5幕 水無月虹は仲直りがしたい
水無月虹は崩れ去っていた。
その日、朝から水無月は非常に上機嫌であった。なんならあの美月よりもこのイベントを楽しみしていたのだ。その理由はこれまで参加していた合宿とは違い、渡邊が来て咲良が来て、そして何より一色兄妹が来ること。それが彼女の上機嫌になっていた理由だった。
個人的に一色兄妹と仲良くなりたい水無月は、それはもう頑張って二人と話した。水無月からしても二人は接していて苦になるはずもなく、二人に囲まれる時間はそれはもう楽しいものであった。
――しかし、突然の和那の嫌い宣言。これが彼女の胸に強く突き刺さったのである。
それはもう凄まじい威力だった。それまで仲良くしていたのに、どうしてと思った。
しかし、水無月は優しい。きっと自分に何か問題があって、和那がそれを嫌に思ったのだと考えるほどに水無月は優しかった。
だから一度は切り替えて、和那に話しかけたのだ。
……それは一度、気分転換に近くの山に向かった時の出来事。
「和那ちゃんは何を描いているのかなー?」
ごく自然に話しかけた。和那の後ろからひょこっと顔を出して、スケッチブックを覗いた水無月。その光景を内心ハラハラ見ていたのは一色千尋である。
そんな水無月に対し、和那が放った一言。それは……
「――かってに、みないで……っ」
水無月は、ノックアウトされたのだった。
しかしこんなことでへこたれるわけにはいかない。すぐに立ち上がった水無月。その後の夕食時、水無月は何とか和那の隣に座ろうとしたのだが、そんな時は
「……はつかちゃんのおとなり、すわる」
そう避けられた。アイスピックで胸を刺された感覚が彼女を支配した。それでも水無月は諦めなかった。和那は自分を避けたのではなく、初香と仲良くしようとしただけなのではないか。そう心に刻み、更なる作戦に打って出ようとした。
お風呂は交代制で、水無月はそれを狙って和那と一緒にお風呂に入ろうとしたのだ。並大抵の勇気がなければこんなには頑張れない。
「和那ちゃん、一緒におふ――」
「みつきちゃん、おふろはいろ?」
後頭部を回し蹴りされたような鈍痛が心に走る。一瞬の激痛ではなく、何気にずっと残り続ける鈍痛であった。
……しかしまだ彼女の本当の限界には達していない。いつも自分とばかり絡んでいても刺激が足りないのかもしれない。そうだ、美月はとても刺激的な人物だ。だから美月を選んだのだ――前向きもここまで来れば才能だ。
お風呂の作戦も失敗に終わり、最後はお風呂上りに皆でゲームをすることになった。
ここが最後のチャンスと思った水無月は、綿密に作戦を練った。事前に美月と初香に対戦させ、渡邊と咲良、一色の三つ巴の戦いをさせた。残る選択肢は実質自分だけである状況を作り出したのだ。
これは完璧だ。誰もがそう思った。
「かず」
「ゆ、ゆきひこくん、ゲームしよ?」
――水無月虹は、完全に灰になったのだった。まさか雪彦にさえ劣ると思っていなかったのだろう。それはもう灰のように散りじりになり、そこにいるはずの水無月が見えなくなるほどに落ち込んだ様子がリビングのソファーの上にあった。ソファーに寝転がり、焦点の定まらない目で天井の木目を数えていた。
あまりにも不憫すぎて誰も話しかけられないのである。あの美月ですらも話しかけられないほどに水無月は落ち込んでいた。
「そらはあわくて~、こころはもろくて~、がらすのよう~」
そんな意味の分からない歌まで歌い始める始末。健気過ぎて美月に至っては涙を流していた。
しかし誰も和那を強く叱れないのも事実だ。傍からみれば、水無月と一色以外の人たちと仲良くなろうとも取れるからである。
水無月を慰めることも出来ず、かといって和那を叱ることも出来ないこの状況――そんな廃れた彼女にに話しかけるのは一色であった。
「水無月、生きているか?」
「いきてな~いよ~」
一色の問いかけを器用に歌で返す水無月。廃れているとはいえ声は届いているのか。しかし顔を一色には向けていなかった。
現在、リビングにはみんな気を遣ってか、一色と水無月の二人きりだ。そもそもの問題が一色と水無月、そして和那の間の問題である。そして何よりも困ることは一つ――一色はなんとなくであるが、和那が拗れている理由が思いついているからだ。
だが一色は非常にシャイである。水無月を前にして平静と「俺と水無月が仲良くしすぎて、和那が水無月に嫉妬したんだ」などとは口が裂けても言えなかった。
「……そうか、生きてないか」
「そ~だよ~、こ~さんは~わからな~い~」
……若干音程が外れていることを笑ったら、きっと彼女は立ち直れないだろう。一色は腹筋に力を込め、舌を強く噛んで笑うことを我慢していた。
「いい加減、現実逃避は止めよう、水無月。たぶんこれ以上したらお前を変人と扱わないといけなくなる」
「――現実、見たくないよぉ」
歌が止まると、水無月は起き上がって一色にそう泣きついた。水無月の割と本気な泣き顔を見てに罪悪感が立ち込める。
いわば一色兄妹の問題に巻き込まれた水無月である。
……これまで噛み合っていた歯車の中に、新しい歯車が入れば最初は噛み合わないのは当然だ。それでも微調整を繰り返して噛み合わせれば、より大きな運動力を生み出すことができる。
一色は今の状況をそんな風に認識していた。
「じゃあ水無月はこのままで良いのか?」
「――嫌だよ! 私、和那ちゃんともっと仲良しになりたいもん!」
一色の言葉に、水無月はバッと起き上がって一色に詰め寄った。その目は本気そのものであり、今にも一色に掴みかかりそうな勢い。
「でも……分からないの。私、和那ちゃんに何かしちゃったのかな。それが分かれば頑張れるのに……」
「…………」
そのことに関しては口を閉ざす一色。その事実だけは彼の口からは決して言えないのである。
……しかし、彼としても和那と水無月が不仲になることは心苦しい。和那が珍しく人見知りせずに仲良くなったのは、水無月くらいなもので、かねてより一色は自分よりも人見知りが激しい彼女の心配をしてのだ。
……だから一色は提案する。
「俺が手伝う。水無月、絶対に和那と仲直りさせてみせる」
「い、一色くん……」
言い切った一色に対してうるうると涙を溜める水無月。ここまで彼が頼りに見たことがないのであろう。
一色には考えがあった。彼は非常に観察力に優れている。何より大きいのが、和那の抱いている感情をしっかりと理解している点だ。
ここまで一色がこの問題にあまり触れてこなかったのは、二人の観察していたからである。一人奮闘している水無月とそれを回避する和那。その二人を観察して、一つ仮設を立てた。
一色は周りを見渡すと、今ここにいるのは一色と水無月の二人だけだ。一色はその仮説に基づいて作戦を立案しようと思うが、もし和那に聞かれたら余計にややこしくなる事は目に見えている。
「水無月、少し外に出ないか?」
「うん」
先ほどに比べて幾分か落ち着きを取り戻した水無月は、一色の提案に頷いた。ロッジから出て空を見上げると、そこにあるのは満天の星々だ。
都会では街からの光によって全体的に一定の明るさを常に保ち続けているため、相対的に星が見えない。一色たちの住む地域は都会ではないため、ある程度は星が見えるのだが――ここはまた別格であった。
色の見えない一色でも、昔から星空だけは綺麗であると思っていた。だからこそ、彼の目には鈍く光る星々が感動的なまでに美しく、つい見惚れる。
「……綺麗だ」
……ふとそう言葉を漏らすと、それを聞いていた水無月が少しばかり驚いていた。
「一色くんが綺麗とか感想を言ってるの、初めて聞いたよ」
「……っ。忘れてくれ」
気を抜いていたのか、指摘されて初めて気付く。しかし水無月は何故か嬉しそうにはにかんでいて、今にも蕩け笑いそうな勢いだった。先ほど泣いていたのもあってか頬も微かに赤みを帯びている。
「寂しいこともあったけど、一色くんの新しい一面が見れたね――うん、すっごく綺麗だよ。ここの夜空はいつ見ても見惚れるくらいに美しいんだよ」
「…………ああ。そうだな。……好きだよ、夜空と星が。あんまり人前でそういうことを言いたくないんだけどさ」
モノクロの世界でも美しく見えるものだから、夜空は美しい。白光は一色でも認識できるものだから、他人と共感しあえる――それがどれだけ嬉しいことか。見えている世界が違えど、美しいものは変わらない。水無月の共感の言葉に、一色は柄にもなく嬉しく感じた。
だから一色は一人、感傷に浸る。水無月を元気づけないといけないのに、何故か一色の心が温かくなっているのは複雑な気持ちを彼は抱くのだ。
そのとき、一色は気付いた。
「……和那も同じだ」
その時、一色はぽつりとそう呟いた。
「和那ちゃんも一緒? それってどういう意味?」
「……俺と一緒ってことだよ。変なところで頑固で、頑なに認めたくないんだ。自分が悪いってあいつもきっと理解している――だけど言ってしまった手前、中々素直になれないんだよ」
素直になれない、ここは一番自分と似ていると自らを嘲笑する。自分とは全くの別物である頭で理解している。だから少しだけ表情を曇らせているのだ。
「……でも明らかに私を避けてたよ」
水無月らしくもなく不安事を漏らす。それでも一色は首を横に振った。
「それこそ可笑しい話だよ。あいつがもし本当に嫌だったら近づきすらしない。はっきりと嫌いってことも言わず、勝手に距離を取る。……でもな、和那ははっきりと嫌いって言ったんだ。そんなの好きの裏返しなんだよ」
自分によく似ているから分かる。子供は親の背中を見て育つというが、和那は兄の背中を見て育ってきたのだ。だから一色と同じく内向的で、いつも彼の後ろに隠れていた。
「あいつは多分、お前のことを今でも慕っていると思う――知ってるか? お前が落ち込んでいる時、あいつはお前のことをチラチラと伺っていたってこと」
「え、本当に?」
……一色は頷く。彼の言う通り、和那は初香の隣に座っている時も、美月とのお風呂上りの時も、雪彦とゲームをしていた時も、その度々で水無月を見ていたのだ。
「だからあいつも本音はきっと、お前と仲直りをしたいって思ってる。だけどあいつに正攻法で言ったら逃げられることは目に見えているよ。だからこそ、、作戦を念入りに組み込む必要がある」
「さ、流石は一色くんの妹……」
「……やっぱり手伝うの止める」
こそっと呟いた水無月の失言に、一色は手の平を返したようにロッジに帰ろうとする――それを必死で止めていた。
「待ってー! 今のは冗談だから!! だから私を捨てないでぇ~!! 今一色くんに見放されたらもう無理だよぉ~~~!!」
「ちょ、お前な……ッ! こういうところが…………。……とにかく離れろ」
一色の腰回りに引っ付いて離れない水無月に、つい声が荒がるものの、すぐに平静さを取り戻して彼女を引き剥がす。幸い水無月も必死な様子だったため、一色が漏らした一言を、気にも留めていなかった。
「いいか、水無月。ここから先は失敗が許されないぞ。和那の奴、こういう時は目ざといから、何かと気を付けないといけないんだ」
「……だから自分の部屋の窓からは絶対に見えない場所で話していたんだね」
非常に周到は一色なのである。
「私、頑張るよ!! 打倒、和那ちゃんの心の壁!! 絶対に破壊してやるんだよ!!」
「その意気だけど、少しうるさいぞ」
「あ、ごめん……」
――なんとも締まらない二人なのであった。
……余談であるが、その頃、ロッジの中では……
「ところで何で俺と初香は同じ部屋なんだ? 和那ちゃんと千尋なら分かるんだけど、普通は俺と渡邊先生が同室になるのが普通なんじゃ……」
「あー、それは私が気の遣ったんだぜ、お兄ちゃん!」
「……は?」
「愛する恋人同士、一つしかないベッドで一夜を明かしたいものでしょ?」
「――――――――は、恋人? え、マジ? さーちゃんと渡邊先生が……?」
ここまで全く知らされず、咲良に憧れのようなものを抱いていた雪彦が崩れ去った瞬間であった。
この日、雪彦は涙で枕を濡らしたことは言うまでもない。
○●○●
――一色千尋と水無月虹の朝は早い。皆が起きる二時間前の早朝六時に起床した二人は、キッチンの前で食材を凝視していた。
……一色の第一の作戦、それは胃袋を掴む作戦である。
先日の水無月の行動を客観的に見ていて一色が気になったのは、あまりに分かりやすい気の遣い方であった。またはあざといと言ってもいいのだが、とにかく彼女は分かりやすかった。和那に対して直線的に絡みに行こうとした結果、全てが失敗に終わったのである。そしてその度にひどく落ち込めば、和那も引っ込みがつかないのも無理はない。
とのことでまずは皆のため――という建前で、和那の朝食だけ異様に力を込めることにしたのだ。
「一色先生。私に和那ちゃんの極意を教えてください!」
「……そうだな。まずあいつはあまり好き嫌いがない。だけど少し猫舌でな。熱いものを朝から出せば多分それで終わりだ」
「き、聞かなきゃ終わってたね……」
水無月は熱々のスープを飲むのが好きなものだから、本当に危ないところであった。
「あと基本的に俺はいつも和食だから、こういう時は洋風で攻めてみるのが良いんじゃないか? だし巻き卵じゃなくてスクランブルエッグ、オムレツ。食パンも昨日のうちに買っているからサンドイッチとか」
「なるほど。……ちなみに和那ちゃんは甘いものは好き?」
「ああ、好物だよ。お菓子作ってやるといつも全部食べるしな」
「……普段から料理はともかく、お菓子まで作ってくれるお兄ちゃんがいたら、あれだけべったりになるよね。私も和那ちゃんの立場だったらブラコンになる自信があるよ」
「――無駄口を叩くな、頭を動かすんだ」
話が脱線したため、一色はコツンと彼女の後頭部に手刀をうった。
「ご、ごめんなさい先生! ……甘いものが好きで、パンと卵を使った朝食か……――あ。フレンチトーストなんてどうかな?」
これまで出てきた食材を羅列し、水無月は思いつきでそう言った。
……一色はフレンチトーストを作ったことがない。よって和那は食べたことがないため、非常に新鮮に感じるはずと予想している。
しかもこのロッジは無駄に調味料なども揃っており、何故かメイプルシロップまでもが常備されているのだ。
「フレンチトーストは良いアイディアだな。たぶん和那も喜ぶと思うよ。……ちなみに俺は作ったことがないから、作り方が分からないぞ?」
「大丈夫だよ、すごく簡単だから! これを機に教えてあげるから、家でも作ってあげなよ!!」
水無月が食い気味にそう提案すると、一色も乗り気で逆に教わることになる。
一色は水無月に言われた食材を台の上に乗せた。卵に牛乳、食パンと砂糖にメイプルシロップ、バター。材料はそれだけである。
「材料はこれだけか?」
「うん! 作るって言っても、卵と牛乳と砂糖を混ぜ合わせた液体に等分したパンを浸すだけなんだけどね。水無月家の特製レシピは単純なんだけど、配合にこだわっているんだよ?」
「……奥が深いな――和那は砂糖を少な目で頼めるか? あいつ、たぶんシロップを馬鹿なくらいかけるだろうから」
「……流石はお兄ちゃんだね、一色くん」
朝食の下準備も終わり、一色は時間があるので挽肉や野菜のみじん切りを火にかけ、それを卵で包んでオムレツを人数分作る。ここでさりげなく和那の分だけミックスチーズを入れるのが重要なポイントだ。
そんな風に水無月と料理談義で多少の盛り上がりを感じている時だった。立ち込める朝食の香りに誘われてか、続々と寝室からリビングに降りてきた。一色と水無月の予定よりも少し早い気象である。
最初に降りて来たのは教師組の渡邊と咲良の二人。
「おはよう、一色くん、水無月さん」
「おふぁよう……」
「おはようございます」
「さーちゃん先生は意外と朝、弱いんですね! なんか可愛いです!」
「先生を可愛いっていうなー……はふぅ」
無理な話である。普段は比較的しっかりしている人物であるため、そのギャップで余計に可愛らしく見えるのだ。幸いそのことを積極的にツッコンでくる悪餓鬼はここにはいないが。
「すまないね。朝食まで用意してもらって――それにしても美味しそうだね。オムレツにサラダに……フレンチトーストかな?」
「はい。フレンチトーストは水無月特製です」
「い、一色くん。そういう言い方は何かプレッシャー感じちゃうよ」
「……いっしきくん、コーヒー貰ってもいい?」
すると寝ぼけている咲良が不躾にもそうお願いした。もちろん寝ぼけているということを一色も理解しているため、特に嫌に思わずに目覚めにブラックコーヒーを淹れた。
「ごめんね、一色くん。御子は本当に朝が弱くて……たぶん後で過剰に謝ってくると思うよ」
「良いですよ。それに合宿ではお世話になっているんですから。……渡邊先生もいかがですか?」
「……じゃあ、もらおうかな」
一色はティーカップにコーヒーを注ぎ、テーブルにつく二人の前に置いた。
美月の祖父母の趣味なのか、このロッジには本格的なコーヒーメーカーがあったため、一色はそれを試しに使ってみたのだ。コーヒー豆まで置いていたため実際に淹れてみると、これが奥深い良い苦みの匂いを漂わせた。ほんの少しだけ鼻腔をくすぐる酸味のするコーヒーを渡邊は一口、口をつける。
コーヒーを啜る音は朝の光景を連想させるもので、一色は少しばかり緊張する。まるで試作品発表会で自分の品を出して品評されているような感覚だ。
「……おいしい。本当に一色くんは多彩だね」
「ふぅ……それは良かったです」
一色は胸をほっと撫で下ろし、キッチンの方に戻る。すると水無月はマグカップを二つ取り出し、その中に何かを注いでいた。
「何を淹れてるんだ?」
「紅茶だよ。私、コーヒーが苦手だから――一色くんの分も淹れてたけど、飲む?」
「……ああ、もらうよ」
水無月は最後の仕上げにほんの少しだけ牛乳を注いだミルクティーを一色に手渡した。牛乳の冷たさで紅茶の温度は丁度いい具合になっており、一色は一口飲んでみる。
……口の中に広がるのは程よい甘み。しかしそのくどくない甘みは砂糖で表現できるものではない。口の中を包むまろやかな甘みについて一色は考察した。
「――もしかしてハチミツを入れたのか?」
「……正解だよ。本当に良く気づくよね。……砂糖の代わりにちょっとだけハチミツを淹れたら、普通のミルクティーとは違う味わいが出るんだよ」
「……おいしいな、これ」
普段はコーヒー派の一色が素直に美味しいと感じた。味は素朴といえば素朴なのであるが、どこか心安まるような味であると一色は思う。
「――でも美術部の合宿で絵より料理してるね、私たち」
「……全くだな」
二人はそう笑いながら言うが、一色はこの時間がとても楽しかったのだ。
……料理はもちろん、視覚的情報が非常に重要だ。ものは見た目から入るというが、料理もまた見た目の良さから入る。料理の彩り、バランス。それは一色には欠けている部分だ。
だが味は確かに感じることができる。一色にとって他人と共感できることは少ないが、その数少ないものの一つに料理があるのだ。自分が頑張って作ったものが他人に美味しいと言われる。自分が食べたものが他の人も美味しいと言えば、それは共感だ。
……だから一色は料理を進んでするのだ。自分が美味しいと思ったものを作り、それを褒めてもらえると嬉しいから。
今までは家族だけであったが、こうして家族以外の人に自分の振る舞う料理を食べてもらうことが嬉しいとまで感じていた。
「んん~~~、なんか美味しい匂いがする~~~!」
すると、ドタバタとリビングに降りてくる初香。朝に強いのか、既に完全に目覚めている。それを証拠に朝からテンションがいつもと変わらないのであった。
「海老名先輩、おはようございます」
「はい、おはよ~、ちひろんにこーちゃん! それと先生方もおはよーございまーす!」
「おはよう、海老名さん。……僕がこう言うのもあれだけど、昨日の今日で全然変わらないね、海老名さんは」
先日、初めて渡邊の鬼の部分を垣間見たはずの初香であるが、その態度は変わらず親しげである。普通は怒られた相手には少しの間、気まずい態度を取ってしまうものであるのだが、彼女はそんなことはなかった。
初香はあっけらんかんとした態度で言う。
「だって悪いことしてたら、怒られたって当たり前じゃないですかー。それでヘソ曲げてたら恥ずかしいからね~」
「……海老名先輩。出会って初めて、少しだけ尊敬できました」
「――なにをー!!」
一色の発言に反応する初香だが、しかし一色がそう思っているのは本当である。中々初香のような考え方を出来ないのだ。現に雪彦と美月は反省をほどほどに今でも問題を起こしている挙句、渡邊のことを鬼と表現しているほどである。
「……海老名さんの考え方があの二人にも出来ればいいんですが」
「無理ですよ、無理無理。だってあの二人はロックが好きなんですよ? あの二人が物分かり良くなったら魅力が超激減ですもん!」
音楽コースに進んでいる上にロックをこよなく愛しロックバンドを組んでいる美月と雪彦にとって、権力に対する反逆心こそが非常に重要なのだろう。
曰く、美月は以前にこう言った――言われるがまま行動し、考えることを放棄したら、そんなもの人形と変わらない。何も生み出せないし、何もできやしない。
……女子高生が言うセリフにしては恰好が良すぎるのである。
「まぁ、海老名さんの言っていることは否定しませんよ。ところでその二人はまだ寝ているのですか?」
「雪彦と美月ちゃんは朝も反抗的なんだろうね~。そんなことはどうでもいいからちひろん、朝ごはん食べたーい!!」
本当に二人のことはどうでもいいのだろう。初香は朝から一色に抱き着いて朝食をねだってきた。
……ボディータッチが多いのは今さらだ。一色の入部当初なんて、部活に行く度に交流という名目で抱き着きまくられていたのだから、慣れても不思議ではない。
「は、初香先輩! 一色くんが困るからそういうのは控えてって何時も言ってますよね!」
「いいのいいの、ちひろんからすれば役得だからさー」
「……あんたの朝食抜きです」
はた迷惑なことを言うものであるから、一色は冷たい目でそう突き放すのであった。
起きてこない和那は一色が、美月は水無月が、雪彦は渡邊がそれぞれ起こしに行くことになった。このとき、わざわざ渡邊が起こしに行くことになったのは初香の仕業であり、そしてそれに敢えて乗っかったのは彼自身である。そしてその結果は、
「――初香、おまえなぁぁ!! 朝っぱらから心臓に悪いんだよ!!」
「えー、何が? すっごく目の覚める刺激的な目覚ましでしょうに」
「刺激的過ぎて朝から発狂したから怒ってんだよ!! 朝から渡邊先生の笑顔とか嬉しくもなんともないわぁ!!」
実に効果覿面であった。なお雪彦の今の発言で口角をにやりと上げている渡邊の考えなど、到底理解することはできない。
和那と美月は平和に起床し、今は若干寝ぼけながらもテーブルの前に座っている。和那は先日からの続きという風に水無月に何とか視線を合わせないようにしていた。
「…………っ」
無論、慣れることはない。しかしグッと唇を噛んで堪える。そして一色と視線を合わせ、互いに頷き合った。
水無月は昨夜の一色との作戦第一弾を思い出す。
『お前は何とか和那と仲直りしようとして周りをうろついていたけど、あれは逆効果だ。だけど今日のお前の行動は決して無駄にはならない。良いか、明日の朝からお前は徹することはただ一つ――和那に対して近づき過ぎず、離れすぎない距離感で接するんだ。良い例は咲良先生だ。あの人を参考に頑張ってみよう』
水無月は思い出し、物陰で気合を入れる。既に仕上げているフレンチトーストの皿を持ち、それぞれに配膳していく。そして和那に料理を渡すときに更に一色のアドバイスを思い出す。
『まずは構いすぎるな。朝はおはようとか召し上がれ程度で良い。ここで絡まずに普通に接することで、和那は罪悪感が生まれるはずだ。あいつはそういうやつだ。ここでまずは土台を仕込もう』
「(――ありがとう、一色くん。私、頑張るよ!)」
意を決し、和那の前に皿を置き、そして少しだけ笑みを浮かべる水無月。そして……
「おはよう。たくさんあるから、ゆっくり食べてね」
「う、うん……」
完璧であった。ごく自然な流れで和那に話しかけただけでなく、和那もまた呆気を取られて反応してしまった。
まるで弟子のデビュー戦をハラハラしながら見ている師匠のような気持ちの一色は、その光景を見て皆の見えない物陰で小さくガッツポーズをする。
……和那の視線は水無月に釘付けになる。しかし水無月はそれ以上のアクションを起こすことをせず、自分の席についた。しかもその席が和那から遠すぎず近すぎずの絶妙なポジションである。
「ね、ねぇおにいちゃん」
「ん、なんだ?」
「えっと、その……あの、ね?」
一色に対して何かを尋ねようとする和那であるが、言いたいことが定まらずにしどろもどろになる。何を言いたいかは明白だ。しかしそれをはっきりと言葉に出来ない和那はあわあわとしていた。
――しかしすぐに和那は目の前の朝食に釘付けになった。
「ふ、フレンチトースト!!」
和那にしては大きな声量で、年頃の子供のような嬉しそうな声を漏らす。一色家では見慣れない朝食な上に、甘いものが大好物な和那にとって、それはご馳走のように見えたのだろう。
しかも他の皆よりも量が多いこともあり、和那はそれを嬉しそうに食べた。メイプルシロップを掛け、上から微量の粉砂糖を振りかけ、一口食べると……
「お、おいし~~~っ」
――文字通り、顔が蕩けた。
それを見た瞬間、水無月も破顔する。これまでの人生でここまでおいしいと言われて嬉しかったことがないほどだ。
すると和那が一瞬水無月の方を見つめる。すると彼女はすぐに表情を元に戻す。……器用なもので、ギリギリではあるものの気付かれていなかった。
「…………」
水無月の隣に座る一色は、彼女の手元を見る。一色の対面席に座る和那には見えないが、水無月は机の下で自分の皮膚を抓り、痛みで表情を保っていたのだ。流石の一色も水無月に苦笑いを隠しきれない。
ともあれ、朝食の作戦は無事に成功したのであった。




