるって言うんだ。

 傷つけてばかりの俺に……昔から、今もそれは変わっていない。


 ――水無月は今も一人で頑張っているのだろうか。それとも頑張ることに疲れてしまったのだろうか。


「俺は……水無月を助けたい」


 その結論に至っても、理由ははっきりしないままだ。

 ――そんな時、リビングの扉が開く。そこには風呂上りの和那がいて、大きな目で俺を見つめていた。


「おにいちゃん、だいじょうぶ?」

「……ああ。悪い、ボーっとしてた――髪の毛、乾かしすから膝の上に座れよ」

「あ、うん!」


 和那はトコトコと歩いてきて、いつもの定位置である膝の上に座る。俺はドライヤーの電源を入れて、和那の少し長くなった髪を梳きながら乾かして行った。

 ……ドライヤーから温かい風が出て、一度和那は身震いする。


「湯冷めしないように温かくしないとな。何か飲むか?」

「えっと……あ! はちみつのミルクティー!!」


 髪を乾かしながら和那に尋ねると、和那は思いついたようにそう言った。

 ……合宿の時、水無月が振る舞ってくれたあの紅茶を、和那は随分と気に入っている。きっと水無月と色々あったから、そのことが色々な意味で思い出になっていることも増長しているのかもしれない。


「……和那は、もし水無月が悲しそうにしていたら、どうする?」

「かなしそう……ないちゃうの?」


 すると和那は俺の方を見て、悲しそうな目をした。


「そうだな。泣いちゃうくらい辛いかもしれないな」

「だったら……たすけてあげたい!!」


 和那は語尾を力強くしてそう言った。


「……それはどうして?」

「どうしてって……こーちゃんだから!」

「……そっか」


 和那くらい素直だったら俺もこんなに悩まないのかもしれないな。

 ……俺は和那の髪の毛をできる限り優しく梳き終わると、ポンポンと頭を撫でて立ち上がる。


「お前は本当に優しい妹で、お兄ちゃんは嬉しいぞ?」

「え、えへへ……おにいちゃん、きょうはとってえがおでやさしいなぁ~」


 ……笑顔、か。考え事は増えたし、今もどうしていいか分かっていないのに、和那にはそう見えるのか。

 ――笑顔という言葉で思い出す。そういえば体育祭の前日、家族団欒している時に和那は俺に笑顔が増えたと言ったことに。

 せっかくだ。少しそれを聞いてみよう。そう思い、俺は和那にもう一度問いかけた。


「……和那は、俺が変わったと思うか?」

「うん。おにいちゃんはやさしいけど、もっとやさしくなった! えがおがすごくふえたよ!」

「それはさ、いつからなんだ? 俺は普通にしているつもりだけど、皆がそう言うから気になって」


 ……たぶん、美術部に入ってからだろう。知っている癖にそう尋ねるのは、答え合わせがしたいからだ。

 誰よりも俺と過ごしてきた和那だからこそ答え合わせにはふさわしい。

 すると和那は、うーんと唸った。


「いつから……えっとね、たしか――」


 和那は思い返すようにそう言いながら、そして思いついたのか。満面の笑みを浮かべて……


「――おまつりからかえってきて、おにいちゃん、すっごくうれしそうだったよ!!」

「……………………え?」


 ――その意味が、最初は理解できなかった。


「おまつりって、夏にある祭りのことか?」

「ううん、ちがうよ? えっと……がくえんさい? っていうおまつり!! あれからおにいちゃん、すっごく明るくなって、かずな、うれしかったのおぼえてる!」

「文化祭?」


 文化祭と言えば、四月の最後にある学内行事。

 あの時、あったことは……


「――あぁ、なんだよ。そんなことだったのか」


 ……和那の話を聞いて、ようやく理解できた。

 俺は和那の身長に合わせるようにしゃがみ、そして和那をそっと抱きしめた。


「……ありがとう、和那」

「えっと……どうしたの?」

「いや、なんかさ――当たり前のことをやっと理解できたんだ。和那のおかげだよ」


 ……本当に、難しいことなんて何一つなかったのだ。むしろ今まで気付かなかった自分がどうしようもなく情けない。

 ――文化祭の日、何があったのかなんて考えるまでもなかった。

 全てはあの日、ある一枚の絵を見て始まったじゃないか。


「あははははは、本当に、馬鹿だよ、俺。こんなの、恥ずかしくてあの人たちには言えないよ」

「お、おにいちゃん?」


 和那が怪訝な視線を向ける。それはそうだ、突然笑われたら何があったと思いたくもなる。

 ……俺は和那が理解できるように、言葉を選んで言った。


「助けられたから、今度はこっちが助ける。それが分かったんだよ」


 ――あの日、俺は救われた。

 水無月の絵は俺に色を教えてくれた。俺には色が実際に見えたわけではない。そんなこと、何を反転したところで起きるはずのないことなのだから。

 だけど水無月の絵を見た時、どんな著名が描いた世界的に有名な作品よりもこう思ったのだ――美しいと。


 どんな色のついた絵を見てもそう思うことが出来なかった俺は、あいつの絵を見て、感動で涙を流した。

 その時、俺は彼女に救われたのだ。

 ……世界でたった一人であると思っていた。誰にも共感されず、この世界の美しさを、色を共感できないと思っていた。


 だけど彼女の絵は、そんな俺にそれを与えてくれたのだ。

 ……水無月の絵を見た時、俺は彼女の事を知りたくなった。水無月のことをしれば、もっと色という概念を、美しいという概念を理解できると思ったから。


 するとどうだ。毎日が変わった。俺の毎日は美術部が起点になって、今までとは別物になった。

 毎日が騒がしく、でも楽しいって思える日々は、俺を少しずつ変えてくれた。

 そんな日常の中に、今、彼女はいない。

 水無月は一人、足を抱えて蹲っている。……救いを求めているんだ。


 ……救われたのだから、俺は彼女を救いたい。それは義務感などではなく、俺の本心からそう思う。それは恩返しの意味合いもあると同時に、彼女を大切に思っている仲間として、彼女を笑顔にしたい。

 そして彼女の描く世界がもう一度見たい。水無月が本心から楽しんで描いて、自信満々に見せてくれる、そんな絵をまた見たいのだ。

 何故なら、俺は――水無月の描く絵が、この世界で一番美しいと思っているからだ。


●○●○


 暗い部屋で、何度も床にモノを落とす音がする。

 彼女の向かう先の紙は未だに白紙で、何一つ描かれてなどいなかった。

 ――どれだけの時間、絵を描こうとペンを握ったのか、水無月は覚えていなかった。しかしたった一度たりとも震える手は収まらず、それでも諦めきれなかった。


「……諦めきれるわけ、ないよっ」


 暗がりの部屋で、水無月の悲痛な叫びが轟く。水無月は落ちたペンを拾おうとするも、それすらままならない。拾った矢先に落としてしまうのだ。

 ……時折、携帯電話が鳴る。それは学校のクラスメイトであったり、美月や初香であったりと様々だ。しかし水無月はただの一度もそれに出ることはなかった。


 誰かと話してしまえば、また泣いてしまうと思うから、彼女は誰からの電話を取ろうともしない。

 ……しかし唯一、一色だけは水無月に電話しなかった。


「……一色くんは、多分私を気遣って電話をしないのかな。あはは……本当に優しいよ、一色くんは」


 最後に会話を交わした時、水無月はもう少し一人で頑張ると言った。それを一色が信じてくれているのだと思ったのだろう。

 そう思うと、彼女はまだ頑張れるような気がした。

 ――そんな時、電話が鳴り響く。


「……誰だろう」


 一応は気になるのか、水無月はベッドの上に放置されている携帯電話の開き、画面に表示されている名前を見ると……そこには「公衆電話」という文字が表示されていた。

 ……それは初めてで、水無月は通話ボタンを押してしまう。


「も、もしもし」

『――もしもし。水無月か?』


 ……スピーカーから聞こえてくるのは、若い男性の声だった。同世代の人よりは落ち着いていて、あまり圧力のない声が特徴的なその声に、水無月は覚えがあった。


「……一色くん?」

『ああ、よくわかったな。すまない、普通にかけても絶対に出てくれないと思ったから、公衆電話からかけた』


 そこまで見通されて、水無月はつい苦笑してしまう。

 ――人とまともに話すのは久しぶりだった。父親とさえまともに会話をしていなかったから、少しそれを嬉しく感じた。


『元気、なわけないよな。でも一応聞いておきたくて』

「そっか……残念だけど、全然元に戻らないよ」


 水無月は右手を見つめる。そこには今もなお少し震える手があった。


「でも、最近はあんまり泣かないようになったんだよ? それに、まだ頑張れる気がするんだ――その結果、どうにもならない時は、もう諦める。そう決めたんだよ」

『……そうか。だったらお前はきっと、諦める必要はないよ』


 ……水無月は一色がそんなことを言って、少し驚いた。


「何を、言ってるの? どうしてそんな」

『ごめん、もうそろそろ時間だ。もう百円持って来たら良かった――最後に一つだけ。もしも水無月が誰かに助けられて、その人が助けを求めることがあったらどうする?』


 続けざまに一色はそんな質問をした。水無月は少しばかり狼狽するも……


「そ、それは――助けたいと、思う」

『――俺も同じ。それじゃあ時間だ。またな』


 ……通話が終了する。

 突然の出来事で水無月は理解が追いつかないものの、ただ、通話の切れた画面を見つめた。


「一色くんは、どうしてそんなことを私に……」


 そんな当然なことを言った彼の心境はまるで理解できない。

 だがどうしてだろうか――先ほどの彼の声音が、少し前のものとは違うような気がした。

 まるで吹っ切れたような、そんな声音に水無月はふと呟いた。


「…………一色、くん」


 彼の名を呼ぶその声は、どこか、彼に救いを求めている……そんな風に聞こえるのであった。




 ……らしくないことをしたと、彼自身も自覚はある。

 一色は夜空を見上げながらそう思っていた。近くには公衆電話があり、彼は先ほどまでそれを使って水無月に電話をかけていた。

 しかし百円玉しか持ってこなかったのは失敗であると痛感した。何分、公衆電話を使うことは久しぶりで、制限時間のことをすっかり忘れていたのだ。


「……本当に、自分らしくないな」


 一色は携帯電話の画面を見つめながら、そう呟く。

 ――そこにはメールの画面が表示されていた。その宛先は複数ある。一斉送信したのか、その内容はどれも同一であった。

 ……美月、雪彦、初香にそれぞれ送られたメール。そこには一行だけ文が書かれていた。


『――明日の放課後、話があるので部室に来てください』


 そう、書かれていた。

 一色は携帯電話を折りたたみ、ポケットに閉まって歩いて自宅まで帰る。早く帰らないと補導されかねないからだ。

 歩く道脇からは虫の囀りが聞こえる。寒くなってきてもまだまだ元気なようだ。

 ……強い風が、一色を襲う。その風は冷たく、彼の身体を冷たくさせる上に、つい俯きそうになるほど強い勢いがあった。


 それでも一色は――決して俯かず、前を向き続けていた。


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